ペトロの流した涙

マルコによる福音書14章66~72節 2025年11月9日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

先ほどお読みした詩編41編10節に、こういう言葉が出てきます。

  「わたしの信頼していた仲間

   わたしのパンを食べる者が

    威張ってわたしを足げにします。」

 この詩編の作者、この中で嘆いている人物は、どうやら重い病気にかかっている人のようです。そして、どういうわけか分かりませんが、周囲の人々は、この人の弱り切った姿を見て、あざけったり、「いいざまだ」と言わんばかりのひどい態度を示したというのです。あげくの果てには、彼が元気な時、健康だった時には、いろいろ面倒を見てやった人たちまでが、病の床にあるこの人を見捨ててしまったと、この詩人は憤っているのです。

 10節に出てくる「わたしのパンを食べる者」というのは、この人が養っていた人、親しく世話をしてやっていた人という意味でしょう。家族か親族の一員ででもあったのでしょうか。自分の食べ物、自分のパンを分けてやっていた、そういう親密な人間までが、私を見限ったというのです。

 英語に「コンパニオン」という言葉があります。日本語に訳すと、「同伴者」とか「仲間」という意味になりますが、この言葉はもともと「クム」と「パーヌス」の組み合わせから作られた言葉で、その意味は「パンを共にする」ということです。つまり、「一緒にパンを食べる/食事をする」ような関係の人々こそ、「コンパニオン」、「同伴者」であり「仲間」なのだということです。

 この詩編41編の作者は、まさにそうした「コンパニオン」であった人々が、今や私を見捨て、私を裏切って去って行ってしまったと嘆いているのです。

 しかし、「コンパニオン」の裏切りを経験したのは、決してこの詩人だけではありません。主イエス・キリストも、ちょうどそれと同じ経験を味わったという事実を、私たちはよく知っています。                  

 あの木曜日の夜。最後の晩餐の後で、イエス・キリストは弟子たちと共にゲッセマネにおいでになり、そこで祭司長や律法学者、そして長老たちの遣わした群集によって逮捕されました。その人々を先導してきたイスカリオテのユダは、イエス様に接吻することによって、「誰がイエスか」を人々に知らせたと、マルコによる福音書14章43節以下に記されています。

  「わたしの信頼していた仲間

   わたしのパンを食べる者が

    威張ってわたしを足げにします。」

 詩編41編10節の言葉は、まさしくこの場面にぴたりと当てはまるのです。

 群衆に捕らえられた主イエスは、大祭司のもとに連れていかれ、そこで裁判にかけられました。

 その裁きの場には、「祭司長たちと最高法員の全員」(14:55)がいたと記されています。そうであるとすれば、主イエスは少なくとも100人近い敵対者たちに囲まれながら、憎しみと怒りのうず巻く状況の中で、たったひとり立ち尽くしておられたことになります。そこでは偽りの証言が飛び交い、あげくの果てには、主イエスに対する暴力、からかい、はずかしめが行われたということが、聖書に記されています。

 一方、大祭司の屋敷の中でそうした出来事が進んでいたころ、その建物の外でもひとつの事件が進行していました。

 ゲッセマネでは他の弟子たちと一緒にあたふたと逃げ出したペトロが、遠くから逮捕された主イエスの後について行き、ひそかに大祭司の屋敷の中庭にまで入り込んでいたのです。

 時間はすでに夜中を回っており、そろそろ夜明けに近づく時刻であったと思われます。中庭では火が焚かれ、ペトロはその屋敷にいた人々と一緒に火にあたっていました。春とはいえまだ寒い時期の夜のことです。屋敷の中で行われている出来事に関心を寄せながら、その家の人々は眠らずに、その裁判の終わるのを待ち続けていたのでしょう。

 その時、火に照らされたペトロの顔をじっと見つめていた、その屋敷の女中が言いました。

 「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」(14:67)

 この女は、さらにもう一度、「この人は、あの人たちの仲間です」と繰り返しました。

 すると、それを聞いたほかの人々も、「たしかに、お前はあの連中の仲間だ」と言い出したというのです。

 人々の言葉に恐れをなしたペトロは、人々に向かって、「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」と言って逃げ出そうとしたと聖書は記しています。そして最後に、とうとうペトロは、「そんな人は知らない」と誓い始めたというのです。

  「そんな人は知らない。」(14:71)

 ここでもまた、あの詩編41編の作者の嘆きがぴたりと当てはまります。

  「わたしの信頼していた仲間

  わたしのパンを食べる者が

    威張ってわたしを足げにします。」

 ペトロが主イエスの手渡してくださったパンを食べたのは、わずか数時間前のことでした。数時間前まで、ペトロは「共にパンを食べる仲間」、「共に生きる仲間」、「コンパニオン」でした。そして、数時間後にペトロの口から出た言葉は「そんな人は知らない」だったのです。

 ペトロの姿の中に、私たちは人間の弱さ、罪深さを見ます。

 自分の一生において、誰よりも大切なはずの人を「知らない」と言えるほど、誓ってそう言えるほど、私たちは弱い者、罪深い者なのです。

 この時、ペトロと主イエスの距離は、屋敷の壁を隔てて、わずか数メートル、数十メートルにすぎなかったはずです。そんなに近くにいる主イエスを、ペトロは「知らない」と言ったのです。

古代中国、宋の時代のことわざに、「食人之食者死人事(人の食を食せし者は人の事に死す)」という言葉があるそうです。それは「食べ物を分け与えられた者は、それを分けてくれた人のために命をささげるべきである」という意味だといいます。「コンパニオン」という概念とは少し違うかもしれませんが、「パン」、「食べるもの」によって結ばれる人と人との交わりのきずな、「仲間」になるということの本質的な一面を、このことわざもまた教えているのではないでしょうか。

 最後の晩餐において、パンを裂いて弟子たちに与え、杯を共に分かち合った主イエスの思いの中に、このような中国のことわざの示すような意図が含まれていたのかどうか、私には分かりません。

 しかし、私たちキリスト者が聖餐にあずかるということ、主イエスの分かち与えてくださるパンを食べ、杯を飲むという出来事の中には、それ相応の粛然とした面があるということも、私たちは覚えておくべきだろうと思います。

 聖餐のサクラメントの中には、豊かな象徴が含まれており、いろいろな理解や受けとめ方をすることが可能です。例えば、それは主と共にする喜びの食事であるとも言えますし、私たちが互いに主によって結ばれた仲間であることを確認する食事であるとも言えます。またそれに参加することを通して私たちの信仰を告白する行為であるとも言えますし、この世に主を証ししていく新たな力を与えられる出来事であるとも言えます。

 しかし、主の受難を覚えるレントの時期に、ことに受難週に行われる聖餐について言うならば、その焦点となるものは、喜びや交わりということではなく、そうした喜びや交わりとは正反対のものにあると言わなければなりません。

 すなわち、聖餐にあずかる私たちが、このパンと杯にあずかることを通して見

つめなければならないのは、私たち人間の罪の深さであり、私たちの利己的な身勝手さです。私たちにパンを分けてくださる方、杯を分かち合ってくださる方に向かって「そんな人は知らない」と言い切る人間の弱さに対して、私たちは目を背けることなく、正面から向き合わなければなりません。

 主イエスは、先ほどご紹介した古代中国のことわざにあるような脅迫的なものの言い方はなさいませんでした。また主イエスは、詩編の詩人が嘆いたようなかたちで、ご自分を裏切った仲間たちを告発するということもなさいませんでした。

 かえって主イエスは、ペトロや私たちの人間的な弱さを先んじて思いやり、裏切りの後のことに至るまで、深い配慮をお示しになりました。

 2000年前のあの木曜日の夜以来、世界中のキリスト者は、聖餐式の度にパンを裂き、杯を受けることによって、あの晩の出来事を記念してきました。

 このあと、私たちが裂くパン、私たちが手にする杯は、そのような2000年間にわたる、主イエスの受難を告げるしるしであると共に、私たち弟子である者たちの罪を記念するしるしでもあります。そしてまたそれは、そのような私たちの弱さをよくよく知りつつ、それでもなお私たちを愛し、私たちを守り、私たちを見捨てないと約束していてくださる、私たちの主イエス・キリストを記念するしるしなのです。

 このあと、私たちが裂くパン、私たちが手にする杯は、小さなものにすぎません。しかし、このパンと杯にあずかることを通して、私たちは、私たちが「あの人の仲間」であることをはっきりと確認するのです。このパンと杯を、今再び主イエス・キリストの手から受け、主イエス・キリストの「仲間」であることを想い起こし、主イエス・キリストに従う決意を新たにしたいと思います。このことを覚えて、聖餐の恵みに共にあずかりたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心からあがめます今日も敬愛する兄弟姉妹と礼拝に与ることができましたことを、感謝いたします。ペトロが主イエスを三度否んだ箇所を学びました。そのペトロの出来事の数十メートルも離れていないところで、主イエスは最高会議の人々にあざけられ死刑の宣告を受けられていました。二つの出来事が同時進行で起こっていたことを知る時、私たちは自分の弱さや罪深さを痛感せざるを得ません。しかし主イエスは私たちの弱さや罪を超えて私たちを赦し、主イエスの仲間として生きる者としてくださっています。どうか、聖餐式に与るたびごとに、そのくすしき恵みを

私たちに覚えさせてください。季節は足早に進み、冬の始まりを感じるような

日々を過ごしています。インフルエンザの流行も心配されます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。今病床にある者たち、高齢のため困難を覚えている者たち、人生の試練の中にある者たちをお支えください。この拙き感謝とお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン