マルコによる福音書8章22~26節 2024年9月1日主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
ガリラヤ湖畔の町ベトサイダで、主イエスが一人の盲人の目を開かれたという癒しの奇跡が、マルコによる福音書8章22節以下に語られています。この癒しの出来事は、7章31~37節の、耳が聞こえず舌の回らなかった人の癒しの出来事と対になっています。その箇所と本日の箇所との二つの癒しの御業には、共通していることがいくつかあります。先ず、どちらの御業も群衆の目の前でなされたのではなく、癒される人が外に連れ出されていることです。またどちらの癒しにおいても、主イエスが手を触れ、唾を用いておられること、癒しが一瞬で行なわれたのではなくて、ある時間がかかっていることも共通しています。それに、このどちらの話も、マルコ福音書のみが語っており、他の福音書には出てこないという共通点もあります。これらのことから、この二つの癒しの話が一対のものであることが分かるのです。これらの話によってマルコが語ろうとしていることは何でしょうか? それは、神様の救いの時には「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、口の利けなかった人が喜び歌う」、というイザヤ書35章5節以下の預言が、主イエスにおいて実現したということなのです。
本日の箇所にはその中でも特に、「目の見えない人の目が開かれる」ということが語られています。その救いの御業はどのようにして行なわれたのでしょうか。主イエスは、ご自分のところに連れて来られた目の不自由な人を、その手を取って村の外に連れ出されました。人々の目の前で癒しをなさろうとはされなかったのです。このことは、主イエスが癒しの奇跡を、人々にご自分の力を示して信じさせるためになさってはおられないことを意味しています。目の見えない人の目を開くことができるというのは、神様の恵みをストレートに伝えることができる素晴しい力です。もし皆さんが信仰によってそういう力を得ることができたならばどうするでしょうか。私だったらそれで一儲けしようとするかもしれませんが、良心的な皆さんは、目の見えない人々を癒すことによって神様の恵みを伝えていこうと思うに違いありません。しかし主イエスはそうはなさらなかったのです。主イエスは確かにそういう力を持っておられましたが、それを用いて伝道しようとはなさらなかったのです。それは何故でしょうか。癒しの奇跡によって人を集めて伝道すれば、確かに人は集まるけれども、本当に伝えなければならない神の国の福音は伝わらないからです。
しかしもっと根本的な理由は、癒しの奇跡によって伝道するとしたら、それは病に苦しんでいる人、本日の箇所で言えば目の見えない人を、自分の目的のために利用することになってしまうからではないでしょうか。主イエスは、癒される人との出会いと交わりを大切にしようとしておられるのです。苦しみを抱えているその人と出会い、一対一の関係を結び、それによってその人が神様の救いの恵みを受けることを願っておられるのです。主イエスはそのために、この人を群衆の目のない村の外に連れ出されたのです。
さて、彼と一対一になった主イエスは、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置かれました。あの耳が聞こえず舌の回らない人の癒しの時には、指を彼の両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられた、とありました。どちらにおいても主イエスは、その人の苦しみの原因となっている部分に、両手でしっかりと触れて下さったのです。その力強い御手によって癒しの御業が行なわれたのです。
彼に手を触れた主イエスは、「何か見えるか」とお尋ねになりました。これは単なる質問ではなくて、目の手術を受けてそれまで包帯を巻かれていた患者がいよいよ包帯を取られた時にお医者さんが、「あなたはもう見えるはずだから、目を開いていっしょうけんめい見てごらん」と促しているような言葉です。主イエスは彼を、そのように励ましておられるのです。「すると、盲人は見えるようになって」と24節にあります。この「見えるようになって」という言葉は直訳すれば「目を上げて」です。以前の口語訳聖書では「顔を上げて」となっていました。この盲人は主イエスの御言葉に励まされて目を上げたのです。すると、何かが見えてきたのです。彼は驚きつつ、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」と言いました。
この奇跡は、目の不自由な人にだけ関係する視力回復の出来事ではありません。私たち一人一人に起る救いの御業が、ここに描かれているのです。私たちも、本当に見るべきものを見ることができなくなっている者です。私たちも、目を上げることができなくなっているのです。私たちは、この世の現実をいつも見せつけられています。敵の大軍に包囲されて蟻の這い出る隙間もない、という現実をいつも見つめさせられているのです。そして肉の目に映る現実、圧倒的なこの世の力に取り囲まれている現実こそが、ただ一つの現実であると思ってしまうのです。そしてそこでうろたえ、本当には助けにならない色々なものを求めて右往左往してしまうのです。しかしそれは、私たちの目が閉ざされてしまっているからだ、と聖書は語っています。目を上げて見ることができないから、神様の恵み、守りが分からないのです。そういう意味で私たちは皆、目の見えない者です。先週読んだ8章18節において、主イエスは弟子たちに「目があっても見えないのか」と言っておられましたが、私たちも、たとえ肉体の目は開かれていても、信仰の目が閉ざされ、肝心なことを見ることができずにいるのです。
私たちの、閉ざされている信仰の目は、何によって開かれるのでしょうか。私たちは自分で、この目を見えるようにすることはできません。この盲人がこれまで自分でいくら目を見開いても何も見えなかったのと同じです。また信仰というのは、本当は見えないものを見えたかのように、自分の心に暗示をかけて思い込むことではありません。神様の守りとか恵みは見えないしよく分からないけれども、それがあるということにして、そう思って生きていこう、その方が人生に支えができてよい…、信仰とはそういうものではありません。私たちが何かに支えを見出すこと、あるいは見出したと思い込んで生きることが信仰ではないのです。
そうではなくて、私たちは信仰によって目を開かれて、それまで見えなかった神様の恵み、守りを見ることができるようになるのです。しかも単なる気の持ちようや思い込みではなく、本当にそれが見えるようになるのです。そのことは、主イエス・キリストが私たちに出会って下さることによって起こります。主イエスが私たちに出会い、御言葉を語りかけ、御手を触れて下さると、私たちの目は開かれ、神様の恵みや守りを、目を上げて見ることができるようになるのです。
主イエスとの出会いによって神様の恵みと守りが見えるようになるのは、どうしてでしょうか。それは主イエスがまことの神であられ、しかも私たちと同じ人間となって下さった方だからです。まことの神であられる主イエスが人間となり、私たちの罪を全てご自分の身に引き受けて、身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪の赦しを実現して下さったのです。その主イエスを父なる神様は復活させて、永遠の命を生きる者として下さいました。死に打ち勝って永遠の命を生きておられる主イエスが、今私たちに出会い、語りかけて下さるのです。私たちはその出会いによって、神様のはかり知ることのできない恵みと愛を、自己暗示や気の持ちようではなくて、目を上げてはっきりと見ることができるようになるのです。
主イエスの促しによって目を上げたこの人は、「人が見えます」と言っています。そして、だんだんに彼の目は見えるようになっていったのです。彼が目を上げて真っ先に見た「人」、それは主イエス・キリストだったでしょう。主イエス・キリストという人を、目を上げて一心に見つめていくことの中で、彼の目は次第に見えるようになっていったのです。そこには私たちの信仰の成長が象徴的に示されていると言えます。主イエスを見つめ続けることの中で、私たちは神様の恵みを次第にはっきりと、具体的に見ることができるようになっていくのです。つまり私たちにとって主イエス・キリストは、神様の具体的な愛と恵みを見つめて生きるための唯一の道なのです。
本当に目を開かれるとは、この主イエス・キリストにおける神様の具体的な恵みを見つめる目を開かれることです。それを見つめることができないうちは、私たちは「目があっても見えない」者なのです。それと同じことは、7章31節以下の、耳が聞こえず口の利けなかった人の癒しにおいても語られていました。本当に耳が開かれているとは、主イエス・キリストにおける神様の恵みの御言葉を聞く耳が開かれていることであり、本当に口が利けるとは、その恵みに感謝し、神様をほめたたえる言葉を語ることができることだったのです。そのように、この対になっている二つの癒しの話は、見るべきものを見ることができず、聞くべきことを聞くことができず、語るべきことを語ることのできない私たちが、主イエス・キリストによって目と耳を開かれ、語るべきことを語ることができる者とされた、つまりイザヤ書35章に預言されている救いが実現していることを語っているのです。
この後聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、主イエス・キリストが私たちの救いのために十字架にかかり、肉を裂き、血を流して死んで下さった、そのキリストの体と血とにあずかるのです。その聖餐は、洗礼を受けた者だけがあずかることができるものです。まだ洗礼を受けておられない方々には、聖餐の間、見守っていただくしかありません。しかしこの聖餐における恵みは、主イエス・キリストこそ神様の恵みと救いを具体的に与えて下さるただ一人の方であると信じ、その主イエスとの関係をかけがえのないものとして守っていく、そのような信仰告白と結びついてこそ、本当に恵みとして味わわれていくものなのです。そして主はこの聖餐へと、この礼拝に集っている全ての人を招いておられるのです。主イエスによって目と耳を開かれ、信仰告白の言葉を与えられて、ここにいる全ての人が聖餐に共にあずかる日が来ますように、心から祈り願っております。お祈りをいたします。
【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。台風10号が日本全体に大きな影響を与える中、過ぎし一週間の歩みを守り導いてくださったことを、感謝いたします。台風は熱帯低気圧に変わりそうですが、まだ大雨などの危険は去っておりません。どうか、これ以上被害が拡大することがありませんよう、あなたの守りと支えを与えていてください。今日も共に聖書の御言葉に聞くことができましたことを感謝いたします。どうか私たちに目を上げ、主イエス・キリストを見つめる信仰をお与えください。そして主を見上げて歩む中で、私たちの信仰が深められ、あなたの恵みの御業を見ることができますよう、導いていてください。まだ暑さ厳しい時が続きます。どうか、一人ひとりの心身の健康をお支えください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。