少女よ、起きなさい

マルコによる福音書5章21~24節、35~43節 2024年2月25日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

ここでは死の問題が取り扱われていると思います。そういう意味では極めて深刻な事柄が記されていると思います。

 死というものは、言うまでもなく誰もこれを避けて通ることはできない問題です。どんな幸運に生活をした人でも、死の問題に突き当たらないで自分の生涯を終わらせることはできないのです。また、この死の問題は、ただ本人の生きる、死ぬという問題であるだけではなくて、本人を取り巻く、周囲の人々との関係の問題でもあると思います。本人がこの地上における生涯を終わるというだけの問題ではなくて、親しい者と別れるという、そういう問題がそこにあるのではないかと思います。ですから、死というものは本人にとっても、本人を取り巻くまわりの人間にとっても、辛い事柄なのです。

 今日の箇所に出てきますのは、一人の会堂長の娘が死んだというその時の出来事です。娘を失うかもしれない父親のつらさというものが、表現されていると思います。22節には、こういうふうに書いてあります。「会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。『わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。』そこでイエスは、ヤイロと一緒に出かけて行かれた」。この会堂長は、自分の娘のために主イエスのもとに行って、足もとにひれ伏して、しきりに願ったと書いてあります。

 「足もとにひれ伏す」というのは、単なる謙遜というのではなくて、自分のいっさいをかけて相手に願う。そういう姿がそこにあります。また「しきりに願った」というふうに書かれていますが、これは岩波から出た聖書の訳では、「必死に乞い願っている」というふうに訳してありました。「足もとにひれ伏して、必死に乞い願っている」。つまり、そこにあるのは、この父親の切実な気持ちです。死というものをめぐって、そこに娘の戦いがあり、また父親の肉親としての戦いがあるのです。その意味では、人は自分のためにだけ病と闘うのでなく、自分をめぐる人々のためにも生きる戦いをしなければならないという側面が、あるのだと思います。

 「イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。『お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。』イエスはその話をそばで聞いて、『恐れることはない。ただ信じなさい』と会堂長に言われた」(35~36節)。主イエスがその家に向かう途中、娘は間に合わないで死んでしまいました。だから、もう死んでしまったから、先生にわざわざ来ていただくには及ばないという連絡が入ったというのです。命がある間は、希望がある。そう私たちは思います。そしてその一つの命が支えられるために、あらゆる努力をし、また祈り願う。しかし、死んでしまった。すべてが終わってしまったのです。冷たくて動かすことのできない壁が前に立ちはだかります。今までは何かの努力をすることができました。ひょっとすると、という希望があった。しかし、死んでしまった時には、もういっさいが前に向かっては動かなくなる。冷たい壁が立ちはだかる思いを経験するのです。つまり一人の人間のストーリーがそこで終わってしまう。主イエスが弟子たちといっしょに近づかれますと、多くの人々が泣いていたと書いてあります。

 「一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騷いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。『なぜ、泣き騷ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。』人々はイエスをあざ笑った」(38~40節a)。多くの人々が死体を前にして、大声で泣きわめいて騷いでいたと書かれています。これはおおげさなようですが、人が亡くなった時に、ある人々が、おそらく近所から来たある人々が声をあげて泣く、というしきたりがあったからです。この泣くことを仕事とする人々さえいた、というふうにも言われています。むろん、悲しくて人間は泣きます。しかし、身近な人間ほどその悲しみは深くて、声にならないと思います。つまり、あまりつらすぎて涙も出ない。それがおそらく身近な者の実感ではないかと思います。私たちはテレビで、戦争や災害によって家族を目の前で亡くされた方が写っているのを見ます。しかし、たいていはもうほとんど泣いていない。泣けない。涙なく、茫然と立っている。それが肉親を失った者の姿でないかと思います。

 人間にとって死というものは、あまりにも残酷な行き止まりのように思います。もう終わったんだから、先生に来ていただかなくてもいい、ということになるのです。いろいろやったけれどもだめでした。先生を煩わすには及ばないでしょう。努力をしたけれど甲斐がなかった。しかし、その時主イエスは会堂長にこう言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい」。「恐れることはない」というのは、死を恐れることはないという意味です。「信じなさい」。会堂長は、ここまで主イエスを信じてやって来ました。ついて来ました。娘が死んで、それで信仰も祈りもそこで終わったというわけではないと言われたのであります。「なお、信じなさい」と、主イエスはこの会堂長に言われました。死んでしまったらおしまいであって、後は嘆くだけだ。悲しむだけだ。そしていつか時間がたって、あきらめるだけだというのではない。「なお、信じなさい」と、キリストは言われたのです。

 泣き騷いでいる人々に向かって主イエスは言われます。「なぜ泣き騷ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」。これを聞いた人々があざ笑ったと書かれています。不思議な表現です。今まで泣き騒いでいた人々が、今度はあざ笑ったというのです。眠っているだけだと言われて、喜んだというのではありません。一人の人間の死を前にして、人々は声を上げてさめざめと泣いていました。つまり、悲しみにふけっていたわけです。残された家族に同情して、悲しみにふけっていました。人間は往々にして、同情して悲しみにふけっている自分自身に酔ってしまうということがあります。誰かのために同情して嘆いている自分自身にふけってしまう。娘は眠っているだけだと言われて、その酔いを、言わば覚まされてしまったのです。だから、しらけてしまった。もうここで、終わりなんだ。ここはもう泣くだけ、悲しむだけという場面なのに、何か別のことをしようとしている主イエスに、人々はついて行けませんでした。

 「人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた」(40節)。主イエスはたくさんの弟子たちの中で、三人の弟子たちだけを選んで、そしてその娘の両親を連れて、他の人を外に出したと書いてあります。部屋の中に入って行ったというのです。つまり、あきらめてしまった人たちは、外に出したのです。もうこれで終わったと思っている人に対しては、その人を外に出してしまった。そしてなおあきらめきれない、なお希望を捨て切れない人だけをつれて、主イエスは部屋に入って行ったのです。なお祈らないではいられないその人々を連れて、主は少女のもとに行ったのです。

 私たちの信仰というものは、あきらめた所で終わります。ここまでだと思った所が、私たちの終わりです。ここまでは一生懸命祈ってきた。もうここからは何にもないと思った所で、私たちの信仰は終わります。こんなつらい場面では、もう信仰は役に立たないと思ったら、そこで終わるのです。こんなひどい場面では、こんな残酷な場面では、もう神様は関係ないと思ったら、そこで私たちの信仰は終わります。人々から見捨てられた。もうだめだと誰かに言われた。だからもう……そう思った所が、私たちの信仰の終わりです。しかし、主イエスはさらにその向こうに踏みこんで行かれます。その向こうに行くことを期待されます。ここから先はもうどうにもならないと、人々が投げ出す、その場所に主イエスは踏みこんで行かれるのです。その死に場所にまで、主は踏みこんで行かれる。そして、こう言われました。「タリタ、クム」。「これは、『少女よ。わたしはあなたに言う。起きなさい』という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである」(41~42節)。

 「少女よ、起きなさい。少女は起き上がって歩き出した」と書いてあります。そして、「もう十二歳にもなっていたから」と注釈を付けているのです。つまり、聖書はこう言いたいのです。十二歳だから当然歩いたのだ、と。十二歳の少女だったから当然のように歩いたのだ。十二歳だから十二歳のその命がそこにあったのだと言っているのです。私は、主イエスが死の中に踏みこんで行ったと言いました。言うまでもなく、主イエスの十字架の死のことを言ったのです。主イエスが十字架で死んだということは、私たちを生かすための死でした。私たちの命を救うための死でした。人間の命を一つも滅ぼさない、そのためイエス・キリストは十字架に死なれたのです。十二歳の命を十二歳のままで生かすために、主イエスはそのために自ら苦しみを負われ、私たちの代わりに死んで下さいました。仕事を積み重ね、戦い労して倒れ五十歳の命を五十歳のまま滅ぼさないために、主イエスは死んで下さったのです。人生の辛酸をなめ、数えきれない喜びや悲しみをなめ、喜びや悲しみの刻まれた八十歳の命がどこかに消えてしまうことのないために、その命がかけがえのない大いなるものとしてありつづけるために、主イエスは死んで下さったのです。

 だから主イエスは御自分の全存在をかけて言われたのです。「娘よ、起きなさい」。十二歳の命はそこにあるのです。若葉のような十二歳の命はそこで神のもとにあるのです。滅びない。どこかに行ってしまった、などということはない。消えてしまった、などということはないのです。

 主イエスは、今も言われます。「起きなさい。だれそれよ、起きなさい」。誰かの生命がいつのまにか消えてしまう。そんなことはないのです。ある人の生命は軽いから、世間の人の誰にも知られなかったから、だからその命は消えてしまってなくなる。そんなことはありません。主イエスが言われるのです。「少女よ、起きなさい」。「わたしはあなたに言う。起きなさい」。そこでみんな起きるのです。主イエスの御手の中でみんな起きるのです。

私たちはみんな、そうしたキリストの前に生かされているのだということを忘れてはなりません。いずれなくなるような命を私たちは生きているのではない。いずれみんなに忘れられ、そしてどこかへ行ってしまうような命を、私たちは生きているのではないのです。キリストは一人一人に言われます。「起きなさい」。「少女よ、起きなさい」。決して、一人の命は滅ぼされはしません。そのために、キリストは十字架にかかり、よみがえられたのです。

 イザヤ書53章5節は言います、「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。私たちは、癒されたのです。私たち一人一人の命は、永遠に癒されたものとしてあるのです。失われない命としてあるのだということ、そのような命を私たちはみんな生きているのだということを、忘れないようにしたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴い御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神様、聖書の御言葉を通し、あなたの深い御心を示してくださり、ありがとうございます。御子イエス・キリストは、私たちの命が虚しく消え去らないように、十字架への道を進み、ご自身を捧げてくださいました。私たちの命は、地上の生を超えて、あなたの御許で保たれていきます。どうか、死を超えても失われることのない永遠の命への信仰を、私たちが固く持ち続けることができますよう励ましていてください。群れの中には、病床にある者、高齢の者、試練に立たされている者がおります。どうか一人一人を顧みて、折に適った助けと励ましを与えていてください。今世界で起こっております戦争が、一日も早く終結しますよう、そのための知恵と手立てをお与えください。能登半島地震の被災者の人たちが、今の状況を乗り越え、希望をもって歩むことができますよう、どうか励ましていてください。この拙きひと言の切なるお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。