神の確かな御手に守られて

マタイによる福音書2章13~23節 2025年12月28日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 占星術の学者たちが、星に導かれて、ベツレヘムに生まれた幼子イエスにお会いした御言葉を、先週聞きました。ところが、学者たちはその夜、夢で「ヘロデのところに帰るな」というお告げを聞きました。それで、彼らはヘロデのところに寄らないで、別の道を通って帰って行ったのです。

夢によるお告げは、ヨセフにも与えられました。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」(13節)。

 ヨセフは飛び起きました。そして、傍らで寝ているマリアを揺り起こし、急いで出発の用意をさせます。こうして、ヨセフとマリアは幼子イエスを抱き、夜明けを待たずして、エジプトへと旅立っていったのです。

 一方、ヘロデは、今か今かと学者たちの帰ってくるのを待っていたに違いありません。ところが、学者たちが帰ってこないということを知ると、彼は怒りに狂い、ベツレヘムとその周辺に住む二歳以下の男の子を皆殺しにするという、大変恐ろしい事件を引き起こしたのでした。この時、ベツレヘムという町の規模から推測して20~30人の子どもたちが犠牲になったのではないかと言われています。

 まったく惨(むご)い話です。しかし、これはヘロデの犯した残虐行為ですけれども、幼子イエスの身代わりとしてこれらの子どもたちが犠牲となったのです。そのことを考えますと、神様はどうしてこのようなことをお許しになっておられるのかと思わざるをえないのです。

 さらにまた、幼子イエスが逃げたということについても、釈然としないものがあるのではないでしょうか。もし、これがヘロデの悪魔的な仕業であるとするならば、救い主としてお生まれになった主イエスは、これに勝利をなさらなければならないはずです。もっとも主イエスはまだ小さな幼子でありましたから、ご自身で何かをなさることはできなかったでしょう。しかし、神様は主イエスを逃がすというだけではなく、ヘロデがもっと神を恐れるような仕方で、主イエスに栄光を与えつつ、ヘロデの手から救うことができなかったのでしょうか。ただエジプトに逃げるというだけでは、救い主の名が廃(すた)ると申しますか、あまりにも安易すぎるように思えるのです。 

 今日はこの二つのことについて、神様の御旨を尋ねたいと思うのです。最初は、主イエスの身代わりになって犠牲になってしまった子どもたちのことです。罪のない子どもたちでありました。なぜ神様は幼子イエスだけではなく、彼らを救われなかったのでしょうか。なぜ、ヘロデの手に渡されたのでしょうか。

 この問題は、今を生きる私たちにも起こりうる問題です。真面目に生きていても、信仰をもって生きていても、災いに遭うことがあります。災いというのは、良い人と悪い人を区別しないのです。

 三浦綾子さんの『泥流地帯』という小説があります。大正15年の北海道十勝岳の大噴火で、泥流が小さな部落を襲い、一切のものを流してしまうのです。主人公の耕作は命からがら泥流から救われましたが、家族や大切な人たちを失ってしまいます。茫然自失としている耕作は、やはり泥流から逃れた人たちが「心がけがよかったから助かった」と喜び合っているのを聞いて、激しい憤りを覚えるのです。「お姉ちゃんは心がけが悪かったというのか!」そして、助かった深城というあくどい男の顔を思い出して、「深城の奴は心がけが良かったというのか!」と非常な理不尽を感じるのです。

 過去の衝撃的な事件としては、アメリカの貿易センタービルにハイジャックされた旅客機が突っ込んだというテロ事件がありました。この事件で一般市民3, 000人が犠牲になりました。その内、身許が確認されたのは1,000人程度だそうです。本当に悲惨な事件でした。こういうことを経験した人が「神はどこにおられるのか!」と嘆き、また人生を呪っていたとして、私たちはそれでも「神様はおられる。ここにおられる」と胸を張って言えるでしょうか。

 私は、マタイという福音記者は、そのことについてここで明確に語っているのだと思います。ちょっと細かい話になって恐縮なのですが、ぜひ気をつけて聖書を読んでいただきたい部分があるのです。それは、マタイ福音書が1~2章の中で、よく旧約聖書の預言を引用して、「それは主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書いているところです。

 今日、お読みしたところにも、15節に、「『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と書かれています。23節にも、やはり「『彼はナザレの人と呼ばれる』と、預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」と書かれています。このような書き方をすることによって、神様が約束の御言葉を実現してくださったということが強調されているのです。

 では、ヘロデの幼児虐殺についてはどうでしょうか。17節、「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とあります。ここだけは、他のところにように「預言が実現するためだった」とは書いてありません。「預言が実現した」と書いているのです。神様が約束を実現されたというよりも、神様が仰っておられた通りになってしまったという書き方です。要するにマタイは、これは神様がなさったというよりも、人間の罪深さを知る神様が警告されていたことが、罪深いに人間の手によってその通りに行われてしまったということなのです。神様の御心ではなく、人間の罪が生み出したものなのです。

 私たちは災いに遭うと、「どうして神様は・・・」と神様を責めようとします。しかし、それは間違いではないでしょうか。神の国を求めないこの世が、そのように神なき、望みなき世界を造り出してしまっているのだと思うのです。その世界に生きている限り、私たちは神なき望みなき体験を避けることができないのです。しかし、聖書はそのような神なき望みなき世界に、一人のみどり子が与えられたということを語っています。そしてその御子を愛する者は、たとえ神なき望みなき世界にあっても、神を信じ、望みをもって生きることができるのだということを語っているのです。

 マタイは預言者エレミヤの預言を引用しています。しかし、実はその後半部分をここに書いていません。エレミヤの預言は次のように書かれているのです。エレミヤ書31章15~17節はこうでした。旧約1235頁です。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから。」

 ここまでが、マタイが引用をしているところです。しかし、その後にはこう書いてあります。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。 あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」このように、慰めと救いが約束されているのです。この時殺された子供らは、間違いなく天国に入るのです。

 では、マタイはなぜそれを書かなかったのでしょうか。マタイは敢えて書かなかったのだと思います。それは、この慰めと救いを信じなかったからではありません。そうではなく、神なき望みなき世界に与えられる神の慰めと救いこそ、マタイが書こうとした主イエスの生涯そのものだったからなのです。

 ヘロデの幼児虐殺の事件は、まさにこの世の暗闇を表す事件でしょう。しかし、この暗闇に決して呑み込まれなかった一人の幼子がいたのです。その幼子が、やがてこの世の暗闇に大きな光を放つお方になられます。「だから、そのような暗闇の中に生きている人よ、泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる。あなたの未来には希望がある、と主は言われる」。そう告げられています。このエレミヤの後半部分の預言の実現こそ、主イエスの御生涯なのだと確信して、マタイはこの福音書を書いているのです。 

 さて、もう一つ考えたいのは、なぜ幼子イエスは逃げるだけであったのかということです。主イエスが世の光であるならば、神の光でヘロデのもたらす暗闇をうち破ってもよかったのではないか。これは多くの人が思うことでしょう。

 しかし、聖書には「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」という御言葉があります。人間から見ると、神様は愚かで弱々しく見えるときがあるというのです。しかし、そのような時であっても、神様は人間の知恵や力をはるかに上回る知恵と力をもって、御業をなさっているのだということです。

 主イエスは、神様に等しいお方でありますが、それと同時に私たちと同じ者になってくださいました。それは、主イエスが私たちと同じように弱さや、貧しさを持たれたということです。実はそのことの中にも、主イエスの大きな救いがあるのです。

 たとえば、この福音書を書いたマタイ自身の救いについて考えてみるとよく分かります。マタイは、主イエスの奇跡を見て信じたのではありません。病を癒していただいたから信じたのでもありません。マタイは人々からローマ帝国への税金を集める徴税人でした。マタイは、ローマの手先、売国奴とみなされ、売春婦などの罪人と同じように軽蔑されている人々の一人だったのです。売春婦もそうですが、誰も好きこのんでそういう仕事につくわけではなく、そこに至る背景には幸せの薄い人生があったのだろうと思います。ところが主イエスは、そのようなマタイが仲間を集めて用意した宴会に、弟子たちと一緒に喜んで出席し、一緒に飲み食いしてくれたのです。ファリサイ派の人たちは、そういう主イエスを見て非難しました。しかし、主イエスはお構いなしに、マタイや他の罪人、徴税人たちと同じ者になられたのでした。こうして、マタイは主イエスの弟子となり、この福音書の書き残すという神様の仕事をする者になったのでした。

 そういうことを考えますと、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」という聖書の御言葉は、決して私たちが忘れてはいけないことだと思うのです。主イエスが力弱く思えるとき、主イエスが愚かに思えるとき、そういう時にも、私たちに対する主イエスの深い御心があって、私たちが考える以上の知恵と力が隠されているのです。

 主イエスが父母に抱かれてエジプトに逃げたということも、そう考える必要があります。私なりの解釈ですが、神様は主イエスに愛される喜びだけではなく、主イエスを愛し、主イエスに仕える喜びを人間に与えてくださったということを、ここで感じるのです。幼子イエスがそうであったように、ご自身を力ない人間の手にゆだねることによって、主イエスを愛する機会を与えてくださったのです。

 私などは、なぜ神様は自分のように罪深く、貧しく力のない人間を牧師にされたのだろうかと、不思議に思うことがあります。しかし、このような者でも用いられて、思いも寄らないような神様のご用をさせていただくことがあるのです。そのような時、私は少しも自分の力でしたという気がしません。ただただ神様が憐れんで助けてくださったと感謝するばかりなのです。しかしそれと同時に、このような自分でも主イエスにお仕えできたという大きな喜びを感じます。そのような喜びを与えてくださるのも、主イエスの深い愛なのではないでしょうか。私たちそれぞれに示された、主イエスの様々な愛をかみしめつつ、新しい年へと向かっていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を心から讃美いたします。今日一年の最後の主日礼拝を、愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、感謝いたします。神様、あなたは救い主イエス・キリストを与えてくださいました。そして主イエスを通して、一人一人に様々な愛を示してくださいます。主に愛される喜びはもちろんですが、小さな私たちを用いて主を愛する喜びをも与えてくださいます。どうぞ、そのような喜びをかみしめつつ、新しい一年への歩みを進めさせてください。冬の寒さが本格的になってきました。どうか、教会に連なる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。