マルコによる福音書第9章42~50節 2024年11月17日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
本日はマルコによる福音書9章42~50節の御言葉に聞きたいと思います。本日の箇所には、主イエス・キリストがいろいろな時にいろいろな所でお語りになった教えが並べられていると言われています。つまり、ある時にまとめてここに書かれているようにお語りになったのではなくて、もともとは別々の教えだったものが後からこのようにまとめられたのだというのです。従ってここにはいろいろなことが語られていて、必ずしも話が論理的に展開してはいません。前の所で語られた一つの言葉から次の教えが導き出され、またその教えにおける一つの言葉が次の教えへとつながっていくというふうに、言わば連想ゲームのように話が進んでいくのです。
42節に「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」とあります。「つまずかせる」ということが問題となっているわけです。それは信仰の挫折、信仰を失ってしまうことを意味しています。歩いていた人が石につまずいて転んでしまうように、信仰をもって歩んでいた人が何かによって倒れてしまい、歩き続けることができなくなってしまうことです。ここではそれが「つまずかせる」という形で用いられています。それは、人をつまずかせる、人の信仰を失わせてしまう、人が神様を信じて生きていくのを妨げてしまうことです。主イエスを信じている一人の信仰者をつまずかせ、信仰を失わせてしまうことは、「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」というほどの大きな、恐ろしい罪なのだと警告されているのです。この警告は弟子たちに向けて語られています。つまり、イエス・キリストを信じる信仰者の間で、人の信仰をつまずかせることが起こる、それを主イエスは警告しておられるのです。人をつまずかせることは、信仰者の交わりの中でこそ起こります。教会における交わりの中で、人を傷つけ、悲しませるようなことが起こると、それは信仰を前提としない世間一般の交わりにおけるよりもはるかに深く人の心を傷つけ、その人をつまずかせ、信仰を失わせてしまうことにもなるのです。
私たちがそのように人をつまずかせてしまうのは、どうしてなのでしょうか。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は」とあります。つまずかされるのは、たいてい「小さな者」です。「弱い者」と言い換えてもよいでしょう。いろいろな意味で弱さを持っている者、強くない者、そのために自分は人から重んじられず、軽く扱われている、という思いを持っている人がつまずくのです。そして、そのような人をつまずかせる者とは、その人よりも大きな者、強い者です。強い者が弱い者をつまずかせるのです。信仰の弱い人をつまずかせるのは、たいてい信仰の強い人です。信仰が強いからそういうことが起るのではありません。そうではないのです。人をつまずかせてしまうのは、正確に言うと、信仰が強い人ではなくて、信仰が強い者であろうとしている人です。その場合の信仰が強いということにはいろいろな内容があって、信仰のことをよく知っている、知識がある、という場合もあれば、一生懸命に奉仕する、愛の業に励む、ということである場合もあります。いずれにせよ、信仰において強い者でありたいと願い、教会の中で人よりもより大きな者、立派な者でありたいと願っている人が、弱い者をつまずかせる結果を生むのです。何故なら、自分が強い者、大きな者、立派な者になろうとする時、私たちは必然的に自分の周囲に、弱い者、小さな者を作り出していくことになるからです。
だとしたら私たちはどうしたらよいのでしょうか。熱心に一生懸命信仰に励むと人をつまずかせてしまうなら、いっそいい加減な、適当な信仰に留まっていた方がよいということなのでしょうか。そうではありません。問題は、私たちが、信仰において、どのようなことを熱心に励んでいくか、どういう向上を目指すかなのです。そのことを主イエスは、次の43節以下で教えておられるのです。
43節からのところは、同じ「つまずき」について語られていますが、人をつまずかせることではなくて、自分がつまずくことが見つめられています。自分がつまずいてしまうことを引き起こすものがあれば、たとえそれが片手、片足、片目というように自分の体の大事な一部であっても切り捨てなさいと、主イエスはおっしゃっているのです。人をつまずかせることへの警告が、自分がつまずかないように、という勧めに変わっています。主イエスはこの御言葉によって、私たちが信仰において何を励み、努力し、どのような向上を目指すべきかを語っておられるのです。つまり私たちが信仰において励み、努力していくべきことは、豊富な信仰的知識を得ることでもなければ、立派な奉仕、愛の業をすることでもないのです。つまずかないこと、これこそが、本当に求めていくべきことであり、何にもまさる信仰的向上なのです。そしてこれこそが、本当の意味での信仰の強さです。信仰が本当に強い人とはどういう人かというと、信仰的知識が豊かな人ではないことは勿論ですが、熱心に愛の奉仕をしている人でもなくて、決してつまずかない人です。教会で何があろうとも、誰に何を言われても、どんな目に遭っても、勿論悩んだり、苦しんだり、悲しんだりするけれども、しかし決してつまずくことはない、信仰を失ってしまうことがない、そういう人こそが本当に信仰の強い人であり、目立たない所で教会を支えている、縁の下の力持ちと言える人なのです。つまずかないというのは、大変消極的な、何でもないことのように感じられるかもしれませんが、実はとても大事な、そして難しいことです。自分と神様との関係がしっかり確立していなければ、そうはなれないのです。神様との関係、交わりが不確かだと、人間のことが気になります。他の人たちの中で自分はどれくらいの位置にいるか、自分が熱心に奉仕し、愛の業に励んでいることを人がどれだけ評価してくれるか、ということに信仰の拠り所を見出していくようなことになります。そうなるともう、つまずきの一歩手前です。大変熱心に信仰に励み、奉仕していた人が、ある日突然つまずいてしまう、ということがそこで起こるのです。つまずかない信仰というのは、周囲の人々がどうであるか、その中で自分がどのように評価され、受け入れられているか、というような人間同士の関係によって支えられるのではありません。主イエス・キリストによって与えられている神様の恵みに根拠を置く信仰、他の人との関係はどうであれ、神様の自分に対する恵みは揺らぐことがないということを確信している信仰なのです。
私たちは、そのような信仰に生きるためにこそ、努力していかなければなりません。信仰が向上するとは、そのようにつまずかない信仰となっていくことなのです。そのために必要なのは、自分がより大きな者、強い者、立派な者となることを求めるのではなくて、むしろ自分の身からつまずきとなるものを切って捨てることです。あなたの片手が、片足が、片目が、あなたをつまずかせるなら、と言われています。手も、足も、目も、私たちにとって大事なものです。私たちは、この世の人生において、何事かを成し遂げ、業績をあげ、立派な者、ひとかどの者、強い者、偉い者となるために、いつも自分の手や足や目の働きを高めよう、強めようとしているのではないでしょうか。しかし私たちがより高めようとしている手や足や目の働きが、私たちと神様との交わりを妨げるものともなり得るのです。そのようなつまずきを避けるために、自分の手や足や目を、むしろ切り捨てなさいと主はおっしゃるのです。手や足や目を切り捨てたら、私たちは不自由な体になります。バリバリと人一倍働くことができない、弱い者となります。人の世話にならなければ生きていけない者になるのです。しかし主は、敢えてその道をこそ歩めと言っておられます。そのような弱さに生きよとおっしゃっているのです。それは、自分の力や働きや立派な奉仕によって神様の前に大きな者、強い者として立つのではなくて、また人と自分とを見比べて、どちらがより偉いとか、優れているとか、どちらが先か、などということにこだわるのではなくて、ただ神様の恵みによって生かされる者となれ、ということです。本当に命にあずかっていく道はそこにこそあるのです。そこにこそ、本当に喜んで隣人と共に生きる生活があるのです。
49節以下には、塩味をつけられた者として生きなさい、という教えが語られています。塩は人間の生活に欠かすことのできないものです。塩がなければ人間は生きていけません。また塩は消毒や食品の保存などにも有効です。それゆえに塩による清めということが、洋の東西を問わず古代から行なわれていました。そのように無くてはならない塩を、自分自身の内に持ちなさいと主イエスは語っておられます。しかしその「塩味をつけられる」とはどういうことなのでしょうか。コロサイの信徒への手紙4章6節を読んでみたいと思います。新約聖書の372頁です。「いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい」とあります。この「快い」という言葉は、以前の口語訳聖書では「やさしい」と訳されていました。原文の言葉は「恵みにおける」という意味です。塩で味付けされた言葉とは、恵みにおける言葉です。その恵みとは勿論、神様の恵みです。神様が独り子である主イエス・キリストをこの世に遣わして下さって、その主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦し、神の子として新しく生かして下さる、その恵みです。この神様の恵みこそ、私たちが生きるために無くてはならない塩です。その恵みによって味付けられた言葉を語る者となること、それが、私たちが塩味をつけられるということの意味でしょう。主イエス・キリストによって与えられた神様の恵みによって生き、その恵みによって味付けられた言葉を語る者となりなさい。そう主イエスは言っておられるのです。
主イエス・キリストによるこの救いを受け、神様の恵みの塩味を付けられた私たちはもはや、自分の働き、業績、立派な奉仕などによって自分の人生を味付けなくてもよいのです。人との相対的な関係の中で、自分の価値を確認しなくてもよいのです。主イエス・キリストによって与えられている神様の救いの恵みが私たちをしっかりと捉えているのです。ですから、自分にどんな力があるか、どんな立派な奉仕ができるかなどということに依り頼むのではなく、神様の恵みに身を委ねれば、それでよいのです。そのような信仰を目指しつつ、今日から始まる新しい一週間を歩んでいきたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と対面やオンラインで礼拝を捧げることができ、感謝いたします。神さま、あなたは今日信仰者の群れに、厳しい警告を与えられました。私たちは自分たちのあり方で、兄弟姉妹をつまずかせてしまう危うさを持っています。どうか、そのことに鈍感であることのないように、私たちを導いていてください。主イエス・キリストの十字架の恵みに生かされ、その恵みを証しする、塩で味付けられた言葉を私たちに語らせてください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。