マルコによる福音書 6章14~29節 2024年6月2日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝与えられております御言葉は、洗礼者ヨハネが少女の踊りの褒美に首をはねられたという、まことに痛ましい出来事が記されております。
この出来事は、主イエスが人々を悔い改めさせるために12人の弟子たちを村々に二人ずつ遣わされたという記事と、弟子たちがその伝道の旅を終えて主イエスの所に来て報告したという記事との間に挟まれた形で記されております。ちょうどサンドウィッチのようになっているわけです。このようなサンドウィッチ構造のものは、挟まれているものが挟んでいるものをより明確にするために、強調するために、こういう構造にしてあると考えられるのです。この場合ですと、人々に悔い改めを求めるために主イエスによって弟子たちが遣わされたわけです。そのことを更に明確に強調するためにこの記事があるとすれば、それはここに記されている出来事は、悔い改めというものがどんなに難しいことであるか、あるいは悔い改めないとはどういうことなのか、そのことを具体的に示しているということなのでしょう。
悔い改めるということが、主イエスの福音を信じてその救いに与るためにはどうしても必要なことです。そして、この悔い改めは、どうしても今までの自分が変わるということを意味するわけです。何も変わらないで悔い改めるということはあり得ない。しかし、人は変わりたいと思っても、なかなか変われない。あるいは、変わりたくないという、堅い、石のような心を持っているものなのです。これが砕かれないと、主イエスの福音を受け入れることができないわけです。
今朝与えられております御言葉は、三つの部分に分けられます。初めは14~16節で、人々は主イエスをどう見ていたのか、そしてヘロデはどう見ていたのかということが記されています。次は17~20節に、ヘロデがヨハネを捕らえた理由が記されています。そして21~29節に、どのようにしてヨハネは首をはねられることになったのかということが記されています。
順に見てまいりましょう。14節「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った」とあります。主イエスのことが人々の評判になり、遂にヘロデの耳にも入ったというのです。このヘロデというのは、ヘロデ大王の息子の一人でヘロデ・アンティパスという人です。彼は当時ガリラヤとベレアの領主でした。
人々は主イエスのことを、「洗礼者ヨハネが生き返ったのだ」、「いや、エリヤだ。」「いや、昔の預言者のような預言者だ」と、いろいろ言うわけです。人々は、主イエスがただ者ではないということは分かるのです。ただの人なら、主イエスがなさるような奇跡を行えるはずがないからです。それは正しいわけですが、主イエスが救い主だ、キリストだ、神の子だと言う人は誰もいなかったようです。そういう中で、ヘロデはどう思ったかと言いますと、16節に「ところが、ヘロデはこれを聞いて、『わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ』と言った」とあります。ヘロデはヨハネが生き返ったのだと思ったというのです。ここには、ヨハネの首をはねてしまったことへの恐れというものがあると思います。彼は、確信を持ってヨハネの首をはねたのではないのです。成り行き上、そうなってしまったと言ってもよいかもしれません。
そもそも、どうしてヘロデはヨハネを捕らえて牢に入れたのか。17~18節には「実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻へロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」とあります。このヘロデ・アンティパスは、異母兄弟であるフィリポの妻であったへロディアを妻としたのです。ヨハネはそのことを、律法に違反していると糾弾したのです。これは、十戒の第七戒である、姦淫の罪を犯していることは明らかでしょう。民衆から大変な支持があるヨハネがそのように自分を糾弾するのを、領主であったヘロデは、黙って見ていることはできなかったのです。それで、捕らえて牢に入れたということなのです。
領主ヘロデに対してこのようなことを大っぴらに言えばどうなるかということを、ヨハネ自身全く予想していなかったわけではないでしょう。しかし、ヨハネは言いました。なぜでしょう。理由ははっきりしています。ヨハネが預言者だったからです。神様の御前に生きる者だったからです。ヨハネにしてみれば、領主であろうと誰であろうと、神様の御前に、御言葉に従って生きなければならないのであって、明らかに神様の御心に反している者を黙っておくことはできない。そういうことだったのだと思います。
このヨハネに対しての態度が、ヘロデとへロディアとでは随分違うことが19~20節に記されております。「そこで、へロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。」妻のへロディアは、ヨハネを殺そうと思っていたのです。一方、ヘロデは、ヨハネを捕らえて牢に入れたといっても、それでもヨハネが正しい人、神様に遣わされた聖なる人であると分かっていたというのです。それ故、「彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」というのです。このヘロデの心をどう理解すればよいのでしょうか。私は、この時の領主ヘロデの心は、「悔い改めに遠くない」、そういう状態ではなかったかと思います。ヘロデはヨハネが語ることが正しいと分かっているのです。そして神様が自分に求めていることが何かということも分かっている。そして、分かるがゆえに、彼は「当惑した」のです。「そんなことを言われても困る。そんなふうには自分は変われない。」と思った。だから当惑したのです。でも、ヨハネの語ることは正しいから、それを退けたり、まして殺したりすることなどできない。それどころか、ヨハネの語ることに喜んで耳を傾けていたのです。
そして、遂にその日が来ました。21節「ところが、良い機会が訪れた」とあります。ヨハネを殺すのですから少しも「良い」機会ではないのですけれど、それはヘロデの誕生日でした。地位の高い役人や軍人、有力者等々、ガリラヤの政財界の主立った人たちが集められ、宴会が催されたのです。その宴会の席で、へロディアの娘、これはヘロデとの間の子ではなく、前の夫との間の子と考えられています。聖書には名前は出て来ないのですが、その名はサロメと伝えられています。サロメはこの時はまだ少女と言われる年齢だったわけですが、この宴会の場で踊ったというのです。当時の宮廷の常識からすれば、王の娘が人前で、しかも宴会の席で踊るなどということは、全く考えられないことでした。考えられないことだからこそ、大いに盛り上がったのでありましょう。ヘロデは酒の勢いも手伝ったのでしょう。少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と言い、固く誓ったのです。少女は座を外し、母親のへロディアに相談しました。するとへロディアは、「洗礼者ヨハネの首を」と娘に告げたのです。娘はヘロデのところに戻ると、母親に言われたとおり、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願いました。何とも恐ろしい言葉です。へロディアの、ヨハネへの憎しみの深さには恐ろしいものを感じます。人は、自分のしたことが間違っていると指摘されると、ここまでの憎しみを抱くものなのかと思わされます。へロディアにしてみれば、自分のプライドも傷つけられたということでもあったでしょう。しかし、これは多かれ少なかれ、誰でも身に覚えがあることでもありましょう。
問題は、この時のヘロデの対応です。「何をバカなことを言っているのか」で済ますこともできたと思います。しかし、そうはしなかったのです。26節「王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった」とあります。何と愚かなことでしょう。ヘロデは客の手前、この願いを退けなかったというのです。客の手前です。招いた客に何と思われるか。そのことを思うと、この願いを退けたくなかったのです。彼は「ヘロデの口約束は当てにならない」と言われることを恐れたのでしょうか。そうではないと思います。「ヘロデはヨハネを恐れている」。そう思われたくなかったということなのではないでしょうか。自分は領主だ。何も恐れるものはないのだ。自分がこのガリラヤで一番偉いし力もある。そのことを示したかったということなのでしょう。
まことに愚かなことです。先ほど、ヘロデは悔い改めに遠くないと申しました。確かに遠くなかったと思います。しかし、悔い改めるためには、一歩を踏み出さなければならない。その一歩を、ヘロデは踏み出せなかったのです。そして、そうしている内に、へロディアの策略によって、逆の一歩、神様の御心を退けるという一歩を踏み出してしまったのです。ここで注目すべきは、「客の手前」という言葉です。ヘロデは人の目、人の評価というもので自分の一歩を決めてしまったということなのです。一方、ヨハネは神様の御前に立ち続けました。人の目を気にして人の前で生きるのか、神様の目を考えて神様の御前に生きるのか。悔い改めるとは、この「誰の前に生きるのか」という所において、決定的な転換を求めるものなのです。私たちは誰の前に生きるのか。人の前か、神の前か。それが問われるのです。
もちろん、私たちはこの世に生きているのですから、人の目など全く気にしないということはあり得ません。神の御前に生きているのだからと、傍若無人に生きてもよいということでもありません。しかし、人の目を気にして神様の御心に反することも行ってしまうということが、悔い改めた者の歩みでないことは明らかでありましょう。悔い改めるとは、何よりも神様の御前に生きる者となるということなのです。ヘロデは、その一歩を踏み出せなかったということなのです。そして、それゆえに主イエスの話を聞いて「ヨハネが生き返った」のだと思い、恐れ、怯えなければならなかったのです。
さて、洗礼者ヨハネは、王の娘の踊りの褒美という、まことに愚かな理由で殺されることになってしまいました。何とも痛ましいことであります。しかしこのことは、主イエス・キリストの十字架を指し示しているのです。主イエスもまた、祭司長や律法学者たちの妬みのために十字架につけられたのです。ピラトは主イエスを十字架に架けないで済むようにしたいと思いましたが、「十字架につけよ」と叫ぶ人々の声に押されて、ヘロデと同じように、まさに人々の手前、十字架につけることを決めたのでした。ヨハネの死も、主イエスの死も、人間の罪のゆえでした。神様は、ヨハネの死も、主イエスの死も、お止めにはなりませんでした。神様は何もしない、そのようにも見えます。しかし、そうなのでしょうか。愚かな人間の、罪にまみれた、憎しみや妬みの結果もたらされた死です。しかし、そのヨハネの死は主イエス・キリストの十字架の死と一つにされ、永遠の命へとつながっているのです。私たちは、天の御国において、きっと洗礼者ヨハネとも相見えることでしょう。
神様の御前に生きた者の命が、無駄に失われるなどということはあり得ないのです。神様の御前に生きる私たちにも、その命が備えられています。その希望を確かにしてくださるために、神様は聖餐を備えてくださったのです。ただ今から私たちは聖餐に与ります。この聖餐は、悔い改めて神様の御前に生きる者とされた者が、やがて天において主イエスと共に与る食卓を指し示しています。今、共々に聖餐に与り、御国に向かって神様の御前に生きる者としての歩みを、いよいよ確かにしていただきたいと心から願うのであります。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を心から褒め称えます。今日も御言葉をお与えくださり、あなたの御心を示してくださったことを感謝いたします。どうかヘロデのように人の目を気にするのではなく、神様の御前に生きる者として、私たちを導き支えていてください。あなたに望みを置きつつ、それぞれの人生を生きる者とさせてください。今週も教会につながる兄弟姉妹の歩みをお守りくださり、折にかなった導きと励ましをお与えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。