望みに支えられて生きる

創世記3章15-19節 マルコによる福音書8章22-26節 2025年10月12日((日)特別伝道礼拝説教

教師 崔 炳一(チェ・ピョンイル)

 私は聞いた悲しいお知らせを紹介します。それは、神学大学院で3年間一緒に学んでいた友人のことです。彼は卒業後には東マレシーア(ムスリム地域)で宣教活動をしていました。彼が血液がんで治療を受けているとのことです。彼の報告によれば、人のこぶしの半分くらいの大きさのがん取り除いたとのことです。でも、また違うところで腫瘍がみつかったのです。それを取り除けるとまた、ふともものほうにもがんがみつかった。何度も手術して取り除いてもきりがない。仕方がなく宣教活動を休止してソウルの大学病院で入院生活をしているのです。これまでで25以上の放射線治療を受けていたのですが、最近は頻度を少なくして10回くらいの放射線をうけている。でも、そのあびる放射線のレベルは25回以上のときより強いとのことです。

 そんな彼ですが、報告の最後にローマの信徒への手紙6:13を書き、この御言葉から言い尽くせない慰めを受けており、治療を感謝して受けていますと書いたのです。「また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい」。がんの塊のような自分の身体を神にささげたい。これが今、がんと闘っている友人牧師の告白であって、まさに彼の信仰であります。創世記3章に書いてあるように、「塵に過ぎない」人間。でも、人生の最後を主にささげたい。それが望みであります。

 信仰が素晴らしい。すごい忍耐だと軽く言えそうなことではないと思います。もし、自分がこういうことに遭遇したら果たしてあのような告白ができるだろうか?と問いかけると、自信はありません。でも、一つ確かに言えるのは、人間苦しみの中で神のことばがあったことです。神が御ことばを通して、友人の苦しみの中に入ってくださったことです。そこで、彼はこれまでとの違う新しい信仰の世界へと導かれており、まさに今そういうことを経験しているとのことです。

 私は「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ」を通して、ガラテヤの信徒への手紙2:19-20を思い起こしました。「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」。神のことばが臨むとき、また神がことばを通して神の選びを示すとき、そのときから新しい経験の世界へと導かれるのです。それが私の友人の望みであって、彼は、苦しみの中においても望みに支えられているのです。でも、私たちは問うのです。もし、自分がこういう状態だったら。つまり先の見えないときに果たして望みに支えられて生きることを願うのだろうか、ということです。皆さん、如何でしょうか。どう思うのでしょうか。皆さんはなんと答えるのでしょうか。

 さて、今日の聖書箇所に戻りましょう。マルコによる福音書8:22-26です。ここにはある盲人が出ており、彼が主イエスに癒されるのです。目が見えないという障害を背負って生きるとうことって、本当に不幸な状態です。おそらく私たちはその苦しみを知らないと思います。この盲人を主イエスは癒されるのです。23節ですが、主イエスは「彼の目に唾をつけ、両手をその人の上に置きます」。すると、かすかに見えたのです。人が木のように見えたのです。それで主イエスはもう一度、両手を目に当てるのです。すると25節ですが、「何でもはっきり見えるようになった」のです。

 この箇所を読むとき、この盲人は生まれながら盲人ではないことが分かります。それは彼がイエスに「人が木のように見える」と言ったからです。この盲人は、一度くらいは、木をみたこともあり、人を見たこともあります。おそらく途中で何かの原因によって失明をした人だと思うのです。生まれるときから目が見えない。光を経験したことのないので、失礼ですが、苦しいけど途中で失明した人のほうがもっとも苦しいはずです。見えるはずだった人が見えなくなった。治る可能性はほぼゼロ。つまり絶望です。それは人生の終わりを告げることです。生きていても死んでいる状態とやや似ています。生きる意味がない。不幸の不幸です。毎日見えるのはおそらく私たちが目をつぶって見えるような暗い世界のみです。朝起きても、夜になっても同じくらい世界と付き合うのです。望みなしの毎日の中で息をしているだけでした。人々から与えられるもので生きるのです。どんな楽しみがあったのでしょうか。生きる楽しみのない人生って、ほぼ絶望ではないでしょうか。

 しかし、この盲人が主イエスに出会うチャンスが与えられたのです。そして目が見えるようになったのです。この盲人と先ほど紹介した私の友人は同じ恵みを経験しているのだと思います。盲人は主イエスに出会って「光の世界へと導かれた」のです。友人は「キリストの言葉が与えられ、それに支えられ明日への生きる勇気を見つけることができた」からです。二人ともキリストにつながっているのです。主イエスが希望であって、主イエスとの出会いによって望みに支えられる経験ができたのです。目には見えないイエスですが、聖書の御言葉を通して存在を表すのです。それを拒むことはできないのです(ことばを拒むことはできます。また、語られることばを拒むことも十分可能です。でも、見えないけれど、存在するイエスを拒むことはできないのです)。光である主イエスの前で人間を苦しめた暗闇が過ぎ去ったことと同じです。望みとは何か?それはすべての状況が良くなることではないと思います。確かにそれも希望だと言えますが、そのようになるのは主イエスにゆだねることが許されたからです。私たちと私たちの教会が、また社会が主イエスと出会うことができ、そこで御言葉が与えられ、それによって望みなしの自分の明日を委ねることができるのであれば、そのようになると、まさにそのときが、そのことが望みであり、望みに支えられるときなのです。

 Fanny Jane Crosbyという人をご存知ですか。1820-1915(94歳)に召された女性で、およそ生涯において8000~10000以上の讃美歌歌詞、讃美歌をつくった人として知られています。彼女は生まれて6週目のとき医師の過ちで視力が弱くなり、それが原因で視力を失うのです。だからクロスビーほぼ94年間、暗い世界で生きていたのです。彼女の父も彼女が幼いときに天に召されます。家は貧しくなり、生計を母が立てたため、彼女は祖母によって育てられるのです。その祖母は信仰の深い人でした。目は見えないが、祖母の教育によって新約聖書をほとんど暗記ができ、旧約聖書をも創世記から申命記までは暗記し、詩編、ルツ記、箴言をもすべて覚えることができたそうです。しかし、この祖母もクロスビーが11歳のとき天に召されます。

 貧しさの中でもクロスビーの唯一の慰めは、イエス・キリストでした。彼女は毎日祈り、神の導きをひたすら求めていたのです。1834年盲人学校に奨学生として入学が許されます。彼女が書く詩は讃美歌の歌詞となり、いつの間にか彼女は有名な讃美歌歌詞を書く人になっていたのです。けれども、決して平坦な人生ではありませんでした。結婚をしたが、1年後に生まれた子供が生まれて間もなく死ぬ。でも、彼女は彼女慰める人々に、「神は私たちに子どもを授けてくださいました。でも、天使らが降ってきて子どもを天に連れていきました。私たちは子どもを神の玉座に委ねました」と言いながら、むしろ彼女を慰める人々を慰めたそうです。また、愛する夫も天に召されるのです。悲しみと苦しみ、また貧しさが彼女の人生でしたが、生涯において讃美歌歌詞を書き、毎週、彼女の説き明かしを聞くために集まる人々の前で死ぬときまで神のことを伝えたのです。

 クロスビーはアメリカ人が選んだ大統領より尊敬される人だと言われています。彼女は「自分は生まれ変わっても盲人として生まれることを願う。なぜならば、一番先に見る顔がキリストの顔だから」と言ったのです。クロスビーは人生の望みがキリストであって、まさに望みに支えられて生きていた人でした。彼女が書いた讃美歌の歌詞を紹介します。タイトルは「救い主イエスとともに歩む道は」(All the Way My Savior Leads Me)です。『聖歌590番』です。実は私がもっとも好きな讃美歌の1曲ですし、またアメリカのクリスチャンの好きな讃美歌の一つでもあります。

「1、すく主イエスと、ともに行くみは、とぼしきことなく、おそれもあらじ。イエスはやすきもて、こころたらわせ、ものことすべてを、よきになしたもう、ものことすべてを、よきになしたもう。

 2、坂道につよき、御手をさしのべ、こころみのときは、めぐみをたもう。よわきわがたまの、かわきおりしも、目の前の岩は、さけて水わく、目の前の岩は、さけて水わく。

 3、いかにみちみてる、めぐみなるかや、やくそくしませる、家にかえらば。わがたまは歌わん、ちからのかぎり、君にまもられて今日まできぬと、君にまもられて今日まできぬと」。

 いかがでしょうか。とても力強い讃美歌です。ぜひ、You Tubeで聞いてみてください。励まされ、慰められるのです。聞くだけでもキリストに望みを置くことができ、すでに支えられている思いが与えられるのです。苦しき人生がキリストへの望みによって満たされているからです。

 それでは、いつが望みをいだくことのできるときでしょうか?それは、主イエスとの出会いによって主イエスがともにいるときであり、すべての抑圧や偏見、また不信仰から解放されるときです。おそらく、マルコによる福音書8:22-26に出てくる盲人は、偏見の中で生きていたと思います。それは、ヨハネによる福音書9:1-12ですが、生まれつきの盲人を癒す主イエスの奇跡の物語がそれを語っているからです。生まれつき目の見えない人。確かに不幸な人です。その人を見かけられたとき、弟子たちは「この人が生まれつき目の見えない状態で生まれたのは誰の罪ですか?」と主イエスに聞きます。弟子たちがこう聞いたのは、当時のユダヤ人の迷信です。人間が罪を犯したので、神罰をうけたのだという迷信です。そこで主イエスは、誰の罪のせいではなく、「神の業がこの人に現れるためである」と言い返します。

 この主イエスの答えは素晴らしいと思います。弟子たちは原因を考えたのです。でも、いくら原因のみを探っても不幸な現実からこの盲人を解放してあげることはできないのです。主は、しかし神の業が現れるためだと言うのです。見えない現実のみならず、人々から罪深い人と言われていた精神的、心のケア―まで考えてこう言ったのです。癒しによって目が見えるようになったのですが、すべての迷信からも解放されたのです。実は、この盲人のみならず、弟子たちも目が開かれたのではないでしょうか。新しい信仰の世界へと導かれたのです。本当は弟子たちも迷信に囚われていたのです。神の働きがすべての迷信から解放されたのです。こういうときに人間は明日への望みを抱くことができると思います。

 苦しみの原因のみを、あるいは不幸な現実のみばかり議論すると、何の答えは出ておりません。そういうときに、つまり私たちからは先の見えないときにも必ず神が働いておられるときです。私たちが見えない状態に囚われており、本当にみるべきものを見逃すときに、神への信仰によって光が見えてくると神への望みを託すことができるのです。そして、もし、私たちがこういう姿を次の人に見せ、神への思いを伝えることができれば、どんなときにも望みを託す姿を次の人に伝えることができれば、そこに信仰継承がすでに起きるのです。それは、彼らも主イエスに望みを託すことができるからです。それがまさに人生を主イエス・キリストに委ねることではないでしょうか?

 苦しみや絶望の中でも、希望を失わずに生きる力があります。それは、イエス・キリストとの出会いによって与えられる「望み」です。共に希望の光を見つけませんか? 病や苦しみ、将来の不安に押しつぶされそうになることはありませんか?そんな中でも、イエス・キリストとの出会いは、私たちに新しい希望と生きる力を与えてくれます。救い主イエスとともに歩んでくださることを信じながら「望みに支えられて生きる」意味深められることを祈りつつ、仕えていきたいと思います。