行き悩む者と共に歩む主

マルコによる福音書6章45~56節 2024年6月23日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 旧約において最も有名な出来事は、皆さんもご存じの出エジプトの出来事です。モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民に、エジプト軍が迫ってきています。前は海です。イスラエルの民は絶体絶命のピンチです。この時イスラエルの民はモーセにこう言うのです。「我々を連れ出したのは、エジプトに墓がないからですか。荒れ野で死なせるためですか。いったい、何をするためにエジプトから導き出したのですか。」この時に至るまで、イスラエルの民は何度も何度も神様の御手による奇跡を経験しているのです。蛙の奇跡、あぶの奇跡、疫病の奇跡、雹(ひょう)の奇跡等々、そして過越の出来事も経験しているのです。それでも、前は海、後ろはエジプトの軍隊という状況になりますと、ダメなのです。大丈夫などととても言えないのです。神様に向かって、モーセに向かって、文句を言い始めるのです。

 そのような、うろたえ、つぶやくイスラエルの民に対して、モーセはこう告げました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」モーセは、イスラエルの民を叱りつけるように告げるのです。そして、モーセは神様に祈り、神様はモーセが海に向かって手を差し伸べると、海の水を分かれさせて道を造り、イスラエルの民はその海の中に拓かれた道を通って逃げることができたのです。これは本当に大きな、その後何千年にもわたって神の民において語り継がれる大きな出来事でした。

 しかし、イスラエルの民は、この出来事によってどんな時も大丈夫と言える民になったかと申しますと、そうはならなかったのです。食べ物が無くなればエジプトの方がよかったと不平を言い、水が無くなればつぶやくのです。そのたびに神様は、マナを与え、うずらの大群で肉を与え、岩から水を出して、イスラエルの民を養われたのです。神の民が、どんな時でも神様を信頼して大丈夫と言って歩むことができるようになるには、時間もかかるし並大抵のことではないのです。

 私たちもそうなのです。生まれつき信仰深いなどという人は一人もいないのです。神様を信じたといっても、誰でも不安になるし、大丈夫と言いたいけれど言えない時があるのです。しかし神様は、そのような不信仰な私たちを全部承知の上で召し出し、神の子とし、御国への道を歩ませてくださっているのです。神様は、その都度その都度、必要のすべてを備えてくださり、全能の御腕を以て私たちを守り、支え、導いてくださっているのです。

 さて、マルコによる福音書の御言葉を見ましょう。45節に「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた」とあります。「それからすぐ」というのは、直前の、男だけで五千人の人々を五つのパンと二匹の魚で養われたという奇跡が行われたすぐ後で、ということでしょう。主イエスは、弟子たちだけを舟に乗せてガリラヤ湖の向こう岸にあるベトサイダに向かわせ、御自身は群衆を解散させられました。ここで、主イエスと弟子たちは別れたのです。弟子たちは舟の上、主イエスは陸の上です。ところが、弟子たちが乗っている舟が逆風に遭って、少しも前に進まない。弟子たちが舟に乗ったのは夕方だと思われます。それが、夜が明ける頃になっても、つまり12時間、丸半日、夜通し舟を漕いでも、逆風にあおられて、向こう岸に着くことができなかったというのです。その間、主イエスは何をしておられたのでしょうか。46節「群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」とあります。主イエスは山の中で祈っておられたのです。

 マルコによる福音書4章35節以下にも、同じような状況が記されていました。弟子たちと主イエスを乗せた舟が、やはりガリラヤ湖で嵐に遭ったのです。この時、主イエスは風を叱り、湖に向かって「黙れ。静まれ」と言われました。すると、嵐は静まってしまいました。しかし、今回は弟子たちの乗った舟に主イエスはおられません。そのことを強調するように、47節「舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた」と記されています。弟子たちは湖の真ん中、主イエスは陸の上。携帯電話もヘリコプターもありません。この弟子たちと主イエスの隔たりは絶対的なものでした。しかし、48節には「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」とあります。いったい、主イエスはどのようにして弟子たちを「見た」のでしょうか。夜明け前の暗闇の中だけれど、主イエスは見晴らしの良い山の上にいたので、湖を見渡すことができた。弟子たちの舟が逆風の中で立ち往生しているのが見えた、ということなのでしょうか。そうではないでしょう。主イエスは祈っておられたのです。その祈りの中で、主イエスは弟子たちの状況を見たということではないかと思うのです。弟子たちには主イエスの姿は見えません。しかし、主イエスはいつでもどんな時でも、弟子たちの状況を祈りの中で覚えて、見てくださっているのです。この近さを、聖書は告げているのです。弟子たちには見えない。しかし、主イエスには見えている。私たちもそうなのです。主イエスのことは見えない。しかしそれは、主イエスが私たちから遠いということを意味していないのです。主イエスは、私たち一人一人を、その祈りの中で見ておられるのです。弟子たちが、主イエスに祈っていただいていたように、私たちもまた、主イエスに祈られ、見ていただいているのです。私たちの歩みは、この主イエスの祈りのまなざしの中にあるのです。

 主イエスは、弟子たちの困り果てた状況をただ見ていただけではありませんでした。主イエスは湖の上を歩いて、弟子たちのところに来られたのです。これは、弟子の誰も考えてもいないあり方でした。主イエスは、いつも私たちの思いを超えたあり方で、その御姿を現し、救いの御業を行われます。私たちが、こうなったらよいのにと思うようには、なかなかなりません。しかし、主イエスは、そして神様は、私たちの期待以上の、私たちが考えていなかったあり方で、大丈夫と言えるようにしてくださるのです。出来事を起こしてくださるのです。主イエスは何と湖の上を歩くというあり方で、弟子たちのところに来られたのです。

 しかしこの時、弟子たちは湖上を歩く主イエスを見て、幽霊だと思って、大声で叫んだのです。「ギャー!おばけー!」というような叫びだったかもしれません。暗い湖の上を人が歩いているのを見れば、誰でもそう思うでしょう。そして、主イエスが弟子たちの舟に乗り込まれると、風は静まりました。弟子たちは非常に驚きました。そして聖書は52節で「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と告げるのです。

パンの出来事。これは先週見ましたように、物質保存の法則を超えてしまっているわけで、これは主イエスが、無から全世界を造られた全能の神様の独り子であることを示しているわけです。しかし、弟子たちはそのことを理解していなかったというのです。大変な力を持った方だとは思ったでしょう。これで、食べることは心配しなくてよいと思ったかもしれません。しかし、主イエスがただ一人の神様の御子、まことの神であられるという理解には至らなかったというのです。

 実は、この湖の上を歩いてこられるこの出来事も、主イエスがまことの神であられるということを示しているのです。それは二つのことから言えます。第一に、48節「湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」という所と、50節の主イエスが弟子たちと話された「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という所です。

 どうして、主イエスは湖の上を歩いて近づいてきたのに「そばを通り過ぎようとされた」のでしょうか。通り過ぎて、先に何があるというのでしょう。しかし、これは旧約において、神様が自らの姿を現される時の現し方なのです。二つの例を挙げますと、モーセが神様に栄光を示してくださいと求めた時、神様はモーセを岩の裂け目に入れて、栄光を通り過ぎさせました(出エジプト記33章18~23節)。また、預言者エリヤがバアルの預言者と戦い、王妃イゼベルに命を狙われてホレブの山に逃げた時、エリヤの前を主が通り過ぎて行かれました(列王記上19章11節)。このように、主イエスが弟子たちの前を通り過ぎるというあり方は、主イエスがまことの神であることを示しているのです。

 また、主イエスがここで「わたしだ」と言われているのは、神様が御自身のことを言われる時の言い方なのです。ヨハネによる福音書には、ギリシャ語で「エゴー、エイミ」と言葉が何度も出てきます。これは神様がモーセに御自身の名を告げられた所で言われた言葉、「わたしはあるという者だ」(出エジプト記3章14節)をギリシャ語に置き換えたものなのです。つまり、主イエスはここで、「わたしは神だ。アブラハム、イサク、ヤコブが拝んだ神、イスラエルをエジプトから導き出した神である。だから、安心しなさい。恐れることはない。と言われているのです。天地を造られたまことの神様である主イエスが、共にいてくださる。だから大丈夫なのです。ここに私たちの平安の源があるのです。

 しかし、この時弟子たちが湖の上で逆風にあおられ、にっちもさっちもいかなかったのは、主イエスが舟に強いて乗せたからではないか。弟子たちは主イエスに舟に乗せられなかったら、そもそもこんな目に遭わなくて済んだのではないか。その通りなのです。イスラエルの民もエジプトにいたままだったら、奴隷のままでいたのなら、苦しい出エジプトの旅をする必要はなかったのです。このことは何を意味するでしょうか。それは、神様に召し出されて始まった私たちの信仰の歩みは、決して順風満帆であるわけではないということです。そして、たとえ順風満帆でなくても、それでも私たちは大丈夫なのです。

 それは、個々人の信仰の歩みにおいてもそうですし、昔から舟にたとえられるキリスト教会の歩みにおいても同じです。逆風に吹かれたり、嵐に遭ったりするのです。漕いでも漕いでも、ちっとも前に進まない。もうダメだ。沈んでしまう。そう思うような状況に追い込まれることもあるのです。しかし、大丈夫なのです。天と地を造られた全能の神様が、その全能の御力を以て、私たちを守り、支え、導いてくださるからです。父なる神様の御前にあって、主イエスが私たちのために執りなしの祈りをしてくださっているからです。この主イエスの祈りの中に、私たちの一日一日はあるのです。だから、大丈夫なのです。私たちの抱えている問題や課題は、私たちの願ったような形ではなくても、必ず道が拓かれます。海の中にさえも、道を拓いてくださる神様です。湖の上も歩いて来られる主イエスです。その主イエスが、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と告げておられるのです。だから、私たちは大丈夫なのです。この一週も安んじて、主の備えてくださった道を歩んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にし、あなたの御言葉に養われましたことを感謝いたします。主イエスはまことの神として、「安心しなさい、わたしである」とおっしゃいます。困難のときにこそ、ご自分が私たちと共におられることを示し、励ましてくださいます。そのことを心から信じ、主イエスにすべてをゆだねて、これからもそれぞれの生涯を歩ませてください。このひと言の切なる感謝と願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。