わたしはあなたを祝福する

創世記12章10~20節 2025年2月9日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 創世記12章後半の物語は、アブラム(アブラハム)の失態を描いた物語です。アブラムは、神の召しに従って旅を続けていましたが、旅の途中、ネゲブという地方に来たときに、ひどい飢饉がありました。それでアブラムの一行は、エジプトに避難することにします。

 ところが、エジプトへ行くにあたって、アブラムには一つの心配事がありました。それは、彼の妻サライが美しすぎるということでした。自分の妻が美しいということは、恐らく、これまでアブラムの誇りであったと思いますが、その美しさがかえって災いのもととなろうとしていました。

 そこで、アブラムは一計を案じます。11~12節です。

 「エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。『あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、「この女はあの男の妻だ」と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう。』」

 このアブラムの姿は、なんとも情けない感じがします。殺されるのが恐ろしいので、妻に向かって、「うそをついて、自分の命を守ってくれ」というのです。そしていかにも「こんなうそをつかなければならないのも、お前が美しすぎるからだ」と言って、自分の弱さを認めずに、妻のせいにしているようにも聞こえます。これを聞いた妻サライは、どんな気持ちだったでしょうか。「なんとふがいない夫だろう!」と思ったかもしれません。

 これが、私たちの信仰の父アブラムの姿です。ただ信仰によって出発したアブラムが、早くも信仰につまずき、挫折しています。

  

 今日の12章10節は、次のように始まっていました。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした。」

 アブラムは、飢饉を避けるため豊かなエジプトに逃れますが、どうもエジプト行きを決めたこと自体、神を信頼し、祈った結果、示された道ではないようです。飢饉という困難に直面して、おろおろしているアブラムの姿が目に浮かびます。

 アブラムの旅はそもそも、神の召しによって出発したものでした。もし今回も、アブラムの中に、神さまが「エジプトへ行け」と示されたのだという確信があったならば、彼はもっと自信をもって、エジプトへ行ったのではないでしょうか。一番神に信頼すべき大事なとき、最も苦しいときに、アブラムは神に祈るよりも、この世の知恵で行動しようとしたのです。何か、私たち自身の姿を見ているような感じがします。

 どんな信仰者であろうとも、困難に遭ったときに、試練に勝てないで屈服してしまうことがあるということを思い知らされます。

 私たちも普段は、「イエス・キリストこそ救い主」と告白して礼拝していても、何か問題が起きたときにはどうでしょう。自分を見失ってしまい、神を信頼するよりも、自分の知恵、あるいはこの世的な処世術の方により頼んで行動するということがあるのではないでしょうか。

 詩編30編に、こういう御言葉があります。(p860)7~8節です。

 「平穏なときには、申しました

 『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。

 主よ、あなたの御旨によって

 砦の山に立たせてくださったからです。

 しかし、御顔を隠されると

 わたしたちはたちまち恐怖に陥りました」

 まさに、私たち自身の信仰の姿を言い当てているように思います。

 ただアブラムは、ここで旅をやめて故郷に引き返したのではありませんでした。もともとアブラムが出発したハランという町は、キャラバン(隊商)の町として栄えていました。豊かでした。ですから、困難に陥った場合、引き返したいと思っても不思議はありません。しかし、彼は後戻りするという道は取らないで、何とか旅を続ける方法を考えたのです。

 宗教改革者カルヴァンは、「ここでアブラハムに、引き返すという最も安易な方法を取ることを拒ませたのは、信仰である。信仰をもっていたからこそ、とにかく旅を続けたのだ」というようなことを言っています。アブラムはハランへ引き返すという、いわば最悪の選択をせずに、ひとつの妥協策を講じたのでした。それがエジプト行きであったわけです。そしてエジプトで生き延びるために、妻サライに「妹だ」とうそをつかせることになるのです。

 しかしこのことも、決して欲のためではありませんでした。困窮の結果、どうすれば生き延びられるかを考え、思いついたことです。彼は結果として、エジプト王ファラオからいろいろな贈り物をもらうことになりますが、これをもらうためにサライを利用したのではありません。アブラムとサライはついにエジプトへ入ります。そして、アブラムの予感は見事に的中します。14~16節です。

 「アブラムがエジプトに入ると、エジプト人はサライを見て、大変美しいと思った。ファラオの家臣たちも彼女を見て、ファラオに彼女のことを褒めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ロバ、らくだなどを与えられた」。

 アブラムの作戦は、見事に功を奏します。サライはエジプトの女の中で最高の地位に達し、アブラムはあっという間に大資産家になります。アブラムは、この世的に言えば、最高のものを手にしたと言えるでしょう。

 しかし、この話はこれで終わるわけではありません。「アブラムは、ここで旅をやめ、エジプトの住人になった。妻を王に渡したためにひいきをされ、大金持ちとなり、生涯幸せに暮らした」という話ではないのです。話の後半は、「ところが主は」と始まります。ついに神さまが、直接介入されることになります。アブラムのエジプトでのエピソードは、神さま抜きで始まり、神さま抜きでうまくいきかけていました。しかし、このことを神さまは見過ごしにされません。主なる神さまご自身が、「待った」をかけられるのです。17節。

 「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」。

 ただ不思議なことに、アブラムの不信仰の行為によって神が打たれたのは、アブラムではなく、ファラオと宮廷の人々でした。これは理解に苦しむことです。一体どうなっているのか。まったく説明がありません。私たちに言えることは、神は私たちの想像の範囲を超え、私たちの倫理的基準を超えて行動されるということです。

 この物語は、神とアブラムを軸にして述べられていますから、ファラオはあくまでも二次的人物です。ファラオに罪を見いだそうとする人は、こう言うかもしれません。「ファラオの欲望には限りがなかった。たくさんの女性を囲っておきながら、それで満足せず、異国の美しい女性サライを見ると、それさえも自分のものにしようとした。」

 しかし、それは関係なさそうです。むしろ、病気の原因がアブラムにあるとわかったときに、ファラオは非常に適切な対応をしました。「逆上して、アブラムを捕らえ、殺してしまった」というのではありません。与えたものを取り上げることもせず、彼を去らせています。事情を知らずにアブラムに関わったファラオを、神さまも正しく導かれるのです。このことからすれば、むしろ、このファラオは神を畏れる、敬虔な異邦人であった、とも言えるでしょう。

 神さまは、アブラムに対して、12章3節のところで、こう言われていました。

 「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。

  地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」

 「地上の氏族はすべて」です。たとえ神から疎外されているように見える他の民も祝福される。最初に祝福された人間を通して、順々に神さまの祝福が広がっていくのです。アブラムを通して、呪いではなく祝福が広がらなくてはならないのです。そして祝福は、ひとり占めするためではなく、他の人に手渡していくためにあるのです。それは生き物のようなもので、自分の籠に入れてしまうと、いつの間にか生気を失って、死んでしまう。他の人にどんどん手渡すことによって祝福は生き続けるのです。祝福された人、祝福された家庭というものには、そういうところがあるのではないでしょうか。泉から水が湧き出るように、それに接する人たちにとめどなく祝福を与えていきます。クリスチァンである喜びも、そのように周りの人に伝えていきたいものです。

 アブラムと神との関係で、もう一つ不可解なことは、アブラムの卑怯さにもかかわらず、神はアブラムを祝福するという約束を守り続けられるということです。

 「わたしはあなたを大いなる国民にし

  あなたを祝福し、あなたの名を高める

  祝福の源となるように。」

 この約束は無条件でした。神はアブラムに向かって、「もしあなたが私に従うならば」とか「あなたが正しい人であるならば」とかいう条件はつけていない。ただ一方的に、「私はあなたを祝福する」と言われる。神さまはそのように宣言されるのです。アブラムの方は、神さまに顔向けできないようなことをしでかしました。それにもかかわらず、神さまの方は少しも約束をたがえず、守り続ける。それがアブラムの神なのです。

 パウロは、ローマの信徒への手紙の中で、こういうふうに言っています。(p279)「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:7~8)。

 正しい人でもなく、善い人でもなく、罪人である私たちのために、キリストは十字架にかかって死なれた。条件なし。それが神の愛です。これは私たちの理解を超えたことであり、説明がつかない。説明するとすれば、ただ神はそのようにして約束を守り、そのようにして愛を示される、ということだけです。

 だからこそ私たちも、それで高慢になってはなりません。この神の愛に応えて、人に祝福を与える人間として生きていきたいと思います。

お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面でオンラインで共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。あなたは信じる者に祝福を与え、いかなることがあろうともその祝福を全うしてくださいます。あなたの約束は取り消されません。私たちはそのようなあなたの愛に応えて、あなたに真実に従っていくことができますよう、どうか導いていてください。一年で最も寒さが厳しい季節を迎えています。大雪のために困難を強いられている人々を、あなたが支えていてください。群れの中で病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹をあなたが顧みてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。