神は顧みてくださる

ルツ記4章1~17節 2023年8月20日(日) 主日礼拝説教

                         牧師 藤田浩喜 

ルツ記を学んでいますが、今日は最後の第4章です。ルツとの結婚を決断したボアズは、それを実現するためにエルサレムの町に戻ってきます。それはナオミの夫であったエリメレクの一族の中で、第一の責任を持つ親戚と会って、話をつけるためでした。彼はエルサレムの町の門のところへ行きます。町の門は長老たちによる裁判が行わたり、話し合いや商取引の行われる町の中心でした。そこで座っていると、たまたま第一の責任を持つ親戚が、ボアズの前を通りかかったのです。「折りよく」とここには書かれていますが、単なる偶然ではないでしょう。そこには主なる神の導きがあったのです。

ボアズはこの親戚を呼び止めます。大事な話があることを伝えます。そして、二人の話し合いの証人となってもらうため、門のところにいた町の長老のうち十人に、その場に座ってもらったのでした。

こうして交渉の場は整いました。ボアズは早速、用件を切り出したのでした。3節後半からです。「モアブの野から帰って来たナオミが、わたしたちの一族エリメレクの所有する畑地を手放そうとしています。それでわたしの考えをお耳に入れたいと思ったのです。もしあなたが責任を果たすおつもりがあるのでしたら、この裁きの場にいる人々と民の長老たちの前で買い取ってください。もし責任を果たせないのでしたら、わたしにそう言ってください。それならわたしが考えます。責任を負っている人はあなたのほかになく、わたしはその次の者ですから。」

旧約の時代イスラエルには、ゴーエールという制度がありました。それはある人が没落し、土地を手放さなくてはならなくなった時、その人に代わって親戚が土地を買い取り、神様が一族に与えられた嗣業の土地の散逸を防ぐというものでした。エリメレクの妻であるナオミが土地を手放そうとしています。親戚の責任としてあなたはその土地を買い取る意志がありますか、とボアズは尋ねたのです。

第一の責任をもつその親戚は、事情が分かり、「それではわたしがその責任を果たしましょう」と答えます。土地を買い取ること自体は、所有する土地が増えることでもあり、それほど難しいことではなかったのでしょう。

しかし、ボアズはこれに伴うもう一つの条件を、かの親戚に伝えたのでした。5節です。「あなたがナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き受けなくてはなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです。」ボアズがここで述べているのはレヴィラート婚という慣習です。これは通例、兄弟間で行われていたことでした。兄が男の子を残さずに死んだ場合、弟が兄の奥さんと結婚し、男の子をもうける。その最初に生まれた男の子に亡くなった兄の名を付けて、嗣業の土地をつがせるというのがレヴィラート婚という慣習でした。ボアズはその慣習を親戚の間でも適用して、エリメレクの息子マフロンの妻であったルツもまた引き受けるように、その親戚に迫ったのです。

土地だけならともかく、寡婦となったモアブの女性ルツまでも、引き受けなくてはならない。それはかの親戚にとっては、できかねることであったようです。ルツを引き受けることによって、家庭内にいざこざの種を持ち込みたくなかったのかもしれません。あるいはルツを娶って男の子が生まれれば、せっかく買い戻した土地がその子の土地になってしまうので、自分の嗣業を損することになってしまうと判断したのかもしれません。いずれにしても、第一の責任をもつ親戚は、本来自分が果たすべき責任を放棄し、彼に次ぐ立場にあるボアズに、親族の責任を果たしてくれるように頼んだのでした。

こうして、ボアズが願い、ルツに約束していた通りに事が運びました。かの親戚は、責任を譲り渡すことを、自分の履き物をボアズに渡すという所作によって、確証します。そしてそれを受けて、ボアズは長老とすべての民に向かって、高らかに次のように宣言したのです。9節以下です。「あなたがたは、今日、わたしがエリメレクとキルヨンとマフロンの遺産をことごとくナオミの手から買い取ったことの証人になったのです。また、わたしはマフロンの妻であったモアブの婦人ルツも引き取って妻とします。故人の名をその嗣業の土地に再興するため、また故人の名が一族や郷里の門から絶えてしまわないためです。あなたがたは、今日、このことの証人になったのです。」

ボアズは、町の門において正式な手続きをすべて果たした上で、エリメレクの土地を買い取り、ルツを自分の妻として迎え入れることになりました。前回の3章で見たように、ボアズとルツは互いに惹かれ合うようになっていました。ボアズがルツに心惹かれたのは、色んな理由があったでしょう。しかし、その中でも彼を感動させたのは、ルツの損得を超えた思いやりだったと思います。ルツは損得から考えれば、夫のマフロンが亡くなったとき、モアブの実家に帰ることもできました。姑と一緒に見知らぬイスラエルまでついてくることなどなかった。しかし、夫も二人の息子も亡くして、うつろな思いを抱えて故郷に帰る姑ナオミを、一人にしておくことはできなかった。ナオミと一緒に生きようと決心し、二人で生きていくために、毎日落ち穂拾いにやってきた。蔑まれたり、からかわれたりすることも覚悟の上で、落ち穂拾いにやって来ました。ボアズはそのようなルツの姑への損得を超えた思いやりに、心打たれたのではないでしょうか。

そのような思いやりに、ボアズもまた応えています。第一の責任を持つ親戚は、買い取った土地が自分のものにはならないことを見越して、ゴーエールの権利を放棄しました。買い戻した土地が、自分のものではなくなるという点では、ボアズも同じです。損得勘定だけ考えれば、ルツを自分の妻とするために、もっと他の方法もあったに違いありません。しかしボアズは、ルツの思いやりに自分もまた応えたいと思ったに違いありません。だからこそ彼は、町の誰もが異を唱える余地のない方法で、真正面から状況を突破しようと思ったのです。ルツの生き方、彼女のナオミへの思いやりに、恥ずかしくない仕方で応えなくてはならない。そうしたボアズの心意気が、私たちにも伝わってくるように思うのです。

私たちの時代というのは、利に聡い時代です。その関係が利益になるか、そうすることが得か損か、そんな基準で生きる傾向が、ますます顕著になっているのではないでしょうか。先週いただいたお休みの間に、歴史学者の磯田道史(いそだみちふみ)さんの欠かれた『無私の日本人』という本を読みました。そこには穀田屋十三郎たち、中根東里(とうり)、太田垣蓮月(れんげつ)という3組の人たちの実話が記されています。いずれも自分を無にして、自分の損得など全く考えずに、他者のために命を使った人々でした。詳しいことは申し上げるいとまがありませんが、たとえば穀田屋十三郎たちは、奥州街道にある吉岡宿で商いをしている商人たちでした。その吉岡宿は伊達藩のために伝馬の御用を課せられていました。馬によって通信網の維持をしていたのです。しかもこの吉岡宿は他の宿場町のように伊達藩からの手当てなしにこの御用を担わされてました。吉岡宿はそれもあってだんだん疲弊していました。将来の存続が危ぶまれる状況でした。そこで穀田屋十三郎たちは一世一代の賭けに出ます。当時伊達藩は参勤交代の莫大な支出もあり、多額の金子を必要とすることがありました。その伊達藩に千両の金子を貸し付け、当時の利子の相場であった1割の100両を毎年受け、それを宿場の家々に配ることで、吉岡宿を支えようとしたのです。そのために穀田屋十三郎他十名近くの商家が破産も覚悟で金子を提供しました。そして仙台藩の分厚い官僚組織に体当たりでぶつかり、幾多の試練を乗り越え、6年の歳月をかけて大願を成就したのです。この小さな歴史を埋もれさせまいと発掘した磯田先生は、今の私たち日本人の風潮を、少し嘆いておられるように感じました。目先の損得だけを考え、他者に対するあたたかい眼差しを失ってしまった私たちの時代に対して、「あなたがたはひよっとすると、大切なものを失ってしまってはいませんか?」と、問いかけられるように思うのです。

さて、11節以下の後半のところでは、物語のラストにふさわしく、人々の祝福と神の祝福がこだましています。まず、ボアズとルツの結婚が、民や長老たちによって、高らかに祝福されるのです。11節以下です。「そうです。わたしたちは証人です。あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。どうか、主がこの若い婦人によって子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツのように、御家庭が恵まれるように。」

ラケルとレアは族長ヤコブの二人の妻であり、彼女たちからイスラエルの12部族が誕生しました。また、タマルの勇気ある行動によって、タマルは義父ユダの子を身ごもり、ユダ族は家系を絶やすことなく、つないでいくことができました。それと同じような祝福が、ボアズとルツの家庭にも注がれますようにとの祈りが、捧げられたのでした。

そしてやがて、ボアズとルツの家庭には、男の子が与えられます。この男の子は、レヴィラート婚の習慣に従い、エリメレクの息子とされ、ナオミは思いがけない仕方で息子を得ることになります。そのナオミを近所の女たちが祝福して、次のように声をかけるのです。14節以下です。「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました。どうか、イスラエルでその子の名があげられますように。その子はあなたの魂を生き返らせる者となり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」

ルツが産んだ子どもによって、ナオミの生涯が絶望から喜びに変えられたことを、声を合わせて祝福しているのです。モアブからイスラエルに帰って来たときも、女たちから声をかけられたナオミでした。それに対して、「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしをうつろにして帰らせたのです」(1:20~21)と、答えたナオミでした。生きている意味も、未来への希望も奪い取られたナオミに、主なる神は今、生きる意味と未来への新しい希望を、造り出してくださったのです。空手でむなしく帰って来たナオミの腕に、未来そのものである乳飲み子を抱かせてくださったのです。神様はその信じる民を、見捨てたままにしてはおかれません。その信じる民を顧みてくださいます。たとえ一時は、打ちひしがれ望みを失うことがあったとしても、生きる意味と未来への大いなる希望を、造り出してくださいます。主なる神は、必ず顧みてくださるのです。

今日のルツ記4章は、ユダとタマルの息子ペレツからダビデ王に至る系図によって締めくくられています。10人の名前が記され、ボアズは7番目に出てきます。ルツ記に登場する人たちは、ナオミもルツもボアズも、自分たちのつないだ系図がどこに至ったか、知る由もなかったでしょう。自分たちの子孫からイスラエル史上最大の王であるダビデが出ると、誰が思ったでしょう。それのみならず、その系図は遙かに時代を超え、救い主イエス・キリストにつながっていくなどと、誰が想像し得たでしょう。

ナオミもルツもボアズも、主なる神を見上げ、神の慈しみを信じて、その生涯をささやかに生きた人たちでした。神の示してくださる慈しみと思いやりに、自分なりの仕方でお応えしようと、誠実に生きることを志した人たちでした。時には迷い、神様の御手が見えなくなるような苦しみの谷を通りながらも、神様と共に生き続けた人たちでした。神様はそのような人たちのささやかな歩みを用いてくださり、イスラエルの民を導き、ご自身の救いの業に用いてくださったのです。 

私たちのささやかな歩みを、イエス・キリストの父なる神様は無駄にはなさいません。神様は必ずや顧みてくださる。主イエスの愛に少しでも誠実に生きたいと願う私たちを顧みてくださいます。その信仰に生かされ励まされて、新しい一週間の歩みを進んでまいりましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹を色々な仕方で礼拝に招き、共にあなたを讃美することができますことを、心から感謝いたします。あなたは信じる者たちを顧みてくださいます。私たちがどのような状況に置かれても、あなたが新しい道を創造くださり、あなたの御心に適った希望の道へと導いてくださいます。そのことを深く信じて、あなたを見上げて、進ませてください。8月のこの時期、私たちは戦争と平和について考える時を与えられます。危機と不安が増す状況の中で、色んな言説が飛び交います。しかしあなたは「平和をつくり出す者はさいわいである。その人たちは神の子と呼ばれる」と言われます。この御言葉の意味を深く思いめぐらし、この御言葉に従う決意をもって日々を過ごさせてください。猛暑の日々が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の健康を支え、その歩みを導いていてください。この拙きひと言の感謝と願いを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。