見ないで信じる者は幸い

ヨハネによる福音書20章19~31節 2024年4月14日(日)主日礼拝説教

                                            牧師 藤田浩喜 

 ヨハネによる福音書20章27節には、復活のキリストがトマスに告げたという、次のような言葉が記録されています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」キリストが十字架上で釘打たれた手のひらの穴、そしてやはり十字架上で槍で刺し貫かれたわき腹。そこに触ってみなさい、そこに手を入れてみなさいというのです。ずいぶん生々しい言葉です。

 ところで、今日お読みいただいたヨハネによる福音書20章19節に記されている「その日」とはイースターの日のことであり、イースターの晩に起こったことがここに記されています。その夜、キリストは弟子たちが集まっていた家の中にやって来られました。その場所がどこだったのか、詳しい説明はありません。ともかく、「恐れて」、「鍵をかけて」、じっと静まっていた弟子たちの前にキリストが姿を現し、弟子たちの平安を祈ってくださったのです。

 しかし、その晩、弟子のひとりであったトマスはそこにいませんでした。そこに居合わせなかったトマスが、仲間たちの証言を聞いても、ただちにそれを信じられなかったのはむしろ当然だったかもしれません。トマスは言います。  「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

 このトマスの言葉に応じるようにして、「8日の後」、つまり一週間後、再びキリストが弟子たちのもとに現れ、トマスに向かって最初にご紹介したような言葉を告げたといいます。

 この場面に登場するトマスは、往々にして「疑いの人」というふうに語られることがあります。しかし、トマスはここで何を「疑った」のでしょうか。 単純に考えれば、トマスが疑ったのは「キリストの復活」だったと言えるでしょう。十字架上でキリストの体につけられた傷跡を見るまでは、「決して信じない」という強い言い方は、悪く言えばトマスの猜疑心の強さを表わしているように思えますし、よく言えば事実を確認しようとするまじめさを示しているようにも思えます。

 しかし、この物語を読む時、私はここでトマスが口走った言葉の真意はそうした復活そのものについての疑いとは少し違うことだったのではないかと感じることがあります。それはどういうことかというと、トマスが自分だけそこに居合わさなかったということ、結果的にであれ何であれ、「仲間外れ」の立場に置かれたということこそ、彼にとっていちばんの衝撃であり痛みだったのではないかということです。

 福音書は、その前後の情景を次のように記しています。「12人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」

 この対話の中に、復活のイエス・キリストと再会した弟子たちが驚きを隠せず、それにもかかわらず喜びをもって報告しているのと対照的に、ひとりだけその場に居合わせなかったトマスの心境が反映されているように感じるのです。

 イエス・キリストに会えなかった。自分だけが会えなかった。自分の存在だけが無視されてしまったような、自分だけ仲間から取り残されてしまったような、そんな思い、そんな感情がトマスを襲い、思わず口をついて出てきた言葉が、その後につづく彼の言葉だったのではないかと思うのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」このトマスの言葉の中に、何か子どもがすねているような響きを感じるのは私だけでしょうか。

 とくに自分にとっていちばん大切な人々から見捨てられ、いちばん大事な出来事から取り残されてしまうこと。この場面のトマスとは状況が異なりますが、そういった仲間外れにされるという痛切な体験を、6歳の少年が味わい、そして書き記した詩があります。

「がっこうから うちへかえったら

だれもおれへんねん

あたらしいおとうちゃんも

ぼくのおかあちゃんもにいちゃんも

それにあかちゃんも

みんなでていってしもうたんや

あかちゃんのおしめやら

おかあちゃんのふくやら

うちのにもつがなんにもあらへん

ぼくだけほってひっこししてしもうたんや

ぼくだけほっとかれたんや

ばんにおばあちゃんかえってきた

おじいちゃんもかえってきた

おかあちゃんが

 『たかしだけおいとく』

とおばあちゃんにいうて

でていったんやって」

(灰谷健次郎『わたしの出会った子どもたち』、新潮文庫)

これは「あおやまたかし」という少年が書いた詩の最初の部分です。6歳というから、おそらく小学校一年生くらいでしょう。どういう事情があったのか分かりません。分かっていることは、この子だけが家族の中で取り残されたということです。親も兄弟もみんないなくなってしまった中で、自分だけがおいていかれたのです。

 トマスが経験したこととこの子の経験したことは、もちろんいろいろな面で異なっています。しかし、いちばん親しい人々の間で、思いもよらぬ時に、最も大事な出来事において、自分だけが取り残された、仲間外れにされたという点では、まったく同じです。「ぼくだけほっとかれたんや」という点では同じなのです。

「ぼくだけほっとかれた」という体験は、「交わり」にかかわる問題です。 神は人間を「交わり」の中で生きるものとしてお造りになりました。だから、「交わり」が失われた時、「交わり」が歪んだ時には、人間そのものの本質が歪められてしまったり、人間そのものが失われたりする場合があるのです。

 ところが、私たちが生きている現代社会においては、この「交わり」がたいそう歪められていたり、ひじょうに脆いものとなっていたりする場面に出くわすことがしばしばあります。例えば、教会にはいろいろな人たちがさまざまな問題を抱えて訪ねてきます。その中に、時々、「ホームレス」と呼ばれる人々がいます。話をしてみると、その人たちに共通しているのは「帰る場所がない」ということです。故郷がないわけではありません。家族もまったくいないわけではありません。でも、帰れないし、帰らない。あるいは帰りたくない、というのです。都会にいて何か希望や見通しがあるのかというと、そういうわけでもありません。どこかに知人や支えになる人がいるのかというと、そういうわけでもない人たちがほとんどです。

 「ホームレス」という言葉の本質は、物理的に「家がない」とか「職がない」ということと共に、またそれ以上に、「心のホームレス」、つまり、「交わりがない」、「帰属すべきものがない」ということを意味しているのではないかと思うことがあります。そういう意味における「ホームレス」の状態というものは、決して一部の人だけの問題ではありません。むしろ、それと似た状況は、多かれ少なかれ、私たちの身近なところで、私たちを取り巻いているとは言えないでしょうか。今日、小さな子どもたちから青少年や壮年、高齢者も含めて、また夫婦、親子、兄弟姉妹、友人、職場の仲間などを含めて、私たちの周囲にこのような「交わり」を巡る深刻な問題が横たわっているように思われるのです。

 私たちの時代は、誰もが「ぼくだけほっとかれたんや」という状況に追い込まれかねない時代です。誰もがそういうことに脅え、恐れているように感じられる時代です。そして、誰もが「ほっとかれない」ようにするために、SNSで情報を集めたり、絶えず仲間にメールしたり、あくせくしているように感じられる時代です。「ぼくだけほっとかれたんや」という体験は、人間を歪めてしまう可能性を秘めています。そして、「ぼくだけほっとかれたんや」という体験が頻繁に繰り返されたり、それが常態となってしまうなら、それはその人の人間性を破壊する結果をもたらさないとも限らないのです。

 聖書はイエス・キリストを、「ほっとかない人」として描いています。聖書が伝えるイエス・キリストは、家族から放り出された人、村や町から放り出された人、その社会の中で放り出された人、「ぼくだけほっとかれた」ことを体験した人々のもとにおもむき、そうした人々との間に「交わり」を形作り、それらの人々に生きる勇気を与える方として描かれています。

 今日の福音書は、このイエス・キリストという方が、十字架につけられ、死んで、よみがえった後にも、やはり「ほっとかない人」でありつづけたことを描き出しています。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」どうしようもない困惑と混乱の中に取り残された子どものように、大人気ない言葉を発したトマスに応えて、主イエスはそこにわざわざやって来て、そのようにおっしゃったと福音書は告げています。

 主イエスはここで、「私は決してあなたを忘れているわけではないよ」と言われたのです。ほかの弟子たちを差し置いて、ここで主イエスは、ただひとり、トマスに向かって、「私はあなたをほっておきはしない」とおっしゃったのです。

 トマスはどんな顔をしたのでしょうか。トマスは笑ったのでしょうか。それとも泣いたのでしょうか。本当の問題は主イエスの傷跡を確認するなどということにあったのではありません。主がトマスを忘れたのではないこと。  「ぼくだけほっとかれた」のではないこと。トマスもまた「私の仲間」だと確認してくれること。それがいちばん大事なことだったのです。

 私たちが生きていけるのは、だれかに愛されているからです。だれかが私たちのことを覚えていてくれるからです。キリスト者である私たちは、ぎりぎりのところで、この世のだれもが私のことを忘れ、私を見捨ててしまうような時でさえ、イエス・キリストだけは「私は決してあなたを忘れない」と言ってくださることを信じています。それが私たちを生かすのです。トマスを覚えていてくださった方は、私たちのことも覚えていてくださいます。トマスのためにわざわざやって来てくださる方は、私たちのもとにもその恵みと憐れみのまなざしを注いでくださいます。キリスト者である私たちは、どんな時でも、この方のまなざしのもとで生きているのです。私たちはこのまなざしによって、生かされて生きているのです。この方によって集められていることの喜びを、共に感謝し、共に歩んで行こうではありませんか。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを感謝いたします。復活された主イエスは、ご自身の方から弟子たちのもとに来てくださり、その姿をお示しになりました。そして、最初の時にいなかたったトマスのことを忘れずに、トマスのためだけにもう一度現れてくださいました。主イエスは、私たちをひとりぼっちにすることなく、主との豊かな交わりの中においてくださいます。私たちの教会の交わりも、そのような主との交わりを映し出す交わりとなりますよう、支え励ましていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。