マタイによる福音書1章1~17節 2025年12月7日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
私たちが何かものを書いたり、話を準備したりするときに、初めに何をもって来るか、何から始めるかということで苦労することがあります。小説を書く人も、冒頭の言葉や文章を選ぶのに相当苦労し、工夫し、読む人に強い印象を与えようと言葉を吟味する、ということを聞きます。聖書の中の4つの福音書も、それぞれに異なる書き出しを持っており、工夫がこらされているように感じさせられます。その中で、新約聖書の第一の文書であるマタイによる福音書は、いきなり系図を最初に持ってきています。ここには数十名の人物の名前が連ねられています。初めて聖書を読もうとする多くの人が、マタイのこの冒頭の部分から嫌になってしまうとは、よく聞くことです。それほどに、この系図に対して「これは何だ」という印象を持ち、無味乾燥な思いがする、ということは実際にあり得ることでしょう。マタイはどのような意図をもってこの系図を冒頭に置いたのでしょう。
まず1節を見てみましょう。「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあります。イエス・キリストの系図が、アブラハムから始められていることに注目させられます。アブラハムの子、ダビデの子についても詳しく考える必要がありますが、今はそれぞれ重要な一点だけを確認しておきましょう。まずアブラハムに関しては、創世記12章に記されているとおり、神によって選び出されて、神の民ユダヤ民族の歩みを始めた最初の人物です。アブラハムが選ばれることによって、すべての民族の選びがやがて実現するということが約束されました。またダビデに関しては、その末に真の王であり救い主である方が現れると、神が約束してくださったことが大切です。このいずれもがイエス・キリストによって成就したとの信仰に立って、この系図が記されています。
つまり信仰的に見て、アブラハムにおける神の約束、ダビデにおける神の約束は、イエス・キリストにおいて実現した。そういう意味でイエス・キリストは、アブラハムの子であり、ダビデの子であると言われるのです。そう考えて、マタイは「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリスト」と記しているのでしょう。
次に私たちは、この系図が、14代ずつ、三期に区分されていることに注目したいのです。第一期はアブラハムからダビデに至るまで(2~6節前半)、第二期は、ソロモンからバビロン捕囚のエコンヤまで(6節後半~11節)、そして第三期は、バビロンに移されてからのシャルティエルからイエス・キリストまでです(12~16節)。私たちがこの系図を見てすぐに気がつくことは、17節からも示されることですが、アブラハムからイエス・キリストまでが、14代ずつ三期にうまい具合に区分されている、ということです。
しかし、詳しく調べてみると、色々な問題や疑問があることが分かってきます。
旧約に記されている系図、例えば歴代誌上3章5節などと比較してみるとき、ソロモンから始まる第二期の途中で、ヨラム(8節)からウジヤまでの間に、三人の王(アハズ、ヨアシュ、アマツヤ)が省略されていることが分かります。そうすることによってこの時期が14代という数に合わせられているのです。
また第三期は、シャルティエル(12節)から始まるのですが、イエス・キリストまでは十三代しかないにもかかわらず、「バビロンへ移されてからキリストまでは14代である」と記されています。とにかく一代足りないのです。
いずれにしても、マタイが14という数字にこだわっている、ということは否定しようがありません。一体、これはどういうことなのでしょうか。このことについては、多くの説明や解釈がなされています。二、三紹介しますと、単純な説明としては、第一期のアブラハムからダビデまでが14だったので、そのあとの第二期、第三期もそれに合わせようとした、ということです。また14という数字は、7の二倍である。そして7というのは完全を意味する象徴的な数字である。したがって、この7の二倍の14という数字で歴史を区切ろうとした、という説もあります。まだ他にもあるのです。いずれが正しいかは決定できないことですが、とにかくその数によって、アブラハムからキリストまでを三期に分け、それぞれの時期を特徴づけようとしているマタイの意図を見ることができます。すなわち、第一期は、アブラハムの選びからダビデ王までで、イスラエル民族が高められていく過程を歩んだ時代でした。第二期は、そのように繁栄をみたイスラエルが、衰退して、バビロンの国に捕らわれの身となる下降の時期です。そして第三期は、暗い時代が続きながら、ついに、待望のキリストを迎えることができて、神の約束がかなえられた時期となります。
先週読んだイザヤ書9章1節に次のように記されています。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」。様々な歴史の変遷をたどりながら、神はイスラエルを導き、決してアブラハムに与えられたその約束を忘れ給うことなく、ついに御子キリストにおいて、すべての国民への祝福がもたらされた。そのような信仰による理解と告白とが、ここにあります。マタイは、神の真実をこの系図を通して言い表しているのです。
そして、そのことによって、私たち一人ひとりの上に慰めと希望を与えようとしています。私たちの歩みも、信仰を与えられてからも、浮き沈みの激しいものです。喜びの絶頂にあるときもあれば、暗い絶望の谷間に陥るときもあります。そのように私たちの側にある大きな波にもかかわらず、神は昨日も今日も、いつまでも変わり給うことのない真実をもって、私たちを捕らえ導いてくださる。そのような神を、この系図の中に見ることができるのです。その神への信仰の告白が、この時代区分の中に表されています。
さて、この系図の特徴としてどうしても見落としてならないのは、四人の女性たちが登場することです。タマル(3節)、ラハブ(5節)、ルツ(5節)、ウリヤの妻(6節)です。このことは系図としては特異なものである、と言ってよいでしょう。なぜならふつうイスラエルの国における家系図は、男性の側の系統がたどられます。そして例外的に女性の名が出てくることがあっても、その場合は、すぐれた女性であり、賞賛の的としてとりあげられる人物たちです。しかしここにあげられている女性たちはどうでしょうか。あえて名前をあげるほどの人物だったのでしょうか。途中で、何名もの人物を省略してまで14という数字に合わせようとしたマタイが、なぜこれらの女性たちの名を系図の中に入れたのでしょうか。そのことを考えるにあたって、この四人の女性がどういう人物であったかを知る必要があります。簡単に見ておきましょう。「タマル」(3節)は、自分の夫の死後、夫の父であるユダによってペレツとゼラを生んだ女性でした(創世38:12以下)。「ラハブ」(5節)はエリコの町でよく知られた遊女でした(ヨシユア2:1以下)。「ルツ」(5節)は、イスラエルの集会に加わってはならないと規定されていた異邦のモアブ人でした(ルツ記)。そして「ウリヤの妻」(6節)とは、バトシェバのことで、夫ウリヤの留守中に、ダビデ王との姦淫の罪を犯した女性であり(サムエル下11:1以下)、のちにダビデの妻となった女性であることは、よく知られています。
このように、いずれの女性の場合でも、その女性からの子どもが生まれるということに関しては、罪がからまっています。彼女たちがイスラエル人の忌み嫌う他民族の女性ということだけではなく、彼女たちをめぐって、異常な事態が伴うといった女性ばかりなのです。言うなれば、系図の中にあえて出す必要はない者たち、いや逆に、隠しておくことの方が系図の純粋性を保つことができるといった女性ばかりなのです。
マタイはこれらの女性の名前を、敢えて系図の中に書き入れたとしか考えられません。いったいその意図は何であったのでしょうか。使徒信条に、主イエスの偉大な弟子たちの名は一人も上げられず、ポンテオ・ピラトの名があげられていることに深い意味があるように、アブラハムの妻サラやイサクの妻リベカをあげずに、この4人の女性の名を敢えてあげていることには、それなりの意図があったはずです。そのことを最後に考えてみたいのです。
ある人は、これらの四人の女性は罪の女であった、ということから考えます。しかし必ずしもそうではないでしょう。罪はむしろそれぞれの男性の側にあるというべきでしょう。また、ルツは、敬虔な女性として賞賛さえされています。罪ということだけで、四人をまとめることには無理があります。そうなると、この四人の女性の共通性は、非ユダヤ人、すなわち、異邦人ということにある、と見ることができるのではないでしょうか。イエス・キリストの系図の中に、異邦の血が混じっているのです。しかし、それにもかかわらず、神の約束は貫かれました。神の救いの計画は、異邦人をも包み込みながら進められてきた、この事実がこの系図をとおして明らかにされようとしている事柄です。ここに、マタイによる福音書が持っている異邦人世界、全世界への福音宣教という関心事が、すでに冒頭から示されているのです。このあと、御子キリストの誕生を最初に礼拝したのも、異邦人の国の占星術の学者たちでありました。またマタイ福音書の最後には、復活の主の言葉として「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と語られ、この異邦の世界への福音宣教の課題がいっそう鮮明にされています。
神は、このように、歴史の中の汚点とも思えることを、逆に用いて、宣教の前進のために役立ててくださった。そう確信したゆえに、マタイはこの四人の問題ある女性を系図の中に書き入れたのです。
また、このように四人の女性の名を系図に入れたのは、マタイ福音書がまとめられている時期に、イエスの母となったマリアへの誹謗、非難が強く出てきていたのではないかと推測する学者もいます。あれは姦淫の女、罪の女だったのではないかという非難です。しかし、たとえマリアが非難されなければならないものを持っていたとしても、すでにイエス・キリストの誕生にいたる系図の中に、同じような女性は何人もいる。それにもかかわらず、神はそれを用い給うたではないか。マタイはそのことを主張しようとしているのでありましょう。
私たちの歩みの中にも、消し去ってしまいたい罪や塗りつぶしたい汚れや神への背反というものが、べっとりとこびりついているかも知れません。私たちの生活がある場所には、必ず罪が伴い、罪との苦しい戦いがあります。そしてそれに敗れることもあります。
しかし、アブラハムからキリストに至るまでの歴史の中で、忌むべきこと、汚らわしいことが数多く起こりながら、なお約束に忠実であり給うた神は、私たちをいったんご自身との交わりに入れてくださった限りは、その初めの愛を貫いてくださるのです。私たちの罪の大きさにまさる赦しの愛によって、私たちを神の家族の系図の中に留めてくださいます。系図の中に現れる罪と異邦の女性たちの苦しみと涙とを顧み給う王なる神は、私たちの罪を悔いる思い、汚れを悲しむ涙をも顧みてくださるのです。
今年も私たちがクリスマスを迎えることができるのは、そのような神の憐れみの確かさによるのです。私たちはこの恩寵の確かさに支えられて、神の家族の一員としての歩みを、確信を持ってなしていかなければなりません。私たちがつまずくことがあっても、決してつまずき給うことのない神が、私たちのそれぞれの歩みを、祝福へと向けて導いてくださっているのです。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にアドベント第二の礼拝を守らせてくださったことを、心から感謝いたします。マタイによる福音書の冒頭にある系図からあなたの御心を示されました。あなたはあなたの民であるイスラエルを、その歴史を貫いて導いてくださいました。神の民の罪や汚れ、背反にもかかわらず、あなたの真実と愛は変わることはありませんでした。どうか、その神の民の一員として私たちもその系図の中に留められていることを、深く信じさせてください。冬の寒さが厳しくなってきました。どうか、兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。そして、主の御降誕と再臨を喜びをもって待ち望む日々を過ごさせてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。