マルコによる福音書10章1~12節 2024年11月24日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日の聖書箇所はお読みいただいてお分かりのように、主イエスがファリサイ派の人々と、後には弟子たちと、離縁することについて対話をされている箇所です。ある注解書を見ておりましたら、今日の注解の最後に「しかし、離婚、再婚など、倫理的問題には慎重な解釈が求められる」(新共同訳新約聖書略解)と記されていました。確かに、結婚、離婚、再婚などの事柄は、現代社会にあっては単純に判断できるテーマではありません。
たとえば2019年の統計では、離婚件数は約20万9千件で、婚姻件数約59万9千件の約35%弱となっており、結婚した3組に1組が離婚したことになります。これは欧米と比べればまだ低いようですが、一世代上の離婚率(1990年)と比べると13%も上昇しています。しかし、これは悪いことばかりとは言えず、世間体をはばかったり妻の経済力が低くて本意でない結婚生活を継続していた日本人が、自分たちの意志で離婚という選択をできるようになったということでもあります。不幸せな結婚生活を無理に続けるよりも、離婚して新しい人生を歩み始める方が、後悔のない人生を送れるのではないでしょうか。
そうした時代状況にある私たちに、今日の聖書はどのようなことを語りかけているのでしょう。ご一緒に聞いていきたいと思います。
主イエスは、「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」というところから、今日の箇所は始まります。ヨルダン川の向こう側とは、ペレア地方だと考えられます。主イエスはガリラヤ地方を去って、エルサレムへの最後の旅に出られるのです。主イエスはこれまでと同じように、神の国の福音を宣ベ伝え、人々の病を癒やし、人々から悪霊を追い出されていたのでしょう。
そこにファリサイ派の人々が近寄って来ます。複数の人たちでしょう。彼らは次のように主イエスに尋ねたのでした。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(2節)。例によってファリサイ派の人々は、謙遜に教えを聞こうとしたのではありません。「イエスを試そうとした」とあります。「陥れようとした」と訳している聖書もあります。彼らは「ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談していました」(マルコ3:6)。そのため主イエスが「適っている」と答えても、「適っていない」と答えても、主イエスを罪に陥れることのできるような質問をしたのです。
たとえば、離縁が律法に適っていないと主イエスが答えられたらどうでしょう。私たちは領主ヘロデ・アンティパスが自分の兄弟の妻へロディアと結婚した時、そのことを律法に違反することだと訴えたバプテスマのヨハネが、獄に入れられ首をはねられたことを知っています。主イエスであれば「適っていない」と言うだろうと見越して、そんな質問をしたのではないでしょうか。
それに対して主イエスは、次のようにお答えになったのです。「イエスは、『モーセはあなたたちに何と命じたか』と問い返された」(3節)。主イエスは質問に対しては、質問によって応じられます。十戒をホレブの山で神様から直々に授かったモーセがどう言っているかと、問い返されたのです。「彼らは、『モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました』と言った」(4節)。ファリサイ派の人々は、モーセがしたことを引き合いに出して、離縁することが律法では許されていると述べたのです。
しかし、主イエスは全面的に同意なさることはありませんでした。「イエスは言われた。『あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ』」(5節)。主イエスはここで、モーセが離縁を許したということを認めておられます。確かに申命記4章1節にも、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」と定められているのです。しかし主イエスは、それは人間の頑固さや弱さ、移ろいやすさに押し切られてモーセが許したことであり、モーセ自身も本意ではなかったと言われるのです。
確かにモーセは、主なる神様に問うた上で、離縁状を書いて離縁することを許しました。しかしそれは、人間の持つ頑なさや弱さ、移ろいやすさを考慮して神様が容認されたことであり、消極的な承認だったのです。しかし、当時の社会では、この申命記の規定を悪用する例が後を断ちませんでした。正当な理由もないのに、離縁状を渡しさえすれば、夫の思うとおりに離婚ができるというような、身勝手な風潮がありました。主イエスはそのような当時の風潮に、鋭い警告を発しておられるのです。
キリスト教はその歴史において、離婚に対して「それを認めない」というスタンスを貫いてきたことは、事実です。しかし旧約聖書の律法も今日の主イエスも、人間の持つ頑なさや弱さ、移ろいやすさのゆえに、離婚ということが起こり得ることを、認めているように思います。主イエスは、人間の弱さや移ろいやすさをご存じない方ではありません。そのことは私たちが心に留めるべきことではないかと思います。
さて、主イエスは離縁の規定の身勝手な利用を戒められた後、そもそも神が定められた結婚がどういうものであったかを示されます。それを示されることによって、神様が結婚というものをいかに大切にされているかを教えられるのです。6節以下の主イエスの御言葉を読んでみましょう。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(6~9節)。
主イエスはここで、創世記1章27節、5章2節の御言葉を引用なさいます。ここで述べられている男と女の創造は、モーセが十戒を与えられる遥か前の出来事です。ここで主イエスが注目されるのは、常にそうであるように、神のことです。神の創造の御業とその背後にある神のご意志に遡られます。モーセから始めるのは不十分であって、そもそもの「初め」に立ち帰らなくてはならないのです。
神様は人を男と女という別々の存在にお造りになりました。別々の人格にお造りになったと言ってよいでしょう。その二人が神様の御心によって「結ばれ」、一体となった。二人は別々ではなく「一体」となった。ここで「結ばれる」という言葉は、「にかわ」で「くっつける」という意味の言葉です。それほど強固な結びつきです。「一体」とは「一つの肉」という言葉です。それほどに一体であるゆえに、二人の間に他のものが割り込むようなことがあってはならないのです。
わたしは結婚式を控えたお二人と準備会をする時、創世記のこの箇所をいつもご一緒に学びます。そして、こんなことをお話しします。「神様の前で誓約したお二人は、夫婦の関係を第一にしなくてはなりません。今までは両親との関係が第一であったかもしれませんが、それは第二の位置に退き、夫婦の関係が第一になるのです。ですから、結婚した以上は、何よりも夫婦の関係を第一にして、たとえ親御さんであっても、その関係に割り込ませるようなことがあってはなりません。ましてや、友人関係や仕事、趣味などが、二人の関係に割り込むようなことがあってはいけません。二人は神様によって一体とされたのですから。」
男と女が一体となることは、単に人間的な結びつきではありません。神様が深い御心によって二人を結び合わせて、祝福してくださいました。結婚は神様が引き合わせ、結び合わせてくださったものです。それだからこそ、人は第一義的に結婚を重んじるように求められているのです。結婚の背後には、神様の御心があるのです。それを無視してはなりません。「人は神が結び合わせてくださったものを、引き離してはならない」のです。
しかし、今日の箇所で私たちが聞くべきことは、それだけでしょうか。神様は私たちを男と女に創造された。別々の人格として創造されたことを覚えなくてはなりません。創世記2章によれば、女は男と助け合う者として創造されました。今日では「助け合う者」は、パートナーと考えられています。対等の人格として、互いに助け合う存在が、男であり女なのです。地上のどんな有用な家畜も愛らしいペットも、人にとって「助け合う者」にはなれないのです。
ある注解者は、男と女が結ばれ一つとなることは、神様の祝福だと言います。それはどんな祝福かというと、両者が互いに「助け合う者」となる祝福であり、このことは「同じ軛(くびき)をかける」ことだというのです。マタイによる福音書11章28節以下の有名な言葉で、軛を負うという言葉を、皆さんもご存じでしょう。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」神様は男と女が結婚することによって、一つの同じ軛を男と女にかけられたのです。つまり神様は、同じ軛を負う夫婦を互いに助け合わせ共に働かせることよって、人間に与えられた労苦が軽減され、日々の生活に安らぎがもたらされるようにしてくださったというのです。一つの同じ軛を負っていくことができるように、神様は男と女を一つとされたのです。
しかし、たとえ神様の御心に導かれて、結び合わされ結婚したとしても、夫婦の関係が破れてしまうという現実が、人間には起こります。共に助け合うことができなくなることがあります。一緒に生活することが労苦を軽減するのではなく、一層労苦を増し加えてしまうことがあります。日々の生活から安らぎが失われ、不安やいらだちだけが増していくことがあります。そのような人間の現実を、イエス・キリストはご存じです。同じ一つの軛を負うことができなくなった人間の悲しみに、主イエスは寄り添ってくださいます。私たちはそのようなイエス・キリストの慈しみと憐みを信じて、今までとは別の御心を尋ね求めていくことが許されているのではないでしょうか。神様の与えてくださる新しい祝福を祈り求めていってもよいのだと思うのです。
今日の10~12節では、家に戻ってからの主イエスと弟子たちとの対話が記されています。弟子たちは先ほどのファリサイ人との対話に納得のいかないところがあって、話を蒸し返したのでしょう。弟子たちは離縁状を渡して離縁することに対して、厳しい警告をなさった主イエスの言葉に納得がいかなかったのでしょう。彼らもまた、当時の自分勝手な風潮に染まっていて、男が離縁に対してより自由な権限を確保しておきたいと考えていたのでしょう。そのような自己中心的な彼らに対して、妻を取るに足らない理由で離縁して、他の女性と結婚する者は姦淫の罪を犯すことになると、警告なさったのです。
主イエス・キリストは、神様が創造された人間を大切にされます。相手を妻であれ夫であれ、道具のように扱い、神のかたちとして創造された人間の尊厳を踏みにじる者を許されません。その反対に、イエス・キリストは神のかたちとして創造された私たちを、どんな時にも見捨て給うことはありません。傷ついた者たちを、慈しみ愛し抜いてくださいます。その愛のために主イエスは十字架に付いてくださったのです。私たちにはこのイエス・キリストがおられることを覚えたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】私たちの主であるイエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も対面でオンラインで、敬愛する兄弟姉妹と礼拝を捧げることができますことを、心から感謝いたします。神様、あなたは私たちを男と女に創造されました。それは私たちが異なる人格として創造されていることです。あなたと私たちが人格的な交わりを与えられているように、私たちも人格的な交わりをもって生きるように求めておられます。どうか、男と女という関係だけでなく、その性別を越えて私たちが人格的な交わりを与えられ、共に生きることができるよう導いていてください。次の主日からはアドベントを迎えます。寒さも一段と増していきます。どうか、兄弟姉妹一人一人の健康を支え、クリスマスを心待ちにする日々を送らせてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。