御心が行われますように

創世記14章1~16節  2025年5月11日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 

 今日の聖書である創世記14章は、創世記の中で最も謎に満ちた章です。旧約聖書の中で、最も解釈が難しい箇所の一つであるとも言われます。ここでのアブラムは、かなりの数の部下を従えて、戦場に赴くことのできる軍事指揮官として登場します。そういうアブラムというのは、ここだけです。

 また1~11節の問に9人の王の名前が出てきますが、この9人の王が一体誰であったのか全くわかりません。王の名前も地名も、ほとんど捉えどころがありません。この物語の背後には一体何かあったのか、それもわからない。何らかの歴史的事実に基づいているのかどうかもわからない。しかしそれならば、どうしてこんなことをたくさん書く必要があったのか、それも疑問です。この難解な章を解きほぐしながら、宝探しをするようなつもりで読んでみたいと思います。

 他のところでは、いつも最初からアブラムが関心の中心ですが、この14章では、最初アブラムとは関係のない王たちの戦いの物語で始まります。これは、聖書に出てくる最初の戦争です。そして残念ながら最後ではありません。この後、聖書には血なまぐさい戦争がたくさん出てくる。そしてその戦争の歴史は聖書の中にとどまらず、今日にいたるまで延々と続いています。

 アブラムが戦争に参加したということは、私たちの気持ちを重くさせます。「アブラムよ、お前もか!」と言いたくなります。ただ少しだけ彼を擁護して言えば、アブラムはただただ甥のロトを救出するために、戦争に参加したのでした。アブラムは、甥のロトが捕虜になったというところから登場いたします。

「ソドムに住んでいたアブラムの甥ロトも、財産もろとも連れ去られた。逃げ延びた一人の男がヘブライ人アブラムのもとに来て、そのことを知らせた。アブラムは当時、アモリ人マムレの樫の木の傍らに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼らはアブラムと同盟を結んでいた。アブラムは、親族の者が捕虜になったと聞いて、彼の家で生まれた奴隷で、訓練を受けた者318人を召集し、ダンまで追跡した」(14:12~14)。

アブラムは、いつの間にかものすごい力と兵を備えた人間になっています。ア

ブラムは不思議にもこの戦争に勝利し、一夜のうちに同盟軍の英雄になってしまいます(14:15~16)。今や彼には、何でも思いのままであったことと思います。一国の王、権力者になるチャンスでもありました。ここで、彼が権力を手にしていれば、彼の戦いも「甥ロトの救出」を名目にした打算的な戦いであったことになっていたでしょう。

 戦いに勝って凱旋したときに、ソドムの王はアブラムに、「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」(14:21)と言いましたが、アブラムは「あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません」(14:23)と答えました。このとき、アブラムの心は神に対して開かれており、神が勝利をもたらしてくださったという思いであったのでしょう。ただし「若い者たちが食べたものと、わたしと共に戦った人々……の分は別です。彼らには分け前を取らせてください」(14:24)と言って、盟友に配慮を見せているのはおもしろいと思います。

 さて私たちは、この物語から「正義のための戦争」は正しい、という結論を引き出しそうになりますが、そのことは今日の世界においては、とても危険です。人が戦争をするときには、いつも「正義のために」ということが語られ、人道的動機や宗教的動機が表に担ぎ出されます。しかしその陰には、ほとんどいつも何か別の打算的な目的があって、それをカモフラージュし、その戦争を正当化するために、人道的・宗教的動機がもち出されるからです。

 木村公一という牧師が「パクス・アメリカーナとキリストの平和」という講演をなさり、それがブックレット『キリストの平和』に収められています。その中で、木村先生は、マクソーリーという人(米国のカトリックの倫理学者で平和活動家)の「アウグスティヌスとトマス・アキナスの戦争と平和に関する学説」を紹介しておられます。そこでは、「いかなる条件のもとで行われるとすれば、その戦争は正しいのか」という議論がなされているとのことです。誤解のないように言えば、「聖戦」(Holy War)ではなく、「正戦」(Just War)です。マクソーリーによれば、アウグスティヌスは「正戦」に五つの条件をあげているそうです。

 第一番目は、宣戦布告という原則です。宣戦布告をしないで開始した戦争、たとえば遊撃戦とか、奇襲とかはよくない。公権による宣戦布告が必要だということです。

 第二番目は、戦争は最後の手段であるという原則です。まださまざまな平和的手段が取れるならば、その努力を先にすべきであって戦争に訴えるべきではない。

 第三番目には、宣戦布告する側に求められる正しい意図の原則です。戦争突入は正義の回復のためであって、領土の拡張や経済権益の拡大のためであってはならない。

 第四番目は、無辜の民衆の殺傷禁止の原則です。民間人を巻き込んではならないし、攻撃してもいけない。つまり、軍と民を明確に区別して、軍だけを戦闘の対象とする、ということです。

 第五番目は、釣り合いの原則です。これは、戦争によって発生する被害と、戦争によって回復される善とを天秤にかけて、後者のほうが大きければ、その戦争は「正戦」と言えるということです。

 いかがでしょうか。昔は、その条件を満たす戦争があり得たかもしれません。しかし今日はたして、「正戦」は可能なのでしょうか。木村先生は、現代の戦争は、そのどの条件も満たし得ないと言われています。

 第一の宣戦布告に関して言えば、「真珠湾攻撃は宣戦布告のない戦争だ」と、しばしば引用されます。アメリカのベトナム戦争も宣戦布告はありませんでした。今日では、「ボタンを押したら24分間で大陸間弾道弾が届いてしまう」というのですから、国会を召集して「宣戦布告を承認してください」と決議をとる暇(いとま)はありません。核大陸間弾道弾や巡航ミサイルは、この宣戦布告の原則を無効にしてしまったのです。

 二番目の「最後の手段の原則」と三番目の「正しい意図の原則」は、非常に主観的です。戦争を仕掛ける側にとっては、それはいつも最後の手段であると思っているわけですし、そこにはいつも正しい意図があると思っているわけですから、もともと非常にあやしいものです。

 四番目の非戦闘員への攻撃禁止については、今日、民間人を巻き込まないということは、もはやあり得ません。戦争はいつも弱い側の国土が戦場になりますが、その国の民間人を必然的に巻き込んでしまいます。広島と長崎へ投下された原子爆弾も、国際法を無視した一般市民に対する大量殺戮でした。

 五番目の「釣り合いの原則」はどうでしょうか。もともと被害を数値化するなどというのはできないことですが、今日の戦争では、起きた後のことを考えると、どんなに回復されるものがよかったとしても、もたらされる被害は計り知れないほど大きいものです。

 私たちには、もはやどのような戦争ならあり得るか、と言っている余裕はありません。もはやいかなる戦争もできない時代に突入しているのだ、という現実を認識しなければならないと思います。

 さて戦争についての記述の後で、創世記の14章では、凱旋したアブラムの前に謎の人物が現れます。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデク」です。サレムとはエルサレムのことであろう、と言われます。メルキゼデクは王であり、かつ祭司でもあったと言います。彼は謎のうちに現れ、謎のうちに去って行きます。「いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。彼はアブラムを祝福して言った。『天地の造り主、いと高き神に/アブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。』」(14:18~20)

 このメルキゼデクが誰であるかは、よくわからないのですが、詩編110編において言及されて、さらにヘブライ人への手紙でも引用されています。ヘブライ人への手紙の著者は、このメルキゼデクについて、こう記しています。

「このメルキゼデクはサレムの王であり、いと高き神の祭司でしたが、王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました。……メルキゼデクという名の意味は、まず、『義の王』、次に『サレムの王』、つまり『平和の王』です。彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」     (ヘブライ7:1~3)。

ヘブライ人への手紙の著者は、メルキゼデクがアブラハムよりも上に立ってい

ることを強調し(ヘブライ7:4参照)、彼は大祭司として、イエス・キリストを指し示しているというのです(ヘブライ4:14~8:6)。

 メルキゼデクは、アブラムを祝福するために現れました。彼は、王であり、同時に祭司でありました。祭司と王というのは、神と人間の間に立つ重要な職務であると考えられていました。さらに言いますと、もうひとつ神と人間の間に立つ職務は預言者でありました。預言者というのは、神様の言葉を人間に告げる人です。ベクトルで言うと、神から人間への方向の役割を担っている。それに対して、祭司というのは、民に代わって、民を代表して、神に向かって罪の贖いと執り成しを祈る人です。人間から神への方向のベクトルです。王というのは、神に代わって、神のみ心に従って、民を治める職務です。

 イエス・キリストというお方は、まさにこの神と人間の間に立つ三つの職務(預言者、祭司、王)を兼ね備えた存在として、この世界に来られました。預言者や祭司や王がその職務に就くときには、油注ぎがなされましたが(出エジプト28:41、サムエル下2:4、列王上19:16等)、まさにキリストという言葉は、「油注がれた者」という意味なのです(ヘブライ語ではメシア)。

 新約聖書は、イエス・キリストは神の言葉が肉体となった方(受肉、ヨハネ1:14)と告げています。神の言葉そのものであると言ってもよいでしょう。その意味で、「預言者の中の預言者」です。

 また祭司は、そのつど、そのつど、犠牲の捧げものをして罪の赦しを祈ってきましたが、イエス・キリストはご自身がどんな犠牲よりも尊い捧げものです。「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている」(ヘブライ7:26)。ご自身を、私たちの罪のために捧げて、執り成しをなされた「祭司の中の祭司」、大祭司でありました。

 同時に、イエス・キリストは、仕えられることによってではなく仕えることによってこの世界を支配された王、「王の中の王」、ヘンデルの「メサイア」のハレルヤ・コーラスにありますように「キング・オブ・キングズ」です。そのような形で、この世界を真実に支配される王です。

 メルキゼデクは、そういう祭司の中の祭司、王の中の王をほうふっとさせる存在です。それははるかにイエス・キリストを指し示しています。だからこそ、アブラムの上に立って、アブラムを祝福する地位にあったと考えるのです。

 私は牧師という仕事も、預言者と祭司という両方の側面をもっていると思います。大祭司キリストに仕える者として小さな執り成しをするのです。それと同時に、神様の言葉を取り次ぐ小さな預言者でもあります。王というのは直接的にはあてはまらないと思いますが、イエス・キリストが仕えられる王ではなく、人に仕える王であったということからすれば、牧師もそれにならって人に仕える者とならなければならないと思います。

 先週牧師のいない伝道所の委員さんたちと、伝道所の将来について話す機会がありました。無牧師の教会が年々増えています。委員さんの一人は、日本キリスト教会はもっと牧師を生み出す努力をしてほしいと、切実な思いを込めて語っておられました。本当にその通りだと思いました。イエス・キリストに仕える小さな預言者、小さな祭司である牧師がもっと生み出されるように、私たちも祈りを篤くしてまいりたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。今日は聖書の御言葉を通して、イエス・キリストが真の預言者・祭司・王であることを示されました。主イエスは神様と私たちの間に立って、御言葉を伝え、私たちのために執り成しをしてくださいます。また、神の御心を行うためにこの世に来られた真の王であられます。主は仕えられるためではなく仕えるために、王となってくださいました。私たちは仲保者であるこのお方によって救われ、永遠の命を与えられています。どうぞどのような時にもイエス・キリストに従い依り頼むことができますよう、私たちを導いていてください。今も世界では戦争が絶えません。為政者は人々のためではなく、人々を犠牲にして自分の欲望を満たそうとしています。どうか、為政者の誤った思いをただし、あなたの御心を天におけるように地にも為さしめてください。この拙き切なる願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。