マルコによる福音書12章38~44節 2025年6月15日(日)伝道礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝は前回の箇所を振り返ることから始めましょう。主イエスは12章35~37節で次のように言われました。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」。
メシア(救い主)がダビデの子孫として生まれることは、旧約聖書に預言されていたことでした。ですから、主イエスの時代においても、人々はダビデの子孫から生まれるメシアをひたすら待ち望んでいたのです。
しかし、「ダビデの子」という言葉は、単にメシアがダビデの子孫として生まれること以上を意味していました。メシアが到来することは、失われたダビデの王座が回復されることを意味したのです。すなわち、メシアの統治する偉大なる王国の再建を意味したのです。人々は、イスラエルをローマ人の支配から解放し、独立した強大な王国を打ち建ててくれる、偉大なる王の到来を待ち望んでいたのです。そして民衆は、このナザレのイエスこそ、まさしくそのような王となるべき御方だと信じていたのです。
しかし主イエスは、メシアがそのような意味における「ダビデの子」であることを否定されたのです。単なる政治的解放者でありダビデの王座を回復する者ではありません。それ以上の者なのだというのが、ここで主イエスの言っておられる事です。
ここで主イエスが引用しているのは詩編110編です。最初の「主」は旧約聖書における主なる神ヤハウェを指しており、二番目の「主」はメシアを指しています。つまり、メシアはダビデの子であるだけでなく、それ以上に、ダビデの主でもあるのです。この御方は、この世の王以上の御方なのです。詩編110編に歌われているように、神の右の座に就くべき御方、永遠の王として天の王座に就くべき御方なのです。ダビデの主でもあるその御方は、永遠に生きておられる私たちの神でもあるのです。
そして、これに続く今日の二つの物語は、私たちに一つのことをはっきりと示しています。その御方は神の眼差しをもって、私たちに目を向けておられるということです。表面的なことではなく、私たち人間の最も深いところにまで目を向けておられるということです。
まず、38節以下を御覧ください。主は言われます。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(38~40節)。
そのように語られている律法学者ですが、そもそも彼らは何を思って律法学者となることを志したのでしょうか。律法学者になることは決して容易なことではありません。長い年月をかけて律法を学び訓練を受けます。そして、正式に任命されて律法学者となるのです。何を思ってその長い準備の期間を過ごしてきたのでしょう。もしその人が敬虔なユダヤ人であるなら、何よりも神に仕える大きな喜びをいだきつつ、律法を学び訓練を受けて備えてきたに違いありません。
パウロもキリスト者になる以前は、ガマリエルという有名な先生のもとでそのように神の律法を学んでいた人でした。使徒言行録において、そのパウロがかつての自分を振り返って次のように語っています。「わたしは、キリキア州のタルソスで生まれたユダヤ人です。そして、この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受け、今日の皆さんと同じように、熱心に神に仕えていました」(使徒22:3)。パウロだけが特別だったのではないでしょう。誰でも当初は、神に仕える純粋な熱意をもって律法を学んでいたと思うのです。
しかし、そのようにして律法学者となった人たちが、主イエスの目にはこのように映っていたのです。こうなってしまったということでしょう。純粋な志をもって歩み始めた彼らが、いつの間にか、長い衣をまとって歩き回ることを好むようになりました。長い衣は権威の象徴でした。人々が彼らの権威を認めるということは、彼らにとって非常に大事なことでした。また、広場で挨拶されることを求めるようになりました。人々から敬われることが彼らの関心事となりました。会堂では上席、宴会では上座に座ることを望むようになりました。他の人より上に位置すると見なされることを望むようになりました。人々から敬虔な人として尊敬されることは極めて大事なことでした。祈りさえも敬虔さをアピールするための手段となりました。
いったい何が起こったのでしょうか。何が変わってしまったのでしょうか。問題は明らかです。関心が神から人へと移って行ったということです。神がどう御覧になるかということよりも、人がどう見るか、どう評価するか、どういう扱いをするかということの方が、はるかに重要になっていったということです。主イエスの眼差しは確かにそこに向けられていました。そして、主イエスはよくご存知だったのです。いや、彼らも本当は知っているはずでした。そして、ここにいる私たちも知っているのでしょう。本当に意味を持つのは人がどう見るかではないし、どう評価するかでもないということを。主は言われます。「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」と。
そのように主イエスは、神の眼差しをもって人に目を向けておられます。そんな話がさらに続きます。
「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである』」(41~44節)。
レプトン銅貨二枚というと、今日の金銭感覚で言えば数十円といったところです。しかし、主イエスはそれが「乏しい中からの献げ物である」ことを確かに見ておられました。「皆は有り余る中から」、そして「この人は、乏しい中から」。主イエスの言葉の中には明らかな対比があります。
「乏しい」というのは、「足りない」ということです。「必要な分さえ欠けている」ということです。むしろ自分が必要としている。お金について言えば、これはとても分かり易いと思います。ある人は自分の経済的な状態を、この貧しいやもめに重ねて見るでしょうし、ある人は自分の状態をここに出て来る「大勢の金持ち」に重ねて見ることができるかもしれません。実際には多くの人は「その中間ぐらい」と言うかもしれません。
しかし、考えてみますなら「乏しい中から」という言葉が関係するのは、必ずしもお金の話だけではないはずです。経済的に豊かな人が「乏しい」という言葉と全く無縁かと言えば、決してそうではない。「お金はあるけれど、時間がない」という人だっているでしょう。お金も時間もあるけれど、年老いて体力が乏しいという人だっているでしょう。あるいは能力に乏しい、愛に乏しいと感じている人だっているのでしょう。
そのような乏しさの中で、私たちはしばしば考えるのです。豊かだったら献げられるのに、と。時間がもっとあったら神様に奉仕できるのに。体力があったら、若さがあったら、もっと仕えることができるのに。もっとあの人のように有能だったら、あの人のように愛に溢れた人だったら、神様のお役に立てるのに、と。
しかし、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。乏しい中からの献げ物だからレプトン銅貨二つなのです。そんな献げ物が、実際的に何の役に立つかと言われても仕方ない。そのような献げ物なのでしょう。しかし、それが役に立つかどうか、意味があるかどうかなど考えないで、あのやもめは「乏しい中から」献げたのです。
僅かばかりのものです。忙しい人はレプトン二つ分の時間しか献げられないかもしれない。病気の人は、レプトン二つ分のことしかできないかもしれない。でも、主イエスはちゃんと見ておられるのです。「この人は乏しい中から献げたのだ」と。
先ほど、律法学者たちについて、「問題は明らかです。関心が神から人へと移って行ったということです」と申しました。しかし、そこで言う「人」とは「他人」だけではないのです。そこには「自分」という人間も入るのです。そして、しばしば「自分」という人間の評価が何よりも重要になってしまう。そのようなことも起こります。
このやもめは他人の目など気にしていなかった。それだけでなく、自分の目も気にしていなかったのです。もっともっと大事なことがあるから。もっともっと大事な方がおられるから。その方を思って、その方のために、「乏しい中から」精一杯献げたのです。そんな彼女にちゃんと目を向けている方がおられました。彼女にとってもっとも大切な、神様の眼差しをもって見ていてくださる方が!主は弟子たちを呼び寄せて言われたのです。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」。
そして、もう一つ。主イエスはこうも言われました。「この人は、・・・生活費を全部入れたからである。」と。生活費を全部入れたのは、明らかにそれでも大丈夫だと思っているからでしょう。自分が自分の生活を支えているのではない。神様が生かしてくださっている。その信頼があってこその献げ物だったはずです。
ここに書かれているように持っている生活費を全部献げるというようなことは、恐らくは彼女にとって特別なことなのでしょう。彼女が毎日同じことを繰り返しているとは思えません。生きていけなくなる献げものを、神はお求めにはなりません。その日は彼女にとって特別な日だったのかもしれません。
しかし、その特別な献げ物に見る「神への信頼」は、一朝一夕で形作られるものではないでしょう。貧しい生活の中にあって、この日だけでなく、これまで毎日毎日、神に信頼して生きてきたということです。ならば、彼女の献げたレプトン二つは、「信頼に生きる日々の生活」をお献げしたものであるとも言えるでしょう。そのように、彼女がこれまでの生活において培ってきた「信頼」という献げ物。主イエスは確かにしっかりと見ておられました。
そして、彼女のすべてを献げた「信頼」という献げ物に主イエスが目を留められたのは、他ならぬ主イエス御自身が同じように「信頼」を献げようとしておられたからです。どのような形で。十字架の上で死ぬという仕方で。この世の目から見たら、それは犬死としか思われないようなことでした。しかし、主イエスは自分の全てを献げて、その命を神に信頼してゆだねたのです。そして、神はその御方を復活させ、御自分の右の座に着かせられました。これがダビデの主でもあり、私たちの主でもある御方です。主は生きておられます。その主が、この聖書箇所に見るように、今ここに生きている私たちにも目を留めていてくださいます。
その主の眼差しに守られて、私たちは生きていくことができるのです。そのことをいつも覚えていたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。主イエスは地上の政治的な解放をもたらすメシアではなく、父なる神の座に座る神の御子であることを自ら示されました。その主イエスが今も、私たちに慈しみのまなざしを向け、わたしたちのために父なる神に執り成してくださっています。人の目や自分の目を気にしている私たちですが、今も注がれている主の慈しみのまなざしの中で、自分らしく生きていく者とならしてください。今年もいよいよ梅雨の季節を迎えます。どうぞ兄弟姉妹一人一人の体調をお守りください。世界は今、きな臭い一触即発の状況が各地で見られます。どうか為政者たちの思いをただし、戦いではなく和解と平和を選び取るように、この世界を導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。