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マルコによる福音書13章14~27節 2025年7月6日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 マルコによる福音書を読み進めています。14章からは主イエスの受難の歩みが具体的に始まりますので、この13章は主イエスがまとまった形で語られた最後の教えと言ってよいでしょう。その意味では、主イエスの遺言のような性格もあると言えます。またこの13章は、マルコによる福音書の小黙示録と呼ばれ、主イエスが終末について預言されたことが記されている所です。しかし、よく読んでみますと、終末そのものというよりも、終末が来る前に起きる大変な出来事について記されていることがほとんどです。

 13章の初めから順に見て参りますと、6節に「わたしの名を名乗る者が大勢現れ」とあります。つまり、「私がイエス・キリストだ」「再臨のイエス・キリストだ」「イエス・キリストの生まれ変わりだ」。そんなことを言う者が現れるというのです。それも一人や二人ではない。大勢です。7節には「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞く」、8節には「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」、つまり民族紛争や世界大戦のようなものがあるというのです。また、「方々に地震があり、飢饉が起こる」というのです。更に9節や13節では迫害も予告されています。このように、主イエスは、偽キリストが現れ、戦争、地震、飢饉、迫害が起きるというのです。どれもこれも、その場に居合わせれば「もう世界の終わりだ」と言いたくなるひどいことです。しかし、主イエスは、7節で「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と告げられました。確かに、主イエスがこのことを語られた時からずっと、いつでも戦争も地震も飢饉も迫害もありました。偽キリスト、今で言うカルト宗教でしょうが、これもいつの時代にもありましたし、今もあります。しかし、まだ世の終わりではありません。もっと正確に言うならば、もう終わりの時は始まっているけれど、完全には終わっていないということでしょう。なぜなら、私たちの救い、この世界の救いはまだ完成していないし、この世界はまだ完全に新しくはなっていないからです。

 主イエスがこのような終末についての預言をなさいましたので、終末と言えば何かとんでもなく恐ろしいことが起きる、私たちはそのようなイメージを持っているかもしれません。しかし、それらの恐ろしいことは、終末そのものではないのです。終末の前に起きることなのです。そして、それらの恐ろしいことは今までも起き続けてきましたし、今も起きています。ですから、これらの主イエスの言葉から、私たちは「自分たちはもう終わりの時に生きているのだ」ということを知らなければならないということなのでしょう。この「終わりの時」に生きている私たちのなすべきこと。それは決まっています。父・子・聖霊なる神様を信じ、これを愛し、これに従って生きるということです。目に見える様々な誘惑を退けて、すでに救われた者として生きるということです。そして、終わりの日に生きる私たちの姿は、この主日礼拝に集うというあり方において、最も明らかに示されるのでありましょう。いつ終わりの時が来てもよいように、主の御前に立たされる日に備えている者の姿が、この礼拝に集う私たちの姿なのです。

 さて、今朝与えられております御言葉において、終わりの日が来る時の徴について、もう一つ加えております。14節「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら―読者は悟れ―、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」とあります。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」というのです。これは何を意味しているのでしょうか。戦争や地震や飢饉といったものとは少し違うようです。

 多くの学者たちは、この主イエスの言葉の背後には、当時のユダヤ人ならば誰もが知っている、すでに起きた具体的な出来事が下敷きとしてあると言います。その出来事というのは、主イエスがこのことをお語りになった時から約200年程前、紀元前167年に起こりました。当時ユダヤを支配しておりましたセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスという王が、エルサレムの神殿にギリシャの神であるゼウスの像を建てたということがあったのです。まさに、神以外立ってはならない所に、憎むべき破壊者が立った。ユダヤ人たちは怒り、マカベアという人を指導者に立ててこれに対抗し、シリアを打ち破るということがありました。そのことを下敷きにしているというのです。そうなのかもしれません。

あるいは、主イエスがこのことを語られてから40年後、紀元後70年にユダヤはローマによって滅ぼされるわけですが、その時エルサレム神殿は破壊されてしまいます。そのことを指していると言う人もいます。主イエスはこの預言の中で、「そのような時は逃げよ」と言われたのですが、実際、生まれたばかりのキリスト教会はこの時、エルサレムから逃げたのです。多くのユダヤ人たちがエルサレムに立てこもる中、キリスト者たちは逃げたのです。

 あるいはまた、王様や独裁者が自らを神として、キリスト者に自らを拝むことを強制する。そういうことが何度も起きました。そのようなことは歴史の中で何度もありました。しかし、主イエスがここで告げられたことは、そういうことだけではないのだと思います。権力者やこの世の王が、本来あがめられるべき神様に取って代わる。そういうことだけではなくて、本来あがめられるべき神様がないがしろにされ、神様以外のものが第一とされ、あがめられる。十戒の第一戒、「あなたはわたしのほかになにものをも神としてはならない」が公然と破られる。どんなに大切なものであっても、美しいものであっても、それを神様としてはならないのです。それを神様のようにあがめてしまえば、それは憎むべき破壊者になってしまうのです。それが国家であれ、富であれ、芸術であれ、人間の理性であれ、科学技術であれ、尊敬すべき偉大な人であれ、同じことです。神様以外のものが第一となれば、神様以外のものが神となれば、そこで起きることは、今まで経験したこともないような苦難なのだと、主イエスは告げられたのです。

 そして、その典型として、22節「偽メシアや偽預言者が現れて、しるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちを惑わそうとするからである」とあるように、偽メシアや偽預言者の出現が挙げられているのです。カルトと呼ばれる反社会的な宗教は山程あります。インターネットで「カルト」で検索すれば、山のように出てきます。仏教系のもの、神道系のもの、キリスト教系のもの、何でもあります。しかし、主イエスがここで言おうとされたのは、そのようなカルト宗教のことだけではないのです。

 神様以外のものが神様のようにあがめられる時、人間は最も厳しい苦難を味わうことになるということなのです。「私について来れば幸せにしてあげる」。そんな言葉に惑わされてはならないと言われたのです。その人が奇跡を見せようとも、惑わされてはならないのです。あなたがたの本当の幸いは、その人や、その思想や、その組織が約束する、目に見える何かを手に入れるというような所には無いからです。それは私たちを幸いにするどころか、最も厳しい苦難を味わせることになるというのです。なぜなら、それによって私たちは神様に造られた本来の自分を完全に見失ってしまうからです。神様との関係を絶ってしまうことになるからです。これこそ、私たちにとって最も辛いこと、まことの命を失うことなのです。この地上において何を手に入れようと、それらはすべて失われていくのです。消えていくのです。私たちが受け継ぐべき良きものは、ただ主イエスのみ。この方だけが私たちの一切の罪を赦し、私たちを神の子とし、永遠の命を与えてくださるのです。ここにだけ、私たちのまことの希望、私たちが生涯を捧げて生きるまことの命があるのです。

 主イエスはここで、終末の前にどのようなことが起きるのかということをお語りになることによって、終わりの時がもう始まっているのだ、私たちが生きているこの時代に起きていることは一体何なのか、そのことを示そうとされたのです。主イエスはこの預言によって、終わりの時に生きていることをしっかり受け止めて、決して惑わされないように気をつけなさいと、告げられているのです。

 では、本当に終わりの日が来た時、何があるのか。聖書はいろいろなイメージで終わりの日に起きることを告げていますが、はっきりしていることは、主イエスが再び来られるということです。これを教会では、主イエスの再臨、再び臨むと書いて、再臨と言います。26~27節です。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」と言われていることです。

 最初に主イエスが来られた時、それは二千年前のクリスマスの時ですが、その時にはこの赤ちゃんが救い主だとは分かりませんでした。そのことを知らされたのは、ヨセフとマリア、そして何人かの羊飼いと東方の博士たちだけでした。しかし、再臨される時の主イエスはそうではありません。誰が見ても分かる、そういうあり方で来られるのです。そして、世界中から「選ばれた人たち」を呼び集めるのです。そして、新しい世界、永遠の命に与る神の国の完成、私たちの救いの完成がなされるのです。私たちは、その日を待ち望みつつ、一日一日のなすべき業に励んでいくのです。

 終末ということについて聞いても、あまりピンとこないと言う人もいるだろうと思います。私もそうでした。若い時は全くピンときませんでした。しかし終末というものには、主イエスの再臨と共にやって来る終わりの日、これが本来の終末ですが、これを大きな終末と呼ぶこともできるでしょう。このほかに、私たちには各々、確実にやって来る「死」という終わりの日があるのです。これを小さな終末と呼んでよいと思います。大きな終末も小さな終末も、これから逃れられる人は一人もいません。誰にでも例外なくやって来ます。そして、大きな終末を知り、それに備えて生きる者は、この小さな終末に対しても備えをしている。そう言ってよいのです。

 私たちは今から聖餐に与ります。この聖餐は、主イエスが再び来られる時、主イエスと共に食卓に着く食事を指し示し、その恵みを先取りするものです。この食事に与る者は、自らが「主によって選ばれた者」であることを心に刻みます。そして、自らに与えられている主イエスの救いの約束、永遠の命の約束が確かなものであることを受け取るのです。私たちの地上の命には終わりがあります。しかし、それですべてが終わるのではありません。信じる者たちは主イエス・キリストのもとで、永遠の命に生き続けることができるのです。

 あの十字架に架かり、三日目によみがえられた主イエス。天に昇り、すべてを支配し、私たちに聖霊を注ぎ、信仰を与えてくださった主イエス。やがて天より再び降り、選ばれし者たちを御自分のもとに集められる主イエス。このお方以外のいかなる者が与えると言い寄ってくる幸いにも惑わされることなく、主イエスが備えてくださっている御国を目指して、この一週もまた、それぞれ遣わされている所において、神の子、神の僕として、なすべき務めに励んで参りましょう。

お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心より讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。神様、あなたは主イエスを通して、私たちがすでに終末へと向かう時に生きていることを教えてくださいました。この世界も私たちの人生も終わりへと向かう途上にあります。そのことをわきまえ、様々な誘惑に惑わされることなく、主イエスを見上げて歩む私たちであらしてください。猛暑の日々が続いています。今年の夏も厳しそうです。どうか、兄弟姉妹の健康を支え、熱中症などの危険からお守りください。私たちの世界は今、大変不安定な状態にあります。いつ終わるとも分からない戦争に苦しむ人たちが多くいます。どうか、このような不条理な戦争を一日も早く終わらせてください。人々が平和な日常生活を取り戻すことができますよう、導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン