創世記16章7~16節 2025年9月14日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
子どもが与えられないサライに代わって、女奴隷ハガルがアブラムの子どもを身ごもると、三人の関係は微妙に変わってきました。ハガルが女主人であるサライを軽んじ始めたというのですが、サライのひがみ、被害妄想であったかもしれません。いずれにしろ、サライのハガルいじめが始まりました。精神的虐待だけではなく、肉体的虐待もあったかもしれません。とうとうハガルはそれに耐え切れなくなって、サライのもとから逃げるのです。
「サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた」(16:6)。しかしそうして逃げたハガルを、神様は放っておかれることはなさいませんでした。彼女のもとに御使いを送ります。「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った。『サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか』」(16:7~8)。 「『女主人サライのもとから逃げているところです』」と答えると、主の御使いはこう答えました。『女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい』」(16:9)。
この言葉を、私たちはどういうふうに聞くべきでしょうか。注意して聞かなければなりません。聞きようによっては、「奴隷は主人のもとから逃げるべきではない。奴隷は主人のものだ」ということを正当化する言葉として用いられるかもしれません。
聖書という書物は、幅の広い書物です。色々な文脈で、色々なことを語っていますから、自分の立場に都合のいい言葉を拾い出して、それをつないでいきますと、どんな思想でも聖書の言葉によって正当化できてしまうような面があります。
言葉というのは両刃の剣です。誰が、どういう文脈で、どういう目的でその言葉を語っているかによって、意味が全く違ってくることがあります。ここでの「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」という言葉も、奴隷制を正当化する言葉になりかねません。このテキストは、かつて南北アメリカ大陸で、アフリカから連れて来られた黒人たちを奴隷として所有していた人にとっては、そしてそれを肯定していた教会にとっては、都合のいいテキストではなかったかと思います。彼らはこの箇所を根拠に、「奴隷は主人のもとから逃げてはならない」ということを安易に主張したのではないでしょうか。
しかし神の使いがこの言葉を発したのは、もっと違った意味であったと思います。それは、その後の問答によく表れています。御使いは、こういうふうに続けました。「『わたしは、あなたの子孫を数えきれないほど多く増やす』」(16:10)。
「『今、あなたは身ごもっている。やがてあなたは男の子を産む。その子をイシュマエルと名付けなさい。主があなたの悩みをお聞きになられたから。彼は野生のろばのような人になる』」(16:11~12)。
「あなたは捨てられてはいない。神様はあなたと共にいる。あなたも祝福を受ける」と告げたのです。
ちなみにイスラームの伝統でも、アブラハムはイブラヒームと呼ばれ、敬われます。イシュマエル(イスマイール)も特別な存在です。ハガルはクルアーン(コーラン)には出てこないのですが、やはりイスラームの人々の信仰の母のように慕われているそうです。私は、そういうふうな形で、このときの神様の約束が実現していったのではないかと思うのです。
ハガルは御使いの言葉を聞き、「主の御名を呼んで、『あなたこそエル・ロイ(わたしを顧みられる神)です』」と、信仰の告白をし、「『神がわたしを顧みられた後もなお、わたしはここで見続けていたではないか』」(16:13)と語りました。「神様を見た者は死ぬ」と考えられていましたので、「その後も死ななかった」ということでしょう。
ハガルは、御使いの言葉通りに女主人のもとに帰ってアブラムの子どもを産み、イシュマエルと名付けました。ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは86歳であったということです。
この物語は、聖書の神がアブラハムとサラ(サライ)の神であるだけではなくて、ハガルの神でもあるということを示しています。ハガルの神ということは、苦しめられ、迫害を受け、いわば祝福の外に置かれているように見える者の神ということです。
神様の約束は、アブラハム、イサク、ヤコブヘと受け継がれていきます。それが主流です。しかし神様はそこで、アブラハム、サラ、イサクに、排他的に関わっておられるのではありません。特に私たちクリスチャン(そしてユダヤ教の人々)は注意して聞かなければならないでしょう。私たちは、神様が教会を建て、それを通して神様の働きが進んでいくと信じています。確かに聖書はそう語ります。しかし、私たちがそれを自分の占有物のようにすることはできません。神様の働きは、私たちの思いを超えて、自由に働くのです。今日のハガルの物語は、そのことを私たちに告げているのではないでしょうか。イエス・キリストの恵みを受けている私たちは、そのことも聞かなければならないと思います。
今日の御言葉は、本来的には、「今置かれている自分の現実から逃げるな」ということを私たちに告げていると思います。
40年近く前ですが、東京神学大学に船水衛司という旧約聖書神学の先生がおられました。この方は、学者というよりは、教育者として、あるいは神学生に対する牧会者(牧師)として、優れた人であったようです。学生たちの父親のような存在であり、成績がいくら悪くても絶対に落とさないことで有名だったそうです。「どうせ牧師になれば苦労するのだから、早く卒業してそれから苦労すればいい」という持論をもっておられました。そういう先生でしたから、神学校の中にありながら、学生たちは冗談のようにして「仏の船水」(?)と呼んでいとのことです。
1986年の卒業式の日のことです。船水先生は、その一年前にすでに退職なさっていましたが、特別にスピーチをしてくださったそうです。いつもゆっくりと、ゆったりと噛んで含むような話し方をされるのですが、その日もそうであったといいます。次のようなスピーチでした。
「1986年 卒業生を送ることば 船水衛司
わたしの今の心境は、娘を嫁にやる父親のそれです。よろこびと、不安と、切なさとを綯(な)い交ぜになった気持ちです。
一つだけ、はなむけのことばを申しますと、「逃げるな」、ということです。牧会上、生活上、また自分自身の信仰の上で、行き詰ったと思う時、祈りのうちに、一歩前進することです。必ず、狭いけれども、いのちに至る道が拓かれています。
これは、足掛け70年のわたしの生涯における、実感です。なお、この点については創世記第16章における「ハガルの場合」について学習して下さい。
死ぬまで、わたしも皆さんのために祈っています。
2月26日 送別会にて」
この原稿(コピー)は大串眞という牧師が、記念に船水先生からいただいて持っていたのでした。大串牧師は高校を卒業して、すぐに東京神学大学に入学し、卒業クラスで一番若かった人でした。東京を離れたことがなかったのが、いきなり独身で四国の土佐、しかも高知市からも遠く離れた宿毛(すくも)伝道所に赴任いたしました。小さな伝道所の主任として孤独であったようです。随分とつらい経験もしたようです。逃げ出したくなることも何度かあったようです。その大串牧師は、「牧師をしていて、つらいことがある度に、この船水先生の言葉を読み返してがんばってきた」と記しています。大串牧師はこの地で約20年牧師を務めた後、現在は千葉県佐倉市のユーカリが丘教会で伝道牧会をされています。
この船水先生の「逃げるな」という言葉のニュアンスと、神が御使いを通してハガルに言われた「逃げるな」というニュアンスには、同じ響きがあります。それは、奴隷主が「奴隷は逃げてはいけない」というのとは全く違った響きです。
このとき、神様(天使)はハガルに向かって、「逃げるな。家に帰れ」と言って、突き放したわけではありません。ハガルと共に、ハガルの現実の中へと帰って行かれるのです。ハガルは現実の中で絶望し、現実からさまよい出て、荒れ野で神様と出会って、神様と共に自分の持ち場へと帰って行ったのです。
「逃げるな」と言われた神様は、逆説的にハガルにちゃんと逃げ道を用意していてくださった、と言えるのではないでしょうか。パウロはこう言いました。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Ⅰコリント10:13)。
厳しい現実の中で、もう八方ふさがりで早くこの現実から逃げ出したいと私たちが思うときにも、神様はひとつの道を指し示してくださるのだと思います。それがどういう道であるか、一概には言えません。もしかすると、形の上では、そこから逃げる道であるかもしれません。
ブラジルでは16~19世紀に、逃亡した奴隷たちが、森の奥地でキロンボと呼ばれる共同体を形成し、自給自足の生活を送りました(今も多数残っています)。そういう形もあり得ると思います。自分の現実をしっかりと見据え、神様が共に歩んでくださるということを信じて歩め、と励まされているのです。
アブラハム物語は、これまで典型的な父権制の物語として読まれてきましたが、今、これをそうしたしがらみから解き放ち、女性のサラの視点、さらに女奴隷であったハガルの視点で読み直そうという試みが活発になってきています。
歴史の陰の部分に置かれてきたハガルが前面に出されることによって、「神はそのように苦しみを受け、迫害を受けてきた人々と共におられる」という福音が、よりはっきりと伝わるようになってきているのではないでしょうか。聖書を私たちの現実に合わせて読むのではありません。私たちの現実こそが、聖書の御言葉によって深く鋭く問われていくのです。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、心から感謝いたします。今日も創世記の御言葉を通して、「逃げるな、わたしがあなたがたと共にいる」という力強い御言葉を聞くことができました。聖書を私たちは自分の都合のよいように安易に聞いてしまいますが、聖書の御言葉はそのような私たちを貫き砕くことによって、なくてはならない福音の言葉を響かせてくださいます。どうか、謙遜に一途に御言葉から聞く者とならせてください。この一週間もあなたに支えられ導かれて歩むことができますように。この拙き切なるお祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします。アーメン。