マルコによる福音書 6章6節b~13節 2024年5月26日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスの弟子たちは、いつも主イエスと一緒におりました。主イエスが村から村へと神の国の福音を宣べ伝えて旅をすれば、弟子たちも一緒に旅をしました。主イエスが奇跡をすれば、弟子たちはそれをいつも近くで見ておりました。主イエスがお語りなる言葉も側でいつも聞いておりました。しかし、今朝与えられた御言葉において、主イエスは12人の弟子たちを遣わされました。弟子たちは、初めて主イエスを離れて、自分たちだけで神の国の福音を伝えるために出かけたのです。ずっとではありません。この時だけです。これが終われば、また弟子たちは主イエスと旅を続けたのです。ですから、後に復活された主イエスは、弟子たちを全世界に福音を宣べ伝えさせるために遣わされますが、これはその時に向けての予行演習のようなものではなかったかと思います。主イエスが十字架にお架かりになり、三日目に復活されて、弟子たちを全世界に遣わされる。その本番に向けて、遣わすに当たっての具体的な指示を与え、その通り行ったら上手くいったという成功体験を弟子たちにさせておくためではなかったかと思います。その意味では、ここに記されていることは、現在に至るまで、主イエスに遣わされた者として生きる伝道者、主イエスに遣わされた者として生きる教会、キリスト者のあり様を示している、そう言ってよいと思います。私たちは、主イエスに遣わされた者なのです。
まずここで目にとまりますのは、弟子たちが二人ずつ組にして遣わされたということです。一人ではなかったのです。これは何を意味しているでしょうか。すぐに考えつくのは、困ったり行き詰まったりした時でも、二人ならば、励まし合って、支え合って、事に当たることができるということでしょう。一人というのは大変弱いのです。誘惑にも負けやすいですし、独りよがりにもなりやすいのです。ここでは二人ずつとなっていますが、一人ではないということが大切なのだと思います。
また、この二人ということには、こういう意味もあったと思います。伝道者が伝えるのは神様の愛ですから、自分自身がそのような愛の交わりに身を置いていなければ、語る言葉に力もリアリティーもなくなってしまうということです。その意味で、伝道者の交わり、同労者の交わりというものはとても大切で、また麗しいものだと思っています。神様の愛が現れ出る交わりだからです。
しかし、このように申しますと、伝道者があるいは教会の奉仕者が立ち続けることができるのは、そのような交わりによって支えられることよりも、神様の召命に対する確信によるのではないか、と思われる方もおられるかもしれません。確かに、この召命という事実が何よりも大切なのです。ここで主イエスは「十二人を呼び寄せ」、そして遣わされたのです。主イエスに召し出された者として遣わされる。この事実が何より大切です。しかし、その召命に立ち続けるためには、同労者との交わりが必要なのです。主イエスは、召して遣わすだけではなくて、その召しに立ち続けることができるように、二人ずつ組にされたのです。
教会は、この主イエスの愛と知恵に満ちた配慮を、大切なこととして受け止めてきました。復活された主イエスによって全世界に遣わされた弟子たちの様子が、使徒言行録に記されております。そこで私たちは大伝道者パウロの伝道の歩みを見ることができます。彼は何度も伝道旅行をしておりますが、あの大伝道者パウロは、いつも一人では伝道に行っていないのです。彼はバルナバ、シラス、テモテといった同労者といつも一緒だったのです。ここには、主イエスが二人ずつ組にして使徒たちを遣わされたということが生かされているのだと思います。
8~9節には具体的な命令が記されています。「旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。」ここには常識では考えられないことが記されております。パンも袋も金も持っていくなと言うのです。これと同じ記事がマタイによる福音書10章とルカによる福音書9章に記されておりますが、そこでは、杖も下着も二枚は持っていくなと言われています。ここでは、杖は持っていってよい、履物もよいと言われています。ここで、何は持っていってよい、何は悪いと、中学校の修学旅行の持ち物リストではないのですから、そんなことを詮索してもあまり意味はないだろうと思います。また、ユダヤ教徒の町ではどこでも、旅人のため食べ物と衣服の世話をする人がいたと言われます。
大切なこと、主イエスがここで言われていることは、通常の旅においては持っていくのが当たり前、それが無ければ旅などできないと思うようなものを「持っていくな」と言われたということです。その理由ははっきりしています。弟子たちは神様の愛を伝えに行くのです。神の国は主イエスと共にもう来ている。神様は今、ここで生きて働いてくださっている。だから悔い改めよ。そう宣べ伝えに行くのです。その宣べ伝える事柄を、身を以て証ししなくてどうするかということなのです。神様を信頼しなさいと言っておいて、自分はお金を頼り、二、三日の食糧を確保しておこうというのでは、言っていることとしていることが違います。神様がすべてを守ってくださるのだから、そのことを信じ、神様にすべてを委ねて行きなさい。その神様への信頼がなくて、どうして神の国の福音を宣べ伝えることができますか。「神の国は来ているのです。神様の御支配を信じなさい。それを身を以て示しなさい。」そう主イエスは、この何も持っていくなということによって、告げられたのでありましょう。この生ける神様への信頼、これこそキリスト者になくてはならないものなのです。世の人々がキリスト者に、キリスト教会に目を見張るのは、この生ける神様への信頼と、その信頼に応えてくださる神様の御業なのです。これが無ければ、キリスト教会は語るべき言葉がありません。キリスト教会というものは、これだけ努力しました、その結果こうなりました、そういう世界に生きているのではありません。ただ神様の憐れみ、生ける神様の御業、神様の奇跡を証しする者として立っているのです。
そして11節です。「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」何とも冷たい言葉のように受け取られかねない言葉です。しかし、これも実に主イエスの愛と配慮に満ちた言葉なのです。「足の裏の埃を払い落とす」という行為は、私はもう知らない、あなたとは関係ない、そういうことを示す行為です。ですから、何とも主イエスらしくないと感じてしまいますが、これは遣わされる弟子たちに対しての、主イエスの慰めの言葉なのです。こういうことです。主イエスの福音を携えて弟子たちは村々町々に行くわけです。しかし、そのすべての所で歓迎されるとは限らないのです。この直前のところで、主イエスが故郷のナザレでは歓迎されなかったということが記されています。主イエスでさえそうなのです。まして、弟子たちが、行った村全てにおいて歓迎されたと考える方が不自然でしょう。弟子たちも、村人に受け入れてもらえず、冷たくあしらわれるということがあるだろう。そのような場合、弟子たちはどう思うか。自分に力がなかったからだ。自分は伝道者としてふさわしくないのではないか。自分にはあれができない、これができない。そのように自分を責めるということが起きるのです。そのような思いを抱いたことが一度もないという伝道者はいません。この時主イエスに遣わされた弟子たちもそうだったと思います。主イエスはそのことをあらかじめ知っておられ、この言葉を告げられたのでしょう。つまり、「あなたがたを受け入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら」、それはそこに住む人々の問題であって、あなたがたの責任ではないのだ。それはそこに住む人々が自分で決めたことであって、その人たちの責任なのだ。そのように、前もって上手くいかなかった場合に備えて、お語りになったということなのでありましょう。
もちろん、この主イエスの言葉を逆手に取って、私の言うことを受け入れないのはあなたがたの責任だ、私の責任ではない。そんなふうに伝道者が開き直るのは問題でしょう。自らの欠けをきちんと認めた上で、それでも、その人が福音に耳を、心を開くかどうかは神様がお決めになることであり、聞いた本人が決めることなのです。それは神様の領域であって、私たちの範囲を超えていることなのです。問題は、主イエスに遣わされた者として忠実にその業に仕えているかどうか、その一点に尽きるのです。
さて、主イエスは弟子たちを遣わすに当たって、7節後半で「汚れた霊に対する権能を授け」られました。主イエスは何も与えないで、ただ何も持っていくなと言われたのではないのです。汚れた霊、悪霊と戦い、これを追い出す権能をお与えになったのです。権能という言葉は、耳慣れないかもしれませんが、教会ではとても大切な言葉です。意味は、文字通り権威・権限と力ということです。教会はキリストの権能を行使するために建てられています。キリストの権能は、教会以外のどこにも与えられていないのです。
このキリストの権能は、キリスト教会にずっと与えられているものです。これが与えられているから、教会は教会であり続けているのです。説教、祈祷、洗礼、聖餐、あるいは戒規といったものは、この権能を行使する場面です。この礼拝の場が、汚れた霊を追い出す場なのです。私たちは、様々な心の傷を持っていますし、様々な具体的な課題を持っています。何の問題も持っていない人など一人もいません。しかし、私たちはこの礼拝に集っています。そして、この礼拝に集うたびに、神様が私を愛してくださっていることを、必ず私を救いの完成へと導いてくださることを、心に刻むのです。そのことによって、私たちは一切の悪しき霊の誘惑から守られているのです。悪霊・汚れた霊の働きは明らかです。私たちから生きる力・喜び・勇気・希望・信仰・愛を奪っていくのです。しかし、この礼拝において神様は働いてくださり、再び私たちに信仰を与え、悪しき霊の誘惑から助け出し、御国への歩みを新しく歩み出させてくださるのです。生きることの意味を教え、生きる力と勇気と希望を与えてくださるのです。
悪霊を追い出す権能は、もちろんこの教会にも授けられています。このことを私たちはしっかり受け止めなければなりません。世には汚れた霊どもが跋扈(ばっこ)しています。そして、汚れた霊の囚われ人になっている人が、おびただしくいるのです。この人々を汚れた霊どもから解放し、神様のもとに取り戻すため、キリストのものとするために、この教会は立っているのですし、私たちは遣わされて行くのです。生きる力と勇気を失いかけている人々に、主イエス・キリストによる救いの希望を与える者として遣わされていくのです。聖霊なる神様の御業の道具として、それぞれ遣わされている場において、存分に用いられていくために、共に祈りを合わせましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を合わせることができ、感謝いたします。神様、教会は、キリスト者はイエス・キリストの福音を宣べ伝えるために遣わされています。宣教は権能をもって私たちに託されているあなたの御業です。どうか、主イエスの御命令に従いつつ、喜ばしく福音宣教に仕えさせてください。聖霊においてあなたが共に歩んでくださることを信じて、暗さが支配つつあるように見えるこの世界に、福音の灯を輝かすことができますよう、私たちを強めていてください。今日から始まる一人一人の一週の歩みを、あなたが支え導いていてください。この拙きひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。