命の冠をいただくために

ヤコブの手紙1章12~18節 2026年3月15日(日)主日礼拝説教

                          牧師 藤田浩喜

                        

 今日のヤコブの手紙1章12節に、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」とあります。苦しみや試練はできることなら、避けたいと思うのが私たちの率直な思いであり、願いです。しかし苦しみや試練を避けることができないのが、私たちの人生です。そこで耐え忍ぶほかないのです。

 ここに「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」とあります。ヤコブ書は人間が人間として生きていくことにおいて何か大切かと問い、それは忍耐であると言っています。とくに信仰者として生きていく上でもっとも大切なことは、忍耐であるというのです。忍耐ということがいかに大切であるかを語りたいがために、ヤコブはこの手紙を書き始めたと言ってもよいのです。後の5章7~11節においても、忍耐について語られています。とくに11節では「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います」とありますが、今日の個所はそこにつながっているのです。ヤコブ書は最初と最後に近いところで、「忍耐」について強調していることがわかります。

 ここでは「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」とあります。「耐え忍ぶ」という言葉は、原文では「あるものの下に留まる」という意味の言葉です。あるものの下に居続けることです。辛く苦しいからと言って、そこから逃げたり、離れたりせず、踏み留まることです。私たちは辛いこと、苦しいことを経験し、試練に出遭うと、そこから逃れたいと思います。たとえばひとつの責任、立場から逃れたり、責任を放棄して、逃れることもできます。生きることが辛くて死を選ぶことも、ある意味では逃避することです。

 しかしどんなにつらくても、そこから逃れないで、留まることが忍耐なのです。そして、そこに留まる人は幸いであるというのです。文の最初に「幸いである」とあり、幸いであることが強調されています。「幸いである。試練を耐え忍ぶ人は」という幸福宣言なのです。主イエスは「こころの貧しい人たちは幸いである」と言われましたが、遡って詩編1編1節では、「いかに幸いなことか」とあります。これらの言葉が背景にあって、ヤコブは「幸いである」と言っているのです。これは単に「ハッピー」という意味ではありません。まさにハプニングとしての幸いだというのでなく、神の変わることのない祝福を意味しているのです。

 また「適格者」という言葉は、金属の純度を確かめる時のことを意味しています。金属が燃える火の中で精錬されるように、私たちの信仰が試練という火の中で純粋なものにされていくのです。神への信仰が本物であるかどうか、偽りのない、純粋なものであるかどうかテストされて、本物であると認められることです。人はこのような試練の中でテストされ、試練を通して真実の人間となって行くのです。むしろ神に従い始めた時に、その信仰は本物であるかどうかテストされるのです。ある人が「試されるほどに愛されている」と言いました。人間は自由であるからこそ、テストされ、忍耐が試されるのです。忍耐は自由にされた人間の基本的な生き方なのです。主イエスが40日の空腹の後に試みに遭ったのも、主イエスが神の子であることが明らかにされたからでした。

 信仰の父と言われたアブラハムは祝福の基とされましたが、その時からさまざまな試練に遭うことになったのです。とくに念願の子どもイサクが与えられましたが、やがて成長していったある時、アブラハムがかなり晩年にさしかかっていましたが、生涯でもっとも厳しい試練に遭うことになったのです。イサクを犠牲として献げよ、という神の命令でした。これはアブラハムのゲッセマネであったと言えます。彼は苦闘し迷ったことでしょう。しかし神の命令に従ってイサクを献げる決意をしました。ところがその時、ストップがかかり、そこには犠牲の雄羊が用意されていたのです。そこで「主の山に、備えあり」と言われたのです(創世記22:1~19)。人生は若い時に試練に遭うだけではなく、アブラハムのように、人生の晩年になってからも、厳しい試練はやってくるということです。しかしそれに耐えるところに、人生の醍醐味があるとも言えるのです。試練を忍耐するところに、幸いがあるのです。ベートーベンは「苦しみを通って喜びへ」と言いました。苦しみがなければ喜びもないのです。試練がなければ、耐えることもなく、忍耐することがなければ、幸いもないのです。試練は辛く苦しいものです。しかしそれを忍耐するところに、幸いがあるのです。そこには理由があり、根拠があります。「適格者と認められ」、また「命の冠をいただくからである」とも言われています。「命の冠」とは勝利であり、栄誉です。まさに永遠の命という勝利なのです。

 ところが13節に「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはなりません。神は、悪の誘惑を受けるような方ではなく、また、御自分でも人を誘惑したりなさらないからです」とあります。「誘惑」は原文では「試練」と同じ言葉です。「試練に遭うとき」と言ってもよいのです。試練はどこから来るのでしょうか。たしかにアブラハムは神から試練を受けました。イスラエルの40年間の荒野の旅も、神の戒めを守るかどうか、心を試すためであったということが、申命記8章2節にあります。しかしユダヤ教でも、神は本来、人間を試みないという考えがありました。そしてヤコブ書はこの考えを受け継いでいるのです。試練や誘惑に遭ったとき、だれも「神に誘惑されている」と言ってはならないのです。神は誘惑なさらないからです。神は悪意の方ではなく、善意の方なのです。

 そうではなく、14節に「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです」とあります。誘惑は自分自身のもつ欲望に由来するのです。自分の中にうごめいている欲望こそが諸悪の根源なのです。人が試みに遭い、誘惑を受けるのは、神の責任ではなく、人間の責任であり、私たち自身の責任なのです。自分自身の欲望が、誘惑の出所です。「それぞれ」という言葉によって、各人の責任であることが鋭く指摘されているのです。欲望に引かれ、唆されるとは、猟師がおとりを使って獲物をおびき寄せることを意味しています。誘惑の原因は私たち一人ひとりの中、心の中にあるのです。だから誘惑の原因を神に転嫁し、責任をなすりつけ、自分の責任逃れをしてはならないのです。人間のこのような欲望は恐ろしいものです。欲望から罪が生まれるからです。この世の罪はすべて、人間の欲望から生まれるのです。

 こうして、15節には「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」とあります。実際、死は人間の自然の摂理、運命です。生まれた者が死ぬのは自然なのです。しかしここでは死の原因は罪であると言うのです。「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)とも言われています。死の原因である罪をたぐっていくと、欲望があるのです。死は肉体の死を意味するだけでなく、魂の死であり、永遠の滅びなのです。このような絶望的な永遠の滅びに対して、試練に耐え忍ぶ者は「命の冠をいただく」というのです。

 三浦綾子さんは『明日のあなたへ』の中で、「試練のない生活、それが最大の試練だ」というある人の言葉を引用しています。試練はできれば回避したいものですが、もし人生に試練がなく、苦しみがなかったら、どうなるでしょうか。生徒や学生にテストがなければ、これほど楽なことはありません。テストがあるから、一生懸命に勉強し、知識や知恵が身につき、忍耐力も養われます。あるいはスポーツには試合がつきものですが、試合があるからこそ一生懸命に練習するのです。人生において、試練がなければ、忍耐することもなく、人間として成長することもできません。自分に与えられた人生の課題を受け止め、真実に生きようとすれば、必ず試練に直面せざるをえないのです。試練があるからこそ、人生は人生と呼ぶにふさわしいものとなるのです。

 そこで三浦綾子さんは、次のように言っています。「私は長い病気の間、この世に病気がなければよいと思った。自分の人生にこんなに病みつづける日が来ようとは……と嘆いたこともあった。だが、今となっては、自分の人生を振り返ってみるのに、その受けた試練は、宝玉のようなものだと感じている。もしも今まで、只の一度も試練に遭わず、病むことを知らず、思いのままになる人生であったとしたら、私は涙というものを知らない人間になったであろう。…神は無駄なことをなさらないお方だ。神の与え給う試練には、それなりの深い意味があるのではあるまいか」と。

 試練とは、あるものの下に留まるということでした。しかしいったい誰がこのような大きな試練を耐え忍び、厳しいテストに合格し、適格者と認められることができるでしょうか。ヘブライ人への手紙12章2節に、「イエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」とあります。忍耐するということ、あるものの下に留まり続けるとは、十字架のキリストのもとに、神の言葉のもとに留まり続けることにほかなりません。忍耐とは私たちが耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、我慢するということではなく、その前にすでに十字架の死を耐え忍ばれたイエス・キリストの恵みのもとに留まり、真実な神の言葉に信頼して、その言葉のもとに留まり、神の約束の言葉が実現するのを待つということなのです。

 その意味で、忍耐は希望と結びついてくるのです。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:3~4)のです。やがて命の冠をいただき、永遠の命を受ける希望をもって待つことが、忍耐にほかなりません。生れてから死ぬまでの、紆余曲折の人生において、私たちはどんなに忍耐の時を過ごさねばならないことでしょう。すべて人生は忍耐の連続です。しかしその中でこそ、十字架を耐え忍ばれた主イエスが、私たちと共にいますことを経験するのです。

 試練に遭うと、罰があたったからであるとか、何かの祟りだとか思われることがあります。しかしそうではありません。神谷美恵子さんはハンセン病の人たちに出会った時、次のように思われたそうです。「どうしてこの私ではなくあなたが? あなたは代わって下さったのだ」と。主イエスは十字架にかかられました。「どうしてこの私ではなくあなたが? あなたは代わって下さったのだ」と、主イエスに言わねばならないのです。

 最後に若い日に読んだ本の中に、次のような言葉があったのをあらためて思い出します。マルティン・ルターの言葉です。「私はすべての人間から捨てられても、迫害されても、それだけ少なく神を信じることをしない。私は貧しくても、軽蔑されても、それだけ少なく神を信じることをしない。私は神を試みる何らの徴をも神から求めない。神がいかに長く私をまたせても、私は絶えず神を信じる」と。つらい試練も、イエス・キリストにおいて、人生の宝玉となるのです。キリストのもとに留まり続けたいものです。かならず耐える力が与えられ、逃れの道が開かれるでしょう。これからもいろいろな苦しみや問題に遭うでしょう。しかしそこから逃げ出すことなく、踏み留まり、キリストと共にあり、勝利者に永遠の命である命の冠が与えられることを確信したいものです。試練は完全に至るための大いなる益となるのです。

【祈り】私たちを罪と死から贖い取ってくださった主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの聖なる御名を讃美いたします。あなたは試練を耐え忍ぶ者に「命の冠」を約束してくださっています。しかし私たちの心の中には、「悪い傾向」「肉の側面」があり、それが「欲望」となって、私たちをあなたから離れさせようとします。そのような「誘惑」に陥るのは、私たちの内にある「欲望」のゆえです。どうか、そうした抗しがたい弱さを抱えた私たちであることを、素直に認めることができますように。そして、あなたが与えてくださった「主の祈り」に生き、主が私たちのために捧げてくださっている祈りに生かされていくことができますように。季節は進み、春の兆しをそこここに感じます。しかし、日によって寒暖の差が激しく、インフルエンザなどの感染症も収まっていません。どうか教会につながる兄弟姉妹一人一人の体調をお守りください。今週は3月19日・20日と第75回定期中会が横浜海岸教会で開催されます。どうか、この教会会議をあなたの御手の内に導き支えていてください。この拙き感謝と願いを主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アアメン。