キリストの星に導かれて

マタイによる福音書2章1~12節 2024年12月22日(日)クリスマス礼拝

                           牧師 藤田浩喜

 どの世界でも、スターというのは輝いています。野球界のスター、フィギアスケート界のスター、将棋界のスターなど、華々しい活躍をしている人たちを思い起こすことができるでしょう。しかし、スター(星)は、遠い夜空に見上げる存在であり、私たちから遠く離れているという感じがするのではないでしょうか。

 今日の聖書にも、星・スターが登場します。東の国でユダヤの新しい王の誕生を知らせる星を見て、占星術の学者たちがユダヤの国にやって来たというのが、今日の聖書のお話なのです。当時、それぞれの人は生まれながらに自分の星をもっており、その人が生まれると同時にその星も現れ、死ぬと同時にその星も消滅する。特に偉大な人物の誕生に際しては奇跡の星が現われ、特別な天体現象が起こるという民間信仰があったようです。そのような考えに基づいて、「ユダヤに新しい王さまが生まれたようだ。その偉大な方を拝まなければと、占星術の学者たちがらくだに乗って、砂漠を旅して、ユダヤの国にたどり着いたのでした。

 占星術の学者たちが最初に訪れたのは、エルサレムにあるヘロデ王の宮殿でした。ユダヤの新しい王さまというのだから、都エルサレムの王の宮殿に生まれられたのではないか。学者たちがそう考えたのも当然です。しかし、ヘロデ王はそのことを知りませんでした。それどころか、新しい王によって自分の王位が奪われるのではないかと、不安になりました。そこで、その新しい王がどこに生まれるのかを祭司長や律法学者に調べさせました。それは、ユダのベツレヘムでした。それを知ったヘロデ王は、その場所を学者たちに教え、「その子のことが詳しく分かったら教えてくれ、あとでわたしも拝みに行くから」と言いました。しかしヘロデは新しい王を拝みに行く気などなかったでしょう。その子の居場所が分かったら、その子を亡き者にしようと考えていたのです。いずれにせよ、神さまはヘロデの企みをも用いて、学者たちに新しい王の生まれた場所を知らせたのです。

 占星術の学者たちは、ベツレヘムに向かって出発します。すると、どうでしょう。彼らが「東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」(9~10節)とあります。10節の「その星を見て喜びにあふれた」は、原文では「甚だしく大きな喜びを非常に喜んだ」となっています。彼らの喜びが普通ではなかった、喜びを爆発させたことが伝わってくるのです。

 それにしても、不思議に思うことがあります。学者たちが東の国で見た星は、ユダヤへの旅の間、どうしていたのでしょう。エルサレムのヘロデの宮殿に向かった時は、どうだったのでしょう。その間は、姿を隠していたのでしょうか。それとも、雲が出ていたり雨が降っていたので、見えなかったのでしょうか。その可能性も排除することはできませんが、皆さんも不思議に思われるのではないでしょうか。

 しかし私は、飛躍した考えかも知れませんが、星は目立たない、控えめな形で学者たちを絶えず導いていたのではないかと、思うのです。星は夜空に輝き、美しく瞬きます。昔の人たちは、星の位置とその光を頼りに、船を操り、旅の歩みを進めることができました。しかし、新しいユダヤの王、柔和で愛に満ちた御子イエス・キリストという星は、遠く離れたところから見上げられるだけのお方ではありませんでした。御子を求め、御子に出会いたいと願う者を、目立たない、控えめな仕方で、しかも間違いなく確かに護り、導いてくださる。ヘロデの狡猾な知恵をも出し抜いて、その悪辣な知恵を用いて、彼らをご自分のもとに導いてくださった。御子イエス・キリストの星は、私たちの身近にあって、私たちが意識していないときにも、私たちを護り、導いてくださるのです。

 旧聞に属しますが、2018年のNHKの大河ドラマは「西郷どん」(せごどん)でした。鈴木亮平さんが西郷隆盛を、奥さんの糸さんを黒木華(はる)さんが演じていました。この西郷隆盛が亡くなってほどなく、人々は夜空に大きく赤く輝く星の出現を見たと言います。その不思議な赤い星を見た人々は、あの星は西郷さんが亡くなって星になったに違いないと、評判になったようです。そのため、夜空にまたたくその星は西郷星(さいごうぼし)と、人々から呼ばれたそうです。これは実際には、火星の大接近だったことが分かっています。しかしそこには、西郷隆盛という偉大な人物の死を惜しむ民衆の素朴な思いが込められていたのでしょう。

 しかし、西郷隆盛の幼馴染であり、3番目の奥さんになった糸さんは、それを否定します。「だんなさまは、ぞげな人ではなか。人々から遠く離れたところから、見上げられる人ではなか。いつも困っている人、悲しんでいる人んところへ行って、その人んたちのために、忙しく走りまわっておられた。」そんなふうに糸さんは言うのです。迷いなくきっぱりと言うのです。

 そう言えば、はるか前の第一回目の「西郷どん」(せごどん)で、明治時代もだいぶ経ったころ、上野に西郷さんの銅像が立ちました。皆さんご存知の薩摩犬(さつまいぬ)を連れ、浴衣のような着物に身を包んだ姿の西郷さんの銅像です。その銅像の除幕式に招かれた白髪をたたえた糸さんが、こんなことを言っていたのです。「うちのだんなさーはこんな人じゃなか。」その時は、風貌や容姿が似ていないので、糸さんが怒っているのかと、思っていました。しかし、最終回に西郷星のことを語る糸さんの言葉を聞いて、糸さんの思いがようやく理解できたように思ったのです。西郷隆盛は、星のように遠くから人々に見上げられるような人ではない。また、銅像のように人々から功績をたたえられ、あがめられるような人でもない。

「うちのだんなさーは、いつも困っている人、悲しんでいる人んところへ行って、その人んたちのために、忙しく走りまわっておられた。」そんな、人々と分け隔てなく、一緒に汗をかき、働く人であった。それが糸さんの言いたかったことだったのではないかと思ったのです。

 160年程前に生きた日本人と、神さまがこの世界に遣わした神の御子を同列に論じることはできません。人間は有限であり、神は無限であり永遠です。

しかし、御子イエス・キリストがどのようなお方であるかということを、私たちに示す手がかりを与えてくれるのではないでしょうか。

 御子イエス・キリストは、私たちのはるか彼方で、美しく輝いているだけの方ではありません。その偉大さや神神しさをあがめられるだけの方ではありません。

そのお方は、「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6~8)。御子は私たちのために、私たちの身代わりとなって、十字架の死を遂げられ、私たちを罪の呪いから贖い出してくださったのです。そして主は言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28~30)。私たちの生きる重荷、負うべき労苦を主が共に負ってくださって、私たちに安らぎを与えてくださるのです。

 たとえ星が見えなくて、姿を隠しているように思える時も、私たちの知らないところで、私の苦しみを負い、私たちを人知れず支えてくださる。それが、私たちの主、御子イエス・キリストなのです。

 皆さんもご存知の「足あと」という有名な詩は、そのことを最も深くイメージ豊かに示してくれています。最後にその詩をお読みいたします。

〈あしあと〉

ある夜、わたしは夢を見た。

わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。

暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。

どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。

ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。

これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、

わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。

そこには一つのあしあとしかなかった。

わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。

このことがいつもわたしの心を乱していたので、

わたしはその悩みについて主にお尋ねした。

「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、

 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、

 わたしと語り合ってくださると約束されました。

 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、

 ひとりのあしあとしかなかったのです。

 いちばんあなたを必要としたときに、

 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、

 わたしにはわかりません。」

主は、ささやかれた。

「わたしの大切な子よ。

 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。

 ましてや、苦しみや試みの時に。

 あしあとがひとつだったとき、

 わたしはあなたを背負って歩いていた。」 

マーガレット・F・パワー

 救い主イエス・キリストはそのようなお方なのです。

 この御子の御降誕を、ご一緒に喜び、褒めたたえましょう。

 お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今年も御子のご降誕を祝う礼拝を、愛する兄弟姉妹と守ることができ、心から感謝いたします。御子イエス・キリストは、どんな時にも私たちから離れることなく、私たちを支えてくださいます。私たちの苦しみや悲しみを共に負って歩いてくださいます。そのような御方がこの世界に、私たちのもとに、与えられたのがクリスマスです。どうか、心からの喜びと讃美をもって、この時を祝わせてください。暗さが増しつつある私たちの世界ではありますが、光であるイエス・キリストを高く掲げて歩む私たちであらしめてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。