ルカによる福音書1章5~25節 2024年12月1日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日はアドベント第1主日です。アドベントは主の御降誕と主の再臨を、希望をもって待ち望む時です。素晴らしいことが起こるのを、今か今かと待つような嬉しさがこの時期にはあるのです。
しかし、今日の聖書に登場する夫婦には、「希望」がありませんでした。祭司ザカリアとその妻エリサベトでした。この夫婦は主なる神さまに仕える人として、申し分のない夫婦でした。祭司の妻は必ずしも祭司の娘でなくてもよかったようですが、エリサベトは祭司の家系であるアロン家の娘でした。また、「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」(6節)と記されています。このザカリアとエリサベトはユダヤにあって、最も敬虔な生活を送っていた夫婦だったのです。しかし、彼らには子供がありませんでした。しかも「二人とも既に年をとっていた」(7節)とあり、年齢的に見て、二人に子供が与えられる可能性はありませんでした。だから二人には、将来を楽しみに待つ「希望」がなかったのです。
子供がいないから「希望」がない。私たちの時代においては、そんなことはないでしょう。夫婦お二人で幸せな生活を送っているご夫婦はたくさんいます。これからやってくる時代の困難さを思って、子供にそんな苦労はさせたくないと、子供を持たない選択をする夫婦もいます。今の時代は二千年前とは違います。
しかし、ザカリアとエリサベトの生きた時代の社会は、そうではありませんでした。子供が与えられないことは、神さまの祝福から漏れていることでした。子供のいないことは恥と考えられていました。ですから子供が生まれないことは、その望みが絶たれたことを意味するからです。二人は神さまに仕える最も敬虔な夫婦でした。それだけに一層、悩みも深かっただろうと思うのです。しかし、年齢的に、二人に子供が与えられる可能性はありません。二人は神さまに仕えながらも、「希望」を見いだせない日々を送っていたのです。
ある日のこと、ザカリアは「自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをして」いました。イスラエルには神殿に仕える祭司団が24組あり、ザカリアは第8番目のアビア組に属していました。各組は年に2回8日間、神殿で奉仕をすることになっていました。そして、当番になっていた組は、聖所に入って香をたく務めをする祭司をくじで決めることになっており、その日まさに、ザカリアが香をたく当番に指名されたのでした。聖所で香をたくのはたいへん名誉なことで、くじで指名されたことのある人は、二度とくじを引くことはできませんでした。祭司にとって、まさに一生に一度の大事な務めだったのです。
この香をたく儀式は、一日朝夕2回行われ、参拝した人々は外で祭司が出てくるのを待っていました。香をたいた祭司が聖所の外に出てきたとき、参拝者たちのために祝福の祈りを捧げることになっていたのです。たくさんの人々が集まっていたようなので、2回の儀式のうち、これは夕方の回であっただろうと考えられています。
ザカリアが聖所で香をたいていた時のことです。その時、驚くべきことに、「主の天使が現れ、香壇の右に立った」(11節)のです。神御自身や主の御使いが現れて、恐れを感じない人はありません。ザカリアも、神さまに仕える祭司でしたが、御使いを見て「不安になり、恐怖の念に襲われた」(12節)のでした。
御使いは、「恐れることはない」と、無理なことを言います。そして「あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む」(13節)と告げたのです。そして、その子がどのような子になるかを、13~17節にかけて、ザカリアに語って聞かせるのです。「その子をヨハネ(主は恵み深い)と名付けなさい。」「その子は主に仕える偉大な人となり、聖霊に満たされ、イスラエルの多くの人々を神さまのもとに立ち帰らせる。」「救い主をお迎えするために、イスラエルの人々を準備のできた民として整えるだろう。」主の御使いは、生まれてくる男の子が再来のエリヤにたとえられる偉大な人になると告げました。
しかし、ザカリアはその言葉をまともに聞くことはできませんでした。男の子が与えられる!そんなことがあろうはずはない!そのためザカリアは、御使いにこのように言わざるを得なかったのです。「何によって、わたしはそれを知ることができるでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」(18節)。ザカリアは「そんな突拍子もないことは、何かしるし(=証拠)でもないと信じられません。なぜなら、私も妻も老人だからです」と、反論したのでした。
ザカリアがそう言わないではおれないのは、分かります。しかし、子供が与えられるのは、この夫婦の切なる願いであったはずです。ところが、この願いが神さまによって聞き入れられると聞いた途端、人間的な常識が邪魔をして、それを素直に受け取ることができなかった。神さまに願うことが、人間の常識の範囲内でしかないということが、ここに表れてしまっているのです。神さまは、人間が可能だと考えることしかお出来にならない、という思いこみがザカリアにはあったのです。
こういうことは、私たち人間の常なのかもしれません。聖書の中にも、似たようなことが出てきます。使徒言行録12章には、ペトロが捕らえられていたヘロデ王の牢から救い出されたという出来事が記されています。初代教会の仲間たちは、ペトロが守られ救われるように、熱心に祈りを合わせていました(12節)。ところが牢から出てきたペトロが彼らのもとに帰ってくると、だれもそれを信じようとはしないのです。ロデという女中が一生懸命ペトロが帰ってきたと伝えても、信じません。「あなたは気が変になっているのだ」とか「それはペトロを守る天使だろう」と言うばかりで、まったく本気にしないのです。あれほどペトロが救い出されることを熱心に祈っていたのに、当のペトロが現れると、それを信じることができない。ヘロデ王の堅固な牢に入れられ、4人一組の兵士たちに監視されたペトロは、さすがにそこから出ることはできないだろう。そのような人間の常識内でしか、ものを考えることはできなかったのです。しかし、信仰というのは、神の約束された御業が、人間の常識に妨げられないで実現することを、信じることではないでしょうか。
今日の20節で、主の御使いガブリエルは、自分の使命が何であるかを述べた後、次のように言います。「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」「あなたの願いは実現するというわたしの言葉」よりも、「年取った自分たちには子供は与えられないという人間の常識」の方を、あなたは信じた。だから、あなたはわたしの言葉が実現するまで口が利けなくなると、ガブリエルは告げたのでした。
私たち信仰者は、色々な願い事をするために祈りを捧げます。祈りを欠かすことはありません。しかしその祈りを、どんな気持ちで捧げているでしょう。いくら祈っても、神さまがしてくださるのは、私たちの考える常識の範囲のことだろう。それを越えるようなことは、たとえ願ったとしても、起こりはしないだろう。そのようにあきらめて、私たちは祈っているのではないでしょうか。その意味で私たちは、祈っていても、自分の考えを越えた「希望」を心に持つことはできないのです。私たちの考える神さまは、人間的常識を越え出ることのできない、こじんまりした神さまなのです。
しかし、キリスト教の歴史、教会の歴史は、私たちの神さまが「死者を復活させる」ほどの大きな神さまであることを、証ししています。人間の考えや常識を遙かに越えて、ご自身の御業を実現される神さまであることを示しています。この「死せるものよみがえらせたもう」神さまの大いなる御業に目を注ぐとき、私たちは人間の常識に捕らわれない、人間の常識を越えた「希望」を持つことができるのです。
東京大学の玄田有史(げんだゆうじ)先生という社会学の先生が、『希望のつくり方』(岩波新書)という本を書いておられます。その中で、日本のどんな地域に住む人が、「希望」を持って生きているかを調査され、その結果を報告されています。もちろん日本全国をくまなくというのではなく、都市部や郡部など規模や状況の違う10カ所ほどの場所で質問形式の調査をなさったのです。その中で一番「希望」を持っていた人が多かったのは、東京ではありませんでした。実は岩手県の釜石市だったのです。釜石と言えば、13年前の東日本大震災で大きな被害を被ったところです。経済的にも新日鐵釜石工場が閉鎖され、大きな打撃を受けたところです。歴史的に見ても、地震や津波の災害を繰り返し経験しています。そのような町の人たちがより多くの「希望」を持っているというのは、不思議な感じがします。それはどうしてか。釜石の人たちは、何度も自然災害や社会の変動によって、どん底に落とされる経験をしている。しかし、その度にどん底の状態から這い上がって、よみがえった経験を持っている。「きっと、何とかなる」「もう一度立ち上がることができる」と思っている。だからこそ、多くの「希望」を持つことができるというのです。過去に何度もどん底からよみがえったその経験が、将来に対して「希望」を抱かせるのです。
それは私たち信仰者にも、当てはまることではないでしょうか。キリスト教会は、二千年の歴史の中で度々、驚くべき神の御業を体験してきました。神さまの御業が、人間の罪と悪に彩られた歴史をも貫いて成就してきたことを知らされています。私たちは自分の考える常識の縄目から、なかなか自由になることができません。けれども、主なる神さまがなさってきた御業に目を注ぐとき、常識を越えた「希望」を抱くことができるのです。尽きることのない「希望」に生かされることができるのです。
祭司ザカリアは、祭司でありながら「時がくれば実現する神の言葉」を信じることができず、口が利けなくされました。しかし、その沈黙の時は、彼が主なる神の御業に思いを深める大切な時となったに違いありません。そしてこの後の聖書箇所が語るように、約束通り、救い主の道備えをする男の子(後のバプテスマのヨハネ)が誕生し、その名前を付けたとき、彼の口はほどけ、しゃべれるようになります。そして、彼は神さまの大いなる御業を讃える「ザカリアの賛歌」を歌うようになるのです。
私たち人間は、時として神のなさることに「希望」を抱けなくなることがあるでしょう。しかし、主イエス・キリストを見上げ、聖書の御言葉に依り頼んでいく時に、神さまは私たちに「希望」を与えてくださいます。そして、自らの口で、神さまを讃えずにはおれない者としてくださるのです。ザカリア夫妻がそうであったように、それは私たちが幾つになっても神さまが与えてくださる「希望」なのです。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と対面とオンラインで、共に礼拝を捧げることができましたことを心から感謝いたします。神さま、今日から私たちは主の御降誕と再臨を待ち望むアドベントの時を過ごします。どうか主を心からお迎えする気持ちをもってこの時期を過ごさせてください。私たちの世界には、私たちの心を暗くし不安を掻き立てるようなことが起こります。しかし私たちの願いを遥かに超えた御業をなさる神さまを信じて、希望の光を灯し続けることができますよう、私たちを導いていてください。群れの中には様々な試練の中に立たされている兄弟姉妹がおります。神さま、どうか兄弟姉妹と共にいましてくださり、あなたの慰めと平安をお与えください。この拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。