マルコによる福音書15章21~32節 2026年1月25日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
主イエスは、十字架の苦しみをお受けになりました。それは文字通りの死に至る苦しみでした。しかも、まことの神の御子でありながら、人々に罵(ののし)られ、辱められるというものでした。この十字架に架けられたお方を、私たちは我が主、我が神と信じ、今朝も礼拝しています。この主の十字架こそ私たちの救いの根拠であり、神様の愛と真実が現れたものだからです。
今朝与えられております御言葉において、主イエスが十字架に架けられた時、兵士たちは主イエスの服をくじ引きにして分け合い、主イエスの十字架を見た人々は主イエスを罵り、辱めて、こう言ったと記されています。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」このように、主イエスは十字架に架けられても尚、罵られ、辱められたのです。何ということかと思います。
しかし、先ほど読んでいただきました詩編22編には、すでにこの情景が預言されていました。22編8~9節「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら助けてくださるだろう。』」そして、18~19節「骨が数えられる程になったわたしのからだを彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」とあります。これは明らかに今朝与えられている主イエスの十字架の場面と重なります。この詩編の言葉は、主イエスが十字架の上で人々に罵られ、辱められたこと。そして主イエスの服が兵士たちによってくじ引きされて分けられたという、今朝の御言葉が告げる主イエスの十字架の場面と全く重なるわけです。このことは、主イエスの十字架の出来事が、神様の永遠の御計画の中にあったことを意味しているのでしょう。主イエスが十字架の上で、人々に罵られ辱められることを、神様は御存知であったということです。そして、それは主イエスも承知の上であったということでしょう。では、なぜ主イエスはこれほどまで人々に辱められ、罵られなければならなかったのでしょうか。ここには、主イエスの十字架の意味が隠されているのです。
主イエスの十字架での苦しみの意味、それは、どんな状況の中に生きる人に対しても、「わたしはあなたを知っている。あなたの苦しみも困難も知っている。わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを見捨てない。あなたの苦しみ、嘆きをわたしは共に負っている。だから大丈夫。」そのように主イエスは語りかけ、苦しみのただ中にある者と共に歩む神であられるからです。それゆえ、主イエスは十字架の上で、肉体的にも精神的にも、人間が味わう極限の苦しみを味わわれたのです。
私たちは肉体的な痛みに弱いです。虫歯ができただけでも、情けないほどに弱ってしまいます。しかし、主イエスがここで受けている肉体の痛みは、死ぬまで続く痛みです。死に至る痛みなのです。手と足に釘を刺され、十字架に磔(はりつけ)にされる。傷口から血が流れ出て、出血多量のショック死に至る。午前9時に十字架に架けられてから、午後の3時に息を引き取るまで続く痛みです。23節には「没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませようとしたが、イエスはお受けにならなかった」とあります。「没薬を混ぜたぶどう酒」というのは、痛みを和らげるための麻酔薬と思ってよいです。主イエスは、それを受けることを拒まれたのです。それは、十字架での痛み、死にいたる苦しみを味わい尽くすためでした。
また、私たちは人から辱めを受けることがあれば、もう生きていけないと思うほどに心が萎えてしまいます。あるいは、人に罵られれば、一生忘れることができない悔しさを心に秘めることにもなるでしょう。主イエスはここで、私たちが味わう肉体的痛み、心の痛み、そのすべてを極限まで味わい尽くされたのです。ヘブライ人への手紙4章15節。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」と告げている通りです。私たちの痛みも嘆きも、主イエスは御存知なのです。そして、私たちの痛みも嘆きも、御自分のものとしてくださるのです。そのことによって、主イエスは私たちの痛みと嘆きの向こうにある明日、さらに死の向こうにある復活の命へと私たちの目を向けさせ、私たちをそこへと招いてくださるのです。
主イエスは、一人で十字架の上で死なれたのではありません。主イエスの右と左には、同じように十字架に架けられた者がおりました。彼らは強盗であったと聖書は記します。十字架に架けられて処刑されても仕方のない犯罪者でした。主イエスはその強盗と一緒に十字架に架けられたのです。それはまさに、死に至るまで罪人と共に歩まれる、神の御子の姿です。主イエスは、天地が造られる前から、天地を造られた父なる神と共に天におられました。しかし、そこから降って来て、馬小屋に生まれ、罪人と共に食事をし、病人を癒やし、そして最後は犯罪人と一緒に処刑されたのです。どこまでも罪人と共に歩まれる神の御子、どこまでも低きに降る神の御子の姿がここにあります。
私たちの中には、少しでも人より上に行こうとする思いがあります。しかし、主イエスはどこまでも低きに降ろうとされます。その極みが十字架だったのです。それは、どこまでも弱い者、小さい者、罪の中にある者と共にあり、誰一人としてお見捨てにならないお方だからです。だから、私たちはこの方を信じてよいのです。自分にとって得になる人にはよくしてやる。それが私たちにとっては普通でしょう。しかし、それは愛ではありません。主イエスによって示された愛ではないのです。主イエスはこの十字架において、まことの愛とはどういうものであるかを示してくださったのです。
主イエスが受けた罵(ののし)りは、「十字架から降りて自分を救ってみろ」、「今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」というものでした。もし、主イエスがこの時十字架から降りたなら、私たちを救うために来られなされた歩みが、すべて無駄になってしまいます。それだけではありません、天地創造以来の神様の永遠の御計画が無に帰してしまうのです。そして、誰一人救われる者がいなくなってしまうわけです。ですから、主イエスは十字架からお降りになりませんでした。
しかし、この時ほど、主イエスとサタンとが激しく戦われた時はなかったのではないかと思います。この主イエスを罵る人々の背後にはサタンが働いている、そう言ってよいでしょう。サタンは、神様の救いの御計画、主イエスの十字架によって成就する救いの御業を失敗させるために、最後の最も激しい誘惑、霊的戦いを主イエスに仕掛けていたのだと思います。もし、主イエスがこの辱めに耐えかねて、「我こそはメシア、神の独り子、イスラエルの王である」と言って十字架から降りてしまえば、サタンの勝利でありました。しかし、主イエスはこの最大の誘惑を退けられ、十字架の上で痛みと苦しみを味わい尽くされたのです。それは私たちの救いのためでした。それは私たちへの愛のゆえでした。この主イエスが、私たちと共にいてくださるのです。私たちのために、私たちに代わって戦ってくださるのです。
聖霊なる神様は、私たちに主イエスの十字架の御姿をはっきりとお示しになり、その愛の確かさ、救いの決意を教えてくださいます。この十字架の前で、私たちは目覚めさせていただくのです。自分の罪、自分の傲慢、自分の愚かさ、自分の怠惰、自分の思い違い、それをはっきりと知らされ、神様の御前に悔い改めるのです。主イエスのもとに、神様のもとに立ち帰るというのは、この悔い改めを必要とします。この悔い改めは、主イエスの十字架のもとで、十字架の主イエスとの出会いの中で起きることなのです。主イエスは御自分を救わず、私たちを救ってくださった。十字架から降りず、すべての痛みを味わい尽くされた。私のためにです。そのことを知ったとき、私たちは正直になれる。素直になれる。神様の御前に自らの罪を認める。そして「お赦しください、憐れんでください」と祈ることができるのです。
私たちにとって、体の痛みは本当に辛いものです。しかし、その痛みの中でこそ、十字架の主イエスが共におられるのです。そして、私たちに語りかけてくださる。「わたしはあなたの痛みを知っている。あなたはひとりではない。ほら、わたしが共にいる。わたしはあなたをひとりにしない。」また、人に罵られ、辱められ、心が萎え、生きる気力も失いかけた時、頭に血が上り、怒りに支配されそうになった時、十字架の主イエスが私たちに語られるのです。「わたしはあなたの怒りを、嘆きを、悲しみを、苦しみを、知っている。わたしも十字架の上でひとりだった。皆がわたしを罵り、嘲った。弟子たちも皆、わたしを捨てて逃げた。だから、わたしは知っている。だから、怒りに身を任せてはいけない。悲しみに支配されてはいけない。わたしが共にいる。わたしはあなたのために明日を備えている。それは十字架の死の後の、復活という明日だ。この悲しみの中でこそ、嘆きの中でこそ、あなたは十字架のわたしと一つになっている。だから、大丈夫。わたしは主。あなたを贖うために十字架に架かった者。」この御声を私たちが聞くなら、私たちは立ち直ることができるのです。
主イエスの十字架の罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書かれていました。これは、主イエスがユダヤ人の王と称した、ユダヤを支配しているローマに反逆した者という意味で付けられたものでした。しかし、そこにはただ「ユダヤ人の王」とだけ書かれていたのです。「ユダヤ人の王と称した者」とか「ユダヤ人の王としてローマに反逆した者」とは書かれていなかった。ただ「ユダヤ人の王」です。
ユダヤ人の王。神の民であるユダヤの本当の王は、神様しかおられません。これは旧約以来の、神の民の基本的な理解です。この罪状書きは図らずも、主イエスがまことの神であられることを示す表札の役割を果たすことになってしまったのです。まことの神であられるユダヤ人の王は、この十字架に架けられた主イエスである。そのことを示すことになったのです。その意味では、この十字架がユダヤ人の王、まことの神としての主イエスの即位式となったのです。
私たちはこのまことの王である主イエスのもの、主イエスに属する者とされたのです。クリスチャン、キリスト者とは、キリストのものとされた者ということです。私たちは、この十字架にお架かりになった主イエスのものなのです。主イエスの御支配のもとに生かされており、主イエスの復活の命に与る者とされているのです。ですから私たちは最早、自分のために生きるのではないのです。私たちの人生は、ただ一人の主であり王である主イエスのものだからです。このお方と共に、このお方のために生きる。そこに私たちの喜び、希望、誇りがあるのです。この恵みに感謝し、ご一緒に主をほめたたえましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを感謝いたします。神さま、あなたは御子イエス・キリストを私たちの世界に遣わされました。主イエスは十字架に架けられ、すべての肉体的痛みと精神的な苦しみを経験されました。そのことを通して、主イエスは「あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われ」ましたが、それは主イエスが徹頭徹尾、弱い私たちと共に歩んでくださるためでした。どうか、そのことを決して忘れることがありませんよう、わたしたちの心に刻ませてください。今日は午後に年に一度の教会総会を行います。この教会会議を通して、過ぎし一年のあなたの恵みの感謝し、新しい一年の伝道のビジョンを与えられますよう、この教会総会を終始導いていてください。この拙き切なるお祈りを私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。