マルコによる福音書12章18~27節 2025年5月18日(日)伝道礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日のマルコによる福音書12章18節以下には、「サドカイ派の人々」が登場してきました。福音書によく出て来るファリサイ派と並ぶ、ユダヤ教の一派です。サドカイ派のメンバーは主に、上級祭司、貴族、富裕層の人々です。そのようなこともあり、彼らは社会的な変革を望まない、保守的な人々でした。最高法院においては与党の立場にあり、政治的な指導権を握っていました。
彼らは宗教的にも保守的な一派でした。彼らは聖書のうち、律法の書(つまりモーセ五書、創世記から申命記まで)しか認めません。律法の書に明記されていること以外は、いっさい信じません。ですから彼らは復活を信じない。来世を信じません。「死んだら終わり」ということです。宗教的に保守的な人々が来世を信じないというのは、私たちの感覚からすると変ですが、ユダヤ教においてはそうなのです。確かにモーセ五書だけを見るならば、復活についても、来世についても、文字通りの意味においてそのような表現は出て来ません。同様の理由から、彼らは霊の存在も信じない。メシアを待望することもありません。
しかし、恐らく彼らがそれらを信じなかったのは、モーセの律法に文字通りに書かれていないから、という理由だけではないでしょう。ある意味では信じる必要もなかったのです。この世において恵まれていますから、この世のことだけで十分なのです。目に見えるものだけで十分なのです。現在のことだけでよいのです。終末の希望は必要ないのです。それでも神殿の儀式においては、自分の位置づけを持っています。宗教的なコミュニティにおいては、指導的な立場にあります。この世のことだけ考えていても、十分に宗教的でいられるのです。
ということで、今日の聖書箇所にはそのようなサドカイ派の人々が、「復活はないと言っているサドカイ派の人々」(18節)として登場してきます。これに対して、福音書によく出てくるファリサイ派の人たちは、復活も来世も霊の存在も信じています。ですからサドカイ派とファリサイ派は宗教的には対立関係にあります。そのようなファリサイ派に対して、サドカイ派の人たちが復活や来世があることを否定するために用いていた論拠が、今日の聖書個所に出てきた話なのです。そのような話を、彼らは主イエスのもとに持ってきて論争をしかけたのです。
サドカイ派の人たちは、旧約聖書の申命記を引用してこう語り出します。「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が死に、妻を後に残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と」(19節)。ここに出てきますのは、私たちには馴染みの薄い「レビラート婚」という制度です。子孫を絶やさぬための制度でありまして、今日でも世界の少数民族などにおいて見られると言われます。まさにこの律法の言葉こそ、復活がないことの決定的な証拠になると彼らは考えていたのです。
続けて彼らはこう問いかけました。「ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、跡継ぎを残さないで死にました。次男がその女を妻にしましたが、跡継ぎを残さないで死に、三男も同様でした。こうして、七人とも跡継ぎを残しませんでした。最後にその女も死にました。復活の時、彼らが復活すると、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(20~23節)。
これはレビラート婚の制度に馴染みがなくても、例えば配偶者と死別した後に再婚した人のことを考えれば分かると思います。復活があり来世があると困ったことになる、ということです。先にも申しましたように、このような議論は通常ファリサイ派との間でなされていたものです。そして、復活を信じるファリサイ派には一応答えがありまして、この場合、妻は長男のものとなることになっていたそうです。しかし、主イエスはそのようには答えませんでした。
主は言われました。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。死者の中から復活するときには、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」(24~25節)。「めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とは、この世におけるあり方とは全く異なるということです。救いが完全に実現している復活の世界を、今のこの世の延長のように考えてはならない、単にこの世の生活から類推して考えてはならない、ということです。
しかし、主イエスは単に答えを与えたのではありません。「あなたがたは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか」と言われるのです。これは実に強烈な言葉です。明らかに主イエスは、時の宗教家たちの無意味で思弁的な議論にうんざりしているのです。
それはただ単に、復活を否定するためにこんな論争を持ちかけたサドカイ派の人々に対してだけではありません。復活を信じていると言っているファリサイ派の人々に対してもそうなのです。いや、むしろ主イエスはファリサイ派の人たちにこそ、語りたかったのかもしれません。なぜなら先に触れました「妻は長男のものとなる」というような答えこそ、まさに来るべき救いの世界を今の世の延長線でしか考えていないことを示しているからです。
神がその独り子さえもこの世に送り、人の思いを遙かに超えた圧倒的な御力をもって、罪からも死からも解放して完全な救いを与えようされている。それなのにこちら側では、「七人の兄弟と結婚した女は、誰の妻になるんでしょうなぁ」などということを言っているわけです。しかも祭司たちが、律法学者たちが、そんな次元のことを議論しているのです。救いのために遣わされた主イエスとしては、もう悲しくて、情けなくて、うんざりしていたに違いありません。
しかし、彼らの姿は他ならぬ私たちの姿でもあるのでしょう。私たちがたとえどのような者であっても完全に救うことのできる神の力を、今ここにいる私たちは本当に信じているのでしょうか。「あなたがたは聖書も神の力も知らない」とは、私たちに対する言葉でもあるのではないでしょうか。
それゆえに、主イエスは聖書を引用してこのような話をしてくださったのです。「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている」(26~27節)。
「『柴』の箇所」というのは、出エジプト記3章に出ているモーセが羊の群れを飼っていた時に、ホレブの山で燃える柴を見たという話です。柴は燃えているのに燃え尽きない。不思議に思って近づいてみると、神がモーセに声をかけられた。その時に神様が自らを表現した言葉がこれです。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)。
柴の炎は明らかに神の現臨を示しています。神がそこにおられる。しかも、炎は消えないのです。燃え続けている。いわば「燃え続ける神」がそこにおられるのです。神は過去の神ではなく、永遠に神であり続けるということです。神であり続けるということは、抽象的なことではありません。人との関わりにおいて、神であり続けるということです。《あなたの神であり続ける》ということです。モーセはそのような神に出会ったのです。
神は言われました。わたしはアブラハムの神である、と。アブラハムはもう数百年前に死んでいるのです。しかし、神は「わたしはアブラハムの神である」と言われるのです。そして、イサクの神であり、ヤコブの神であるとも言われる。その神がモーセに現れて、わたしは必ずあなたと共にいる、と言われたのです。わたしはあなたの神でもある、ということです。あなたの神であり続ける。そして、あなたが導き出すイスラエルの神となり、イスラエルの神であり続ける。それが、この「『柴』の箇所」で語られていることです。
燃え続ける神、関わり続ける神、あなたの神であり続ける神。神がそのような神として御自身を示されたことこそ、来世を信じる根拠なのです。復活を信じ、完全な救いの世界を信じる根拠なのです。神がアブラハムの神であり、イサクの神であり、ヤコブの神であり、わたしの神であり、あなたの神であるならば、アブラハムもヤコブもわたしもあなたも、死んで終わりではないのです。人は神によって、死んでも生きるのです。神は死んだ者の神ではありません。死の中に私たちを放置しておく神ではありません。死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのです。
そのように、モーセは燃え尽きない柴に出会いました。燃え尽きない炎の中から、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」との声を聞きました。そして、私たちもまた、同じように燃え尽きない柴に出会っているのです。すなわち、イエス・キリストこそ、私たちに対して神が御自身を現された「燃え尽きない柴」に他ならないのです。
今日お読みしました箇所は、主イエスが十字架にかけられる数日前のことです。物語は、イエス・キリストへの死へと向かっているのです。炎は燃え尽きてしまうかのように見えます。しかし、柴の炎は燃え尽きませんでした。キリストは復活して、永遠に燃え尽きることのない神の炎を見せてくださったのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」ということを見せてくださったのです。
この神との関わりにおいてこそ、人は本当の意味で死を越えた希望に生きることができるのです。神を礼拝し、神に祈り、神との交わりの中に生きていく。キリストを復活させた神の力に、そのように触れながら生きてこそ、人は復活の希望、来世の希望、完全な救いにあずかる希望を持って生きることができるのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」この主イエスの御言葉を、心に刻み付けたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今朝も愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは言われました。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」神様は永遠に生きておられます。その神様が私たちの神様であり続けてくださいます。それゆえに私たち死すべき人間も、死を超えて永遠に生きる望みを与えられています。神様、私たち一人一人に、聖書を通して、神の御力によって、そのことを揺るぎなく信じさせてください。まだ5月の中旬ですのに、ここしばらくは気温30度に迫る日が続きます。体調を維持するのが困難です。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。神様、今世界は本当に不安定な状況に置かれています。共に歩もうとしない自国中心主義の政治が、不安を増大させています。どうか、為政者たちの思いを糾し、あなたの御心がこの地にも実現しますよう、世界を導いていてください。この拙き切なる祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン