死の壁を超えるもの

ヨハネによる福音書11章17~27節 2025年4月27日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 私は3つの教会で38年間牧師をしてきましたが、仕えてきた教会の交わりの中で、多くの方々が天に召されてまいりました。私は牧師として、お一人おひとりの方々の死に直面して、本当に死の持っている如何ともしがたい凶暴な力に圧倒されてきました。死というものが私たち人間の肉体にとっていかに決定的な力を持っているか、そして死を前にして、私たちの肉体がいかにもろいものであるかということを思い知らされてきたのです。

 何度にもわたる大きな手術を受けても効果なく、死に屈していかなければならなかった方もありました。思いもかけず突然、死が襲いかかってきた方もありました。長い病の中で確実にその命がむしばまれ、死に至った方もありました。死に至るまでの道のりには、それぞれ違ったものがありましたが、しかし、死は確実に私たちの命を飲み込んでいくということだけは、いやというほど思い知らされたものでした。

 こうした死の凶暴な力に直面するごとに、私はいつも大きな問いの前に立たされてきました。それは、「あなたは復活を信じていますか」という問いでした。そしてそのたびごとに私は、「率直に言ってよくわからない」、「主イエスにあって復活するというのが一体どういうことなのか、私にはまだよくわからない」という、自分自身の信仰の不確かさを思い知らされてきたのです。

 しかし同時に、不思議なことですけれども、死がすべてのものを支配しているように見えながらも、死がなお支配しきれないものがそこにある、ということも見させられてきたのです。なぜなら、死が命を飲み込もうとするまさにその瞬間に、かえって希望と喜びとが、死につつある人の中に満ちてくることを何度も見てきたからです。命が敗北しようとするまさにその時に、主イエスの命がそこで輝いていると感じられることが何度もあったからです。このことは私にとっては不思議としか言いようのないことでした。

 今申しましたように、私は牧師として多くの方々の死に直面してきました。しかしそんな時でも、いつも心はどこか冷ややかでした。人の死に立ち会いながらも、私の心の中のどこかで「死はいっさいの終わりだ」という声のささやくのを聞いていたのです。もちろん牧師としてそんなことを他の人に言うわけにまいりませんから、黙っていましたけれど、しかし心のどこかにそのようなしらけた思いがあったのは事実なのです。

「もうすべては終わったんです。いくら悲しんでも、もうその人は戻らないのです。死んだという事実を冷静に受けとめて対処する方が大切です」ということを思い、時には口から出したいような思いが何度もありました。恐ろしいニヒリズムです。死に対する深い絶望感のなせる業だったのでしょう。

 しかし今、私は死の中にこれまでとは少し違ったものを感じることができるようになりました。もちろん死が凶暴な力を失ったからということではありません。あるいは私が人の死に慣れてきたということでもありません。死そのものは相変わらずそのたびごとに凶暴で、正視できないほど恐ろしいものです。そのことは少しも変わることはないのですけれど、いま私は死に直面しても、何かゆとりといいますか、余裕というものを持つことができるようになっているのです。

 ゆとりとか余裕とかと言いますと、死と闘い、苦しんでいる人々に対しては何とも不謹慎な態度です。また、愛する者の死を悲しんでいる人々に対しては、心ないことだと批判されるかもわかりません。あるいは、他人事として冷ややかに傍観しているから、ゆとりや余裕など持ちうるのだと言われるかもしれません。

 けれども、私はそういう意味でゆとりとか余裕とかを言っているのではありません。死は相変わらず耐えがたいものですが、いまの私は、そうした苦しみうめく人と共に主イエスがいたもう、ということを見ることができるようになったのです。それは私か勝手に感じているとか、あるいは私だけがそのように思いこんでいるということではないのです。そうではなくて、死に直面している人がその苦しみの中で主イエスを見、主イエスにすべてをゆだね、死に向かいつつも、なおあるゆとりと余裕とを持っておられるその姿を、私が見ることができるようになったということなのです。

  

 兄弟ラザロの死を悲しんだマルタは、「主よ、もしあなたがここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21)と主イエスに不満をもらしました。

 マルタはここで、「もしあなたがいてくださいましたなら」と言っています。「もし……ならば」、私たちもこうした言葉をくりかえし口にします。もしあのとき病院に行っておれば、こんなことにはならなかったであろうにとか、もっと早くから健康管理をしていたならば、こんなに早く死ななくてもすんだだろうにとか、私たちはうしろへうしろへと目を向けていこうとします。

 マルタもまた過去へと目を向けて、主イエスに不満を言いました。「もしあなたがいてさえくださいましたならば……」

 その時主イエスは答えられました。「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(ヨハネ11:23)と。

 ところがマルタはこれを聞いて、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」(ヨハネ11:24)と答えました。こんどはマルタは、終わりの日という未来に向かって目を向けたのです。このマルタの答えは一見信仰深いものに思えます。

 さきほど、私は死を前にして「あなたはよみがえりを信じていますか」と何度も問われる経験をしてきたと言いましたが、その時、マルタのように「終わりのの日の復活の時に復活することは存じています」と、確信を持って答えることができたなら、どれほど気が楽だったかと思います。しかし、私にはそこまでの確信はなかったのです。

 マルタははっきりと、終わりの日によみがえることは知っていると申しました。

 しかし、主イエスはこのマルタに向かって、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)と答えられています。なんだか、すれ違いの問答に終わっている感じがします。そうです。確かに、マルタは一生懸命主イエスに向かって答えています。

 しかし、彼女は主イエスご自身を見ていないのです。マルタは「二つの時」に向かって目を向けていました。一つは「もしあの時にあなたがいてくださいましたならば」と過去に向けてです。そしてその次には、「終りの日の復活の時に復活することは存じています」と、目をはるか先の未来へと向けていたのです。

 しかし、主イエスが求めておられるのは、過去とか未来に目を向けるのではなく、いま、マルタの前に立つ主イエスを見つめるということなのです。いま、マルタの前に立っておられる主イエス、彼女の悲しみと嘆きとに共にいたもうその主に向かって目を向けること、それが新しい命のはじまりであることを主イエスは語っておられるのです。

 よみがえりの命は、はるか未来に起こることではなく、この主イエスと出会っているところからすでに始まっているのです。私たちの肉体がまさに朽ち果てようとしている時でも、死の苦しみに耐えられずにうめいている時でも、いやもう冷たい躯(むくろ)と化しつつあるその瞬間にあっても、主イエスに向かって目を向け、主イエスにすべてをゆだねることによって、主イエスの命が、すでに私たちのうちにおいて始まっているのです。「私を信じる者は、死んでも生きる」ということは、そういうことなのです。

 前任の教会でのことです。私たちはSさんというご婦人を天にお送りしました。Sさんは若き日に信仰を与えられ、家庭においても、また教会においても誠実そのものの人柄でした。長らく教会の執事としてもご奉仕くださり、日曜日にはだれよりも先に教会に来て、ご奉仕されていました。

 70歳を超えてから脳梗塞を起こされたことがあり、お嬢さんが看護師長をされている大阪府豊中市の病院で手術を受けられました。手術の直前にお訪ねしました時は、手術前の緊張からでしょうか、手術や病状への不安を訴えておられました。しかし、すぐに「クリスチャンのくせに、こんなことではイエス様に笑われますね」と、少し恥ずかしそうに笑っておられました。私は「そんなことありませんよ。みんな死ぬのがこわいのですから」と、慰めにもならないことを言うだけでした。

 その後小康状態となり、退院して同じ豊中市内の高齢介護施設に入所されていました。しかし一年ぐらい後に体調を崩され、病状がさらに悪化しました。お会いするたびに肉体は日ましに衰えているのは明らかでした。しかし、信仰はかえって強められておられることを感じました。

 亡くなる少し前にお訪ねしましたが、もう声を出す元気もなかったのでしょうか、ノートにボールペンで「もうすぐ神様のところに行けそうです」と書かれ、次に私の手のひらに指で「ありがとう、皆さんによろしく」と書き残されたのでした。手のひらに書かれた「見えない文字」を見ながら、私は主イエスの「わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」という言葉を心の中でくりかえし味わっていたのでした。

  先週、私たちはイエス・キリストの復活を祝うイースター礼拝を守りました。私たちの毎日の生活にはいろいろな苦しみや悩みがあります。そして私たちの肉体は確実に死へと向かって進んでいくのです。しかし私たちの肉体が、そして私たちの人生がどのようなものであったとしても、私たちはそのまっただ中で「私を信じるならばたとい死んでも生きる」と語りかけ、私たちと共に歩まれる方のあることを知らされるのです。多くの人々の死に直面して、その死の悲しみと苦しみの中にありながら、それぞれの方が主イエスに向かって、「主を信じます」と告白してこられたのを見ることが許されてきました。

 イースター礼拝を守った私たちも、「主よ、信じます」という告白を共にしたいと願います。そしてその告白が私たちの口からなされる時、私たちの現実がどのようなものであったとしても、いまここで、キリストにある新しい命に生かされていることを、私たちは確信してよいのです。主イエスを信じる者は、死んでも生きかえるからです。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神さま、私たちの目をいつも主イエスに注がせてください。私たちがイエス・キリストの復活の命に生きることができますよう、一人一人を支えていてください。今日礼拝後に行われる墓前礼拝の上に、あなたの導きと祝福をお与えください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。