祈りの家として生きる

マルコによる福音書11章12~19節 2025年3月16日(日)伝道礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 レント(受難節)第二の主の日を迎えています。今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書によれば、受難週の二日目、月曜日の出来事です。主イエスと弟子たちはエルサレムに入ると、エルサレム神殿に行きました。

 主イエスが神殿の境内に入ると、そこでは両替人や鳩を売る者たちが商売をしていました。多分、そこは異邦人の庭と呼ばれる、異邦人もここまでは入れる広場だったのではないかと思います。私たちは、神殿の境内と言えば、静かな聖なる畏れに満ちた所というイメージを持つと思いますけれど、主イエスが足を踏み入れたエルサレム神殿の境内は、とてもそのような場所ではなかったようです。多くの人でごった返し、鳩が売られ、両替がなされている。しかもこの時は過越の祭りの直前ですから、祭りに来る人たちで、いつもより多くの人が集まっていたと思います。ここで鳩を売っているというのも、10羽や20羽売っているというのではありません。何百、何千という鳩が売られていたと思います。全部生きている鳩です。この鳩の鳴き声だけでも、相当騒がしかったことでしょう。

 

ここで、どうして神殿の境内で両替したり鳩が売られたりしていたのか、そのことを説明しますと、こういうことだったのです。まず、両替ですが、巡礼者たちには神殿税とも呼ばれる、毎年すべてのユダヤ人が神殿に納めなければならないものがありました。ユダヤ人たちは巡礼でエルサレム神殿に来た時、必ずこれを納めるのです。問題は、納めるお金、貨幣です。当時使われておりました貨幣は、当然ローマ帝国の貨幣です。その金貨や銀貨にはローマ皇帝の顔がレリーフとなっていました。このローマの貨幣は、エルサレム神殿では使えないのです。エルサレム神殿で使われる貨幣は、ユダヤの国が独立していた時の、自分たちで貨幣を造ることが出来た時代の、昔のユダヤの貨幣でなくてはなりませんでした。でも、そんなものはもう流通していないのですから、巡礼に来た人たちが持っているはずもありません。ですから、この両替人の所に行って、エルサレム神殿用の昔のお金に替えてもらう必要があったということなのです。

 また、鳩を売る者ということですが、人々はエルサレム神殿に礼拝しに来るわけです。私たちは、この身体を教会に運んでくれば礼拝ができると思っています。しかし、当時のエルサレム神殿における礼拝は、そうではなかったのです。犠牲をささげる。それが、エルサレム神殿における礼拝のささげ方だったのです。羊とか牛をささげるということもありましたが、貧しい人々はそれができません。そのような場合は、鳩でもよいとされておりました。ですから、巡礼者の圧倒的多数の人々は、犠牲としてささげる鳩をここで買って中に入っていく。そういうことになっていたのです。人々は遠くから、人によっては何週間もかけてエルサレム神殿に来るわけです。とても犠牲としてささげる動物と一緒に旅することはできなかったでしょう。しかも、神様にささげる生き物は健康で傷の無いものでなければなりませんでした。生き物を傷付けないように連れて来るのは大変です。しかしここで買えば、これは傷の無い、神様に犠牲としてささげるのに適している証明書付きのようなものです。神殿が保証しているわけです。当然、神殿の外で買うより割高になります。

 巡礼に来る人たちの多くが、この両替人や鳩を売る者たちの世話になったわけです。そして、この両替人や鳩を売る者たちからは、神殿に対するお礼といった名目で、莫大なお金が祭司たちに入る仕組みになっていたわけです。言うなれば、神殿ビジネスと言ってもよいようなことが、公然と行われていたのです。

 皆さんはこのような話を聞いてどう思われるでしょうか。両替人や鳩を売る人々は巡礼者のためのサービスとしてやっているわけで、特に問題は無いのではと思われるでしょうか。それとも、神殿の中で商売をするというのはやっぱり変だと思われるでしょうか。

 主イエスはこの時、大変なことをなされました。15~16節「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった」と記されています。主イエスは随分乱暴なことをされました。両替人や鳩を売る人々にしてみれば、いきなり商売道具を滅茶苦茶にされたわけです。営業妨害も甚だしい。今なら当然警察を呼ぶというような事態でしょう。

どうして主イエスはこんなことをされたのでしょうか。子どもにも、病人にも、貧しい人にも憐れみ深く、優しいイエス様の姿とイメージが重ならないと思われる方もおられるでしょう。この出来事は、宮清めと呼ばれてきました。この出来事は、主イエスがエルサレム神殿を清められた、神殿に相応しく清められたのだと理解されてきたのです。では、主イエスは何から清めようとされたのでしょうか。この宮清めの出来事の意味は何だったのでしょうか。

 私は、二つの意味があったと思います。一つは、この商売が異邦人の庭と呼ばれる所でなされていたということです。異邦人は神殿の一番外の所までしか入れませんでした。しかもそこでは今見てきたような商売がなされておりまして、とても神様を礼拝し、祈りをささげることができる状態ではなかった。主イエスは、「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言われたのです。これはイザヤ書56章7節の引用です。このイザヤ書56章は、異邦人も宦官も、つまり当時救われないと考えられていた人々ですが、これらの人々も主に仕え、主を愛し、主の僕となって契約を守るならば、その者たちのささげる犠牲を神様は受け入れる、つまり神様の救いに与る、そう預言されているところです。神様が「わたしの家」と呼ばれるのは神殿のことです。ところが、その神殿において何がなされているか。異邦人は、神殿の境内に入れると言っても一番外の所まで。しかもそこは、多くの巡礼者でごった返し、とても礼拝し祈りをささげることができるような状態ではない。これが神様の御心に適うと思うか。主イエスはそうお語りになったのでしょう。

 当時、人々は異邦人は救われないと考えていましたので、神殿の境内に入れるだけでもありがたく思え、そんな感じだったのではないでしょうか。ですから、そこで商売がなされても、それは巡礼者へのサービスなのだからよいことだと考えていたと思います。ここには、異邦人もまた神様に造られたものとして神様の愛の御手の中にあるという思いが欠落していました。主イエスはそれを、「違う」と言われたのです。神殿はユダヤ人も異邦人も含めて、「すべての国の人の祈りの家」でなければならないからです。

 さて、もう一つの点です。それは、この宮清めの出来事が、どのような構造の中で記されているかということから考えなければなりません。マルコによる福音書は、この15~19節の宮清めの記事を、実のないいちじくが枯れる、枯らされるという二つの記事の間に挟み込むようにして記しております。このようなサンドイッチのような構造は、外側のパンと内側の具が同じ事を告げている、同じメッセージを持っていることを示すために用いられる書き方なのです。

 この枯れたいちじくの木の出来事は、主イエスが求める時に実を付けていなければ滅びる、そのことを出来事として示されたわけです。ということは、この宮清めの出来事もまた、実を結ばない礼拝、何もない罪人として神様の憐れみだけを求めて、ただそれを信頼してささげるのではない礼拝、まことに神様を信頼して互いに赦し合う祈りをしていない神殿は、枯れたいちじくと同じように滅びる。根元から枯れる。そのことを、主イエスはこの荒々しい行動をもってお示しになったということなのです。旧約以来、預言者たちは人々の印象に残る行動、行為を行い、それと共に預言して、その預言を人々の心に刻ませるという伝統がありました。これを行動預言とか象徴預言と言ったりします。代表的なのは、エレミヤ書19章にあります、エレミヤが陶器の壺を人々の見ている前で砕き、エルサレムもこのようになると預言した所です。

 主イエスはこの宮清めという、一見突飛な荒々しい行動をもって、人々の心に残る行動をなさり、エルサレム神殿に下される神様の裁きを預言されたということではないかと思うのです。そして実際、エルサレム神殿はこの主イエスの預言の後40年ほどして、紀元後70年にローマ軍によって瓦礫の山と化すのです。

 ところで、主イエスはこの時、「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった」と言われました。しかし、問題はこの時主イエスが、どこに御自分の身を置いておられたのかということなのです。主イエスは、御自分をこのエルサレム神殿の滅び、神様の裁きと無関係な所に身を置いて、このことを告げられたのでしょうか。私は、そうではないと思います。

先ほどこの主イエスの行動が、旧約の預言者の行動預言の伝統にあると申しました。旧約の預言者たちは、エルサレムの滅びを告げる時、自分の身を安全な所に置いて、「エルサレムは滅びる。けれども自分は大丈夫。だが、お前たちは滅びる。」そのような思いの中で、神様の裁きを語るというようなことは決してないのです。そうではなくて、神様に遣わされた預言者たちは、神様の裁きを受ける神の民と同じ所に身を置いて、神の民と苦しみ、嘆きを共にして、悔い改めを求めたのです。愛する同胞の上に下される神様の裁きを、痛みと嘆きをもって告げたのです。自らもエルサレムにとどまり、その同じ苦しみを我が身に負い、神様の裁きの預言を語ったのです。

 主イエスもこの時、そうだった。主イエスは、このエルサレム神殿を強盗の巣にしてしまった人々の上に下される神の裁きを自らお引き受けになる、十字架につく、そのことをしっかり見据えて、この裁きの預言をお語りになったのです。主イエスは、この週の内に十字架にお架かりになるのです。主イエスは、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべき神殿を強盗の巣にしてしまった、その人々の罪をも一身にお引き受けになり、十字架にお架かりになるのです。それは、まことの神殿、ユダヤ人も異邦人もなく、神様を愛しその契約の中に生きようとするすべての人が、父なる神様との親しい交わりの中に生きることができる神殿を造られるためでありました。すべての民が神の子とされ、神様に向かって祈りをささげることができるようにされるためでありました。そして事実、主イエスは十字架に架かり、三日目に復活され、天に昇られ、そこから聖霊を注いで、まことの神殿としての教会、神様との親しい交わりが与えられる所としての教会、すべての国の人々の祈りの家である教会を建ててくださったのです。私たちはその恵みに与り、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきこの教会に集い、このように主の日の礼拝を守ることが許されているのです。主イエスの十字架の故に、許されているのです。

 私たちは、この教会を強盗の巣にしてはなりません。すべての人に与えられている救いの恵みを自分たちだけのものにするならば、他の人の救いの恵みを奪い取る強盗になってしまいます。私たちが強盗にならないためには、神様の救いの恵みが一人でも多くの人に伝えられ、これに与る者が増し加えられるように、祈りと奉仕をささげ、この主イエスの十字架の御業にお仕えするのです。それが、まことの祈りの家に集う私たちに求められている、まことの礼拝なのです。そのことを心に刻んで、新しい一週間を過ごしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、レントの第2主日を守ることができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」と言われました。私たちの教会が、そのような開かれた祈りの家となるために、主イエスは十字架に御自身を捧げられました。そのことを深く心に刻みつつ、レントの日々を過ごさせてください。まだ寒暖差のある日々が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。今、私たちの世界はとても不安定な状態の中にあります。どうかこの世界が敵意と争いの方向ではなく、和解と平和の方向に導かれていきますよう、あなたの御手を伸べていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。