マルコによる福音書10章35~45節 2025年2月16日(日)伝道礼拝説教
牧師 藤田 浩喜
わたしたちには色々な願いがあります。それは健康を与えられたいとか、人間関係を修復したいといった人間としてごく自然な願いもあれば、ちょっと人には言えないようなひそかな願いもあります。自分では意識していないけれど、無意識に願っていることもあります。
ヤコブとヨハネは、山上で主イエスのお姿が変貌された特別な場面にも連れて行かれた三人のうちの二人です。つまり、弟子の中でも特に主イエスに近い関係にあった二人でした。その彼らには切なる願いがありました。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」つまりこれは、主イエスがこの世界の支配者となられたとき、自分たちをNo2とNo3にしてほしいということでした。
今日、この記事を読むわたしたちは、その後の十字架と復活の出来事、そのときの弟子たちの行動を知っていますから、この場面で彼らがとんでもないことを願っていることがわかります。そもそも主イエスはこの世の支配者になられるために、この世界に来られたわけではないことをわたしたちは知っています。わたしたちはヤコブとヨハネがこの時、見当違いの愚かしいとも思えることを願っていると感じます。そしてまた彼らが主イエスに従って歩んでいながら、とても世俗的な願いをもっているとも感じます。No2とNo3になりたい、それは出世志向や権力志向のように思えます。序列をつけて人間関係を見ていくということは極めて世俗的なものの考え方に感じます。
しかし一方で、この時の彼らにとって、この願いがごく自然で当り前のことだと感じられたとしても、それは不思議ではありません。今日の聖書箇所の直前で、主イエスは弟子たちに三度目の受難予告をなさっています。その予告では、過去二回の受難予告より、さらに詳細な予告がなされているのです。つまり受難というものが現実味を帯びて迫ってきている状況であることがわかります。その予告された受難の場所はエルサレムです。そして一行はまさに、そのエルサレムへと上って行く途上だったのです。
弟子たちは三度の受難予告をされても、その内容についてははっきりとは分かっていなかったでしょう。しかし、そこにたいへんな危険があることは覚悟をしていたのです。それでも彼らは主イエスに従って来たのです。具体的にはどういうことが起こるのか分からなくても、主イエスを見捨てることなくついてきたのです。彼らはどういうことなのかはっきりとは分からないまま、復活という言葉に賭けたのだと思います。そのとき主イエスは栄光をお受けになる、主イエスのご支配が実現するのだと考えていたのです。そのために自分たちも命をかけて共に戦う、それだけの覚悟をもって彼らは主イエスに従って来ました。だから、自分たちにはそれなりの報いがあるはずだと彼らは考えたのです。
だからといって私たちは、彼らが報いを求めることを世俗的だと非難できる立場にはありません。私たち自身もまた信仰生活において、全く見返りを求めていないとは言えないからです。私自身、平安を求めて主イエスを信じました。主イエスを信じたら、不安のない生活ができるかと思ったのです。色々なことが楽になると思ったのです。みなさんひとりひとり、信仰に入られた経緯や思いは異なるでしょう。以前いた教会で知り合った方は「居場所が欲しかった」とおっしゃっていました。私自身は「居場所」という言葉に、多少の違和感を覚えました。信仰的というより、何か教会をこの世的な楽しいコミュニティのように捉えておられるのではないかと感じたからです。でも、どのような動機であれ、そのことを通じて神様は私たちを捉えてくださり、導いてくださいます。一方でご家族や友人に誘われて自然に信仰生活に入られた方も、教会にはたくさんおられます。しかし動機や経緯はどうであれ、私たちは皆、多かれ少なかれ、何らかの自分にとってのプラスになることがあるから、信仰生活を続けているのではないでしょうか。私たちの心は堅い石ころのようなものではありません。意識するしないにかかわらず、何らかの願いを抱いて私たちは信仰生活を送っています。そのわたしたちの願いの中には、ひょっとしたら神様からご覧になって、見当違いのものもあるのかもしれません。
そんなわたしたちに、主イエスはヤコブとヨハネにおっしゃったように「あなたがたは、自分が何を願っているのか、分かっていない」とおっしゃるでしょう。でも、主イエスはそうおっしゃりながら、「黙れ、お前たちは何も分かっていない、引き下がれ」とはおっしゃらないのです。わたしたちの信仰生活におけるちょっとズレたような願いも、端から見て信仰的にどうなのだろうと思えるような願いも、主イエスは聞いてくださるのです。そして受け取ってくださるのです。
ヤコブとヨハネの問題に戻れば、彼らがNo2,No3になりたいと願ったのは単に個人的に立身出世したいということではなく、彼らにとって、イスラエルの救いというのが切実な問題だったという背景もあります。彼らはイスラエルの救いのために、自分を犠牲にしてでも働こうという覚悟はあったのです。彼らはまじめでした。むしろまじめすぎたのです。自分たちのまじめさ、熱心さのゆえに、主イエスがお受けになる栄光に自分たちもあずかれると考えていました。そんな彼らのまじめさを十分に主イエスはご存知でした。そして問われました。「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマをうけることができるか」。ヤコブとヨハネはその問いに、真剣に誠実に答えたのです。「できます」と。本当に彼らはできるつもりだったのです。しかし私たちは、そう答えた彼らが実際にはできなかったことを知っています。
そもそも、これから主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、すべての人間の罪を贖うために神の罰を受けられるということでした。神の怒りの重荷は、神でなければ担うことができません。人間には到底担いきることはできません。十字架の出来事は、神の怒り、裁きでした。それと同時に私たちを義として新しい命を与えてくださることでした。それは神でなければできないことでした。
ヤコブとヨハネだけではなく、すべての人間には耐えることのできない杯を受け、バプテスマをお受けになられ、すべての人間に義と命をあたえてくださったのが、神の御子イエス・キリストでした。そのことを当時のヤコブとヨハネが知ることは、到底できませんでした。主イエスが飲まれる杯と受けられるバプテスマは、ただお一人神の御子だけが担うことのできるものである。それがまったくわからなかったからこそ、彼らは「できます」と答えたのです。
さて、その主イエスへのヤコブとヨハネの直訴を知って、他の弟子たちは腹を立て始めたと言われています。抜け駆けという行為にも、ヤコブとヨハネが自分たちはNo2とNo3にふさわしいと考えていたということにも、他の弟子たちは腹を立てたでしょう。あいつらは自分のことを下に見ていたのか、と思ったことでしょう。しかし抜け駆けが腹立たしかったのは、自分たちも上に行きたいと願っていたからです。自分たちを下に見られて腹を立てたのは、自分たちもまた人間を上と下に分けて見ていたということです。
そんな弟子たちに、主イエスはおっしゃいます。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」これは人に仕える人が偉いのだ、みんなに奉仕する僕のような人が一番上なのだということではありません。そうであれば、逆の競争がおきます。自分こそ、だれよりも仕えている、だから偉いのだ。自分は誰よりも人のために頑張っているから、一番上だということになります。そうではなく、上だ、下だという価値観を棄てなさいということです。上だ、下だ、誰が偉い誰が偉くないという価値観は、私たちが自分たちの熱心さ、まじめさで何かを手に入れることができると考えている時、かならず起こってくるものなのです。
ヤコブとヨハネは、まじめに主イエスについて行こうと考えていました。イスラエルを熱心に救いたいと考えていました。ですからそのことへの報いがあると考えていました。自分たちのまじめさや熱心さによって何かを手に入れようとするとき、そこには人と比べるということが自然に起こってくるのです。あの人より自分は頑張っている、なのにあの人はどうして不真面目なのだという思いがどうしても起こってきます。私たちも、まじめに頑張って何かを手に入れようとするとき、そこに他の人と比べるという思いが入り込んできます。No2、No3にという思いが入り込んでくるのです。逆に自分はまじめにやっているのに人より劣ってしまうと、劣等感を抱いてしまう。がんばってやろうとしてもできない自分に、自信が持てなくなるのです。人と自分を比べる価値観は人間を不幸にします。そして無駄に心身を消耗させてしまうのです。
モーセの十戒の中に「むさぼってはならない」という戒めがあります。むさぼりというのは、自分の欲求をコントロールできない心です。本来与えられた自分の賜物や恵みを越えてほしがる心です。他人のものをうらやみ、他人のものを欲する心です。人より上に、人より偉く、という上昇志向には、自分に本来与えられた恵みで満足しないむさぼりの心があります。そこには罪があります。しかし、そのように罪深く生きるために、神は私たちをお造りになったのではありません。むさぼりから解き放たれてもっと自由に豊かに生きるために、私たちはこの世界にあるのです。そのために、主イエスはお越しになりました。
「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」と主イエスはおっしゃいました。人より上に人より偉く、そんな思いから私たちを解き放つために主イエスは来られました。「多くの人の身代金」とは「すべての人の身代金」ということです。その身代金が、十字架と復活の出来事によって、キリストの命によって支払われました。それは私たちがまじめだから熱心だから、支払われたのではありません。ただ神の愛と憐れみによって支払われたのです。私たちはその恵みを受けたのです。恵みの上に恵みを受けたのです。
すでに罪の負債は返済されました。ですから私たちは神の前にあって、もうむさぼる必要はないのです。上に上にと努力する必要はないのです。一人一人に与えられた特別な賜物と役割があります。そこで仕えるのです。一人一人が与えられた隣人のために仕えるのです。それが私たちの杯でありバプテスマです。
私たちは頑張って人に仕えるのではありません。自分の熱心に頼って人のために奉仕するのではありません。ましてや、自分の欲望を無理に抑え込む必要はありません。すでに身代金は支払われました。私たちは自由な心で喜びをもって神に願い、それぞれにあたえられた所で仕えるのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。御子イエス・キリストは、私たちを罪と死から救うために、十字架の杯を受け、復活してくださいました。主イエスが仕えてくださったことによって、わたしたちは朽ちることのない命に生かされています。どうか、その恵みをいただいているわたしたちが、自由と喜びをもって仕える者となることができますよう、一人一人を導いていてください。互いに仕え合うことだけが教会の歩みを貫くものとなりますよう、わたしたちをお支えください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。