ルカによる福音書12章13~21節 2024年6月30日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスの周りには、多くの群衆が集まっておりました。主イエスは彼らに向かって語ります。「体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない。本当に恐るべき方は、地獄に投げ込む権威を持っている方。あなたがたの髪の毛一本まで数え、あなたがたの全てを知り尽くし、全てをその御手の中に置かれている方。」「人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」主イエスは、私たちがまことの命に生きるための道、死を超えた命について群衆に向かって語られたのです。
ところが、その話が一段落すると、群衆の中の一人が主イエスに向かってこう言ったのです。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」皆さんはどう思われるでしょうか。今主イエスから、死を超えたまことの命に至る道を聞いたばかりです。その場にいた群衆の多くも、「今はそういう話をしている所ではないだろう。」そう思ったのではないかと思うのです。しかしこの人にとって、遺産を分けてもらえるかどうか、この問題がいつも頭から離れない、いつも心を占領していることだったのでしょう。だから、何を聞いても、いつもその問題に心が行ってしまう。たとえ主イエスの話を聞いていても、心はそこに行ってしまう。そういうことだったのではないかと思います。こういうことは、私たちにもよく分かるのではないでしょうか。具体的に困難な問題にぶつかりますと、私たちもいつもそのことが頭から離れない。何をしていても、ふと気がつくとそのことを考えてしまっている。そういうことがあるのです。
当時の遺産の分け方というのは、長男にほとんどがいってしまいます。そして長男が、他の兄弟たちに分けるというようなことであったようです。この人は長男ではなかったのでしょう。そして、長男は自分に遺産を分けようとしてくれない。自分にも遺産をもらう権利はあるはずだと、この人は思っていたのでしょう。当時の教師、ラビと呼ばれる律法学者達は、日常のあらゆる問題について相談を受け、律法をもとにこうしなさい、こうすることが律法にかなっていると指示する。それが一般になされていることだったのです。この相談の内容というのは、離婚の問題から、隣の家との土地の境界線をめぐる問題、子どもの教育の相談、そしてこの人のように遺産相続をめぐる問題、日常のありとあらゆる問題が持ち込まれてきました。ですから、この人にしてみれば、他の教師たちがしているように、主イエスもこの自分の相続をめぐる問題を、きっと神様の名によって裁定してくれるに違いない、そうしてくれるのが当然だと思っていたのでしょう。
ところが、主イエスの応えはこの人が期待していたものと全く違ったものでした。14節「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」主イエスはそのように応えたのです。「そんな問題は私は知らん」。そんな言い方です。このような主イエスの姿に出会いますと、私たちはいささか動揺いたします。もっと優しく言ってくれても良いではないか。イエス様は冷たいのではないか。そんな風に感じるのです。確かに、この時の主イエスの言い方は少しも優しくありません。主イエスは愛の人です。まことの愛を知るためには、主イエスを見るしかありません。それは本当のことです。しかし愛というのは、何でもかんでも受け入れ、いつでも誰にでも優しくしているということとは違うのでしょう。
主イエスがここでこの人を突き放すように語られている理由は、この人がこの遺産相続の問題にいつも心を奪われているような今の状態ではダメだ、その心の向きを遺産相続の問題から神様の方に向けなければならない、そうしなければこの人の救いはない。そうお考えになったからだろうと思うのです。そして主イエスは更にこう告げられました。15節「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」まるで、この遺産相続のことを相談した人は貪欲な人だと人々の前で告げたようなもので、これを言われた人は面白くなかったと思います。たとえそう思われようと、主イエスは遺産相続の問題に心を奪われているこの人の根本には、貪欲の罪があると指摘されたのです。貪欲の罪。それは「もっと欲しい」と思う心です。これにはキリがありません。私たちは信仰において「足ることを知る」ということを学びませんと、いつもこの貪欲という罪に支配されてしまうのです。この罪から無縁で生きられる人はいません。多分、主イエスがこのように言われたということは、この人にとってこの遺産相続の問題は、これがなければ食べていけないというような、せっぱ詰まった問題ではなかったのではないでしょうか。別に、今生活するのに困っている訳ではない。しかし、遺産が入ってくればもっといい。みすみす、自分のものとできるはずのものを手放すことなどできない。そんな心の動きだったのではないでしょうか。だから主イエスは、貪欲に注意せよ、用心せよ、と言われたのだと思います。
そして主イエスはここで、一つのたとえ話をされました。16節以下にある話です。ある金持ちの畑が豊作だった。あまりに豊作で、それをしまっておく場所もない程でした。そこで、この金持ちは、倉を新しく、大きくいたします。そして、その新しい大きな倉に豊作だった穀物を入れ、財産を入れ、そして安心するのです。「これで、もう何年先までも生きていける、もう大丈夫。食べて、飲んで、楽しもう」。そう、自分に言うのです。小見出しにもありますように、このたとえ話は、昔から「愚かな金持ちのたとえ」と言われてきました。しかし、一体この金持ちのどこが「愚か」だというのでしょうか。この金持ちがしていることは、私たちが普通に考え、普通にしていることではないでしょうか。たくさんの収穫があったら、倉に入れて将来に備えるのは当たり前のことでしょう。来年も豊作とは限らない。凶作かもしれない。だから、豊作の年に蓄えをする。当たり前のことです。これの一体どこが、「愚か」と言われなければならないことなのでしょうか。このたとえの最後で、神様は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われました。「お前が用意した物は、いったいだれのものか」と神様は言われる。金持ちは、当然、自分のものだと思っていたのです。
実は、このたとえ話において、この翻訳においては表れていないのですが、原文においては、「私の」という言葉が頻繁に出て来ているのです。「私の作物」「私の倉」「私の穀物」「私の財産」。そして「自分に言ってやる」という所は「私の魂に言おう」です。この金持ちは、自分の命を含めて、全ては自分のものと考えていた。そしてそのことこそが、神様に「愚か」と言われている所なのです。命も、富も、食べ物も、全ては神様のものなのです。それを知らずに、全てを自分のもの、自分でどうにでもできるものと考えてしまう。それが「愚か」なのです。それが貪欲の罪の根本に潜んでいるものなのだと、主イエスは告げられたのです。
私たちの命は神様のものであります。神様が私たちに命を与え、今日も生きよと日毎の糧を与えて下さっている。神様がその必要の全てを備えて下さり、富を与えて下さった。とするならば、私たちは自分の命も富も、本来の所有者である神様のために用いる。神様に献げるべきものとして用いる。このことを忘れる時、私たちは自らの貪欲の罪に支配されてしまうということなのです。
このたとえ話を読んで、将来のために蓄えるということはいけないことなのかと考える人がいるかもしれません。生命保険も、貯金もいらない、してはいけない。そんなことを主イエスは言われているのではないのです。別に、主イエスは「アリとキリギリス」の話をここでされているのではないのです。アリでもキリギリスでもダメなのです。あの話は、結局、自分の人生を自分でどうするかという話でしょう。そうではなくて、私たちの人生は神様の御手の中にある。このことを私たちが生きる上での根本に据えておかなければならないということなのです。そして、その根本の所に立つ時、私たちは富からも貪欲からも自由になることができるということなのです。
主イエスは最後に、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われました。神の前に豊かになる。それは、信仰において豊かになるということでしょう。信仰の豊かな人は、神様の恵みの中に生かされていることをよく知っている人です。そしてその人は、自分の富からも自由になることができる人なのです。
私は牧師として生きていて、いつも難しいと思っていることは、献金というものを教えることなのです。たとえば、結婚式や葬儀があったとき、日程や準備の話をして、最後にお礼はいくらすれば良いのでしょうか、尋ねられることがあります。必ずといってよいほど、この話が出るのです。教会によっては、結婚式はこれだけ、葬式はこれだけと決めている所もあるようですけれど、私はそれでよいのだろうか思っているのです。教会は、献金以外は受け取らないのです。そして献金である以上、それはその人が神様との間で決めることです。献金に相場などというものはありません。あってはならないのです。私はいつも、「お志で結構ですよ。献金に定めはありません」と答えることにしています。そうすると必ず、それでは困ると言われる。本当に困るのでしょう。それは教会に来ていない人だから困る訳ではなくて、教会員であっても困ることなのでしょう。でも私は、本当に困ったら良いと思っているのです。神の前に豊かになる、自分の富から自由になる、そのためのとても大切なチャンスを牧師が奪ってはならないと考えるからです。
私たちの命も富も時間も、全ては神様のものです。それは何と素敵なことでしょう。私たちは明日を知りません。だから不安になるということなのでしょう。だから、先立つものを用意しておかなければということになる。しかし、私たちが知り得ない明日は、神様の御手の中にあるのです。私たちのためにその独り子さえ惜しまずに与えられた、その父なる神様の御手の中にあるのです。だから、安心して良いのです。ゆだねて良いのです。その大安心の中で、私たちは自分をしばっている貪欲や富の誘惑からも自由にされていくのでしょう。いつも心が向いてしまう問題からも自由にされ、心を神様に向けることができるのであります。この自由の中に生かされている幸いを、心から感謝したいと思います。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。今日は主イエスが語ってくださったたとえを通して、御言葉を与えられました。私たちには将来のことは分かりません。そのため何とか自分の力で、将来への安心を確保しようと思い煩います。確かに将来に備えることは必要なことです。しかし、私たちに与えられるすべての物、そして私たちの命そのものが、あなたが与えてくださったものです。そして私たちには分からない私たちの将来は、あなたの御手の中にあります。私たちを御子を給うほどに愛してくださっている神様の御手の中に守られています。どうかそのことをいつも思い出して、貪欲に走ることなく、あなたにゆだねて生きる者とならしてください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。