ヨナ書4章5~11節 2024年9月8日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
8回にわたって学んでまいりましたヨナ書も、最終場面に至りました。ヨブ記などがいわゆるハッピーエンドという形でその物語を閉じているのに対して、ヨナ書は、最後に神の言葉が語られることによって閉じられています。そのために一つの物語が終わったというよりも、そこから何か新しいものが始まるような雰囲気が、この終わりの部分に漂っている感じさえします。別の言葉で言えば、私たちのこれからの生き方に新しい課題が差し出されて、ヨナ書が閉じられているということです。
さて最後の部分、神の言葉で締めくくられているこの部分を学ぶに当たって、ヨナの状況をもう一度確認しておきましょう。彼は、悔い改めて滅びから免れたニネベの都がこのままで終わることはあるまいと考えて、あるいはそのことに期待して、都の東の方に仮小屋を建てて、都の成り行きを見届けようとします。神はそのようなヨナのために、とうごまの木という一つの植物を生えさせ、木陰を作り、ヨナが暑さをしのぐことができるようにしてくださいました。ヨナはそのとうごまの木を非常に喜びました。
ところが神は、ご自分で備えられたとうごまの木を、これもまたご自分で用意された一匹の虫によって食い荒らさせて、一夜にして枯らしてしまわれました。そのため灼熱の太陽の日射しがヨナの上に降りそそぎ、また東からの熱風もヨナに吹きつけて、ヨナは激しい苦しみと暑さの中で死を求めて叫んでいます。8節です。「生きているよりも、死ぬ方がましです」。
そのように死を願うヨナに神が語りかけられている言葉が、10節、11節に記されています。ヨナに語りかけられている最初の言葉は、「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる」というものでした。ここに「お前は」という呼びかけがなされています。その「お前は」というのは、11節に出てきます「それならば、どうしてわたしが…」という時の「わたし」との対比の中で用いられていることに、気づかされます。お前ヨナと、わたし神とが、対比的に描かれています。
ヨナが死ぬほどに悔しい思いをしている枯れてしまったとうごまの木は、ヨナが自分で植えて、丹精込めて、苦労をしながら育てたものではありませんでした。ヨナの知らない間に神が一夜にして生えさせて、ヨナの暑さを防いでくださったものでした。このとうごまの木に、ヨナの愛情が注がれてきたわけではありません。ヨナにとってはいわば自然現象の一つに過ぎないようなものでした。
しかしそれは、ヨナにとって都合のよいものであったことは事実です。思いがけない現象として生じてきたとうごまの木を、ヨナは単純に喜びました。そしてそれが枯れ果てて、暑さが襲って来た時、枯れたとうごまの木を残念に思い、暑さの苦しみの中で、彼は自ら死ぬことを願いました。神はそのようなヨナに対して、「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか」と鋭い調子で問いかけておられます。神は、自分の死をさえ願うヨナの怒りが、過ちであることを自覚させようとしておられます。それと同時に、一本の木が死ぬことを惜しむヨナの心に目を向けられます。あなたはとうごまの木の死を悲しんでいる、その心を手がかりにして、もっと大切なことを考えてみなさい。神はそのようにして今、ヨナに教えようとしておられます。
とうごまの木が生えたことと枯れたこととは、神の教育的な目的がそこには込められていました。神は、身のまわりの出来事から霊的な事柄へと、ヨナを高めようとしておられます。そしてそれが、11節最後の言葉によって明らかにされます。「それならば、どうしてわたしがこの大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから」。神はそのように語っておられます。
ここでまず注目すべきことは、先ほども述べましたように、「それならば、どうしてわたしが…」と言われるこの「わたし」という言葉です。神がご自身について、強い調子で語っておられます。ヨナに対して、「お前は一本の木の死をさえ惜しんでいる」と語られ、「そうであるならば、ましてや、すべてのものの造り主であり、あなたがたの神であるこのわたしが、人の命を惜しまないでおられようか」と、これも強い調子で神はヨナに語りかけておられます。ヨナが、自分自身の都合・不都合、利益・不利益ということから目を離して、神の真実なお姿に目を向けることを、今求めておられます。
「惜しむ」という言葉が二度用いられていますが、これは憐れむとか、心ひかれるとか、いとおしく思うという意味を持っています。ヨナのとうごまの木の死を惜しむ心を、神は大切にしながら、そこに着目しながら、それ以上に神がニネベの都の人々の命を惜しむ心を、あなたは理解しなければならない。ヨナは神の御心に、畏れと感動とを持って触れることが求められているのです。
神は大いなる都ニネベについて、次のように語っておられます。「そこには、12万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいる」。右も左もわきまえないというのは、物事の道理が分からない子どもに関して用いられることが多い表現です。ここでは子どものことだけではなくて、神の律法を知らない異邦の人々、あるいはもっと言うならば、真の神も真の救いもまだ知らされていない異教の国の人々という意味で、この言葉が用いられていると考えてもよいでしょう。そのような人々は、神の愛の対象外にあるのではなくて、彼らこそ神の愛が向けられるべき人々なのだというのが、ここでの神の教えです。しかもそれらの人々が、12万人以上もいると言われています。また人間だけではなくて、無数の家畜たちのことにも言及されているのです。
右も左もわきまえない12万人の人々。けれどもそうであっても、神の御言葉が語りかけられるならば、神のもとに戻ってくることができた人々でした。物言わぬ家畜であっても、これもまた、造り主なる神の御手によって造り出されたものです。これらの人々も家畜も、神の愛の対象なのです。それらが罪のゆえに滅んでいくことを、わたしは惜しまないでおられようかと、神はヨナに語りかけておられます。あなたが一本のとうごまの木を惜しんでいる以上に、わたしはそれと比べようもなく12万人以上のニネベの都の人々の滅びを惜しむのだ。無数の家畜たちが滅んでいくのを見過ごせないのだと、神の声が力強くヨナに語りかけられています。愛に急き立てられた神の御声が響いてくるように思います。
マタイによる福音書20章1節以下において、イエス・キリストは、よく知られているぶどう園の労働者の譬え話を語っておられます。朝早くから夕方まで、主人が町に出て労働者を雇ってくる話です。その中で、朝早くから働いた者にも、夕方わずか1時間しか働かなかった者にも、ぶどう園の主人は、夕方仕事が終わった時に、同じ賃金を払いました。その時、朝早くから働いた者が主人に不平をもらす場面があります。主人はその不平をもらす者に、こう答えます。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。この主人によって表されている愛と慈しみの大きさは、神の愛と慈しみの広がりを示すものです。神の愛はすべての人に及ぶ、先に選ばれた者だけではなくて、すべての者に及ぶのです。そのことを知ることは、それを知った者自身の救いと希望につながっていきます。ヨナは、この神の愛の広がりの中で、自分自身を正しく位置づけることが求められているのです。
そのことを知る時に、この認識は新しい世界の扉を開くものとなります。このヨナへの促しは、私たち一人一人にも実は向けられています。そのことを私たちは、二つのことを通して考えておきたいと思います。
その一つは、わたしたち自身の内にあるヨナ的なものを取り除けと、促がされているということです。救いに値する者とそうでない者とを私たちは簡単に選り分けてはいないか。交わりに値する者とそうでない者との仕分けを私たちはいつの間にかやってはいないか、そういう自己吟味が促されています。また、教会や信仰者が現在の状況で満足し切っていないかどうかも、問われています。主イエス・キリストは、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」と、ヨハネによる福音書で語っておられます。その御言葉に従った業を、教会や信仰者は今なそうとしているのかどうか、このことが問われています。それと同時に、神の愛の広がりに仕えることへの新たなる召し出し・召命を、私たちは今ここで受けているのです。
そしてもう一つの考えておきたいことは、ニネベの都の右も左もわきまえない人々や無数の家畜を愛された神の愛は、今日生きるのに困難を覚えたり、望みや力を失っている一つ一つの魂に対しても、差し向けられているということです。神をすでに知っている者に対して、神は愛を注ぎ給います。それだけではなく、神をまだ知らない者にも神の愛は注がれます。神を知らない人々の命を惜しみ給う神は、懸命に生きようとしながらも、生きる喜びと意義を見出すことができないでいる人々の命をも惜しまれる、それをいとおしく思われるお方なのです。
分かりにくい社会です。生きにくいこの世です。誠実に生きようとする者が、必ずしも報われることのない社会です。しかし、そこに神は愛する独り子イエス・キリストを送ってくださいました。それはまさに、このような世界に生きる私たち一人一人への神の愛のしるし、そこに生きる私たちの命を惜しみ給う神の愛のしるしなのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
その神の愛にお応えする道は、私たちが今与えられている命を、イエス・キリストを与えてくださった神を見つめつつ、精一杯生き抜くことです。そのような私たちに、私たち一人一人の命を惜しみ給う神は、常に必要な助けと導きを与えてくださるでしょう。その神がい給う限り、私たちの人生は死ぬよりも生きる方がましなのです。そのような神がわたしの神としてい給う限り、私たちの人生は生きるに値するものなのです。ヨナ書を結んでいる神の最後の言葉は、今も力強く響いているのです。そのことを覚えましょう。お祈りをいたします。
【お祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と顔を合わせて、またネットを通して、共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。今日もヨナ書を通して御言葉を与えられました。あなたが願われるのは罪ある私たち人間が滅びることではありません。私たち人間が罪を悔い改めてあなたのもとに立ち帰ることです。あなたはまだあなたのことを知らない、囲いの外にいる人々の命をも惜しまれます。その命を救おうとされます。イエス・キリストを通して示されたその深い神の愛を、私たちの宣教の業を通して伝えさせてください。そのために私たち一人ひとりを用いてください。まだまだ残暑の厳しい日々が続きます。どうか兄弟姉妹の健康をお支えくださり、あなたの平安をもって導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。