マタイによる福音書2章13~23節 2025年1月5日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
クリスマスの恵みの時を過ごし、今2025年最初の礼拝を守っています。ここにおられるお一人おひとりが、新たな思いをもって、このときを迎えておられることでしょう。そうした中で、わたしたちは今日、御子イエス・キリストの誕生後の出来事についてご一緒に学びたいと思います。
クリスマス礼拝においては、マタイによる福音書2章1~12節から御子イエス・キリストの誕生に際して、本来そのことを喜ぶべきユダヤの人々、エルサレムの人々には何の喜びもなく、ただ、異邦の世界の占星術の学者のみが、御子に礼拝をささげ、大きな喜びを示した、ということを知りました。それによって、イエス・キリストが、ユダヤの国という限られた所においてだけでなく、全世界において崇められるべき真の救い主であり、王である、ということが明らかに示されました。
このように、マタイによる福音書は、ルカによる福音書のように、喜びという色彩で御子キリストの誕生の物語を記すことはしていません。唯一、学者たちの喜びが記されているだけです。これは、何を意味しているのでしょうか。ベツレヘムへの旅、家畜小屋での誕生、ゆりかご代わりの飼葉おけ、あとで学ぶエジプトへの避難、ガリラヤのナザレでの滞在、その一つひとつが赤子の誕生と幼子の成長にとって、大変な困難と危険を伴うものであったことは、誰の目にも明らかなことです。
神の御子であり、世界の人々を救う働きをなさるお方が、なぜに、これほどの苦悩を誕生のときから味わわねばならなかったのか。ほとんどの人々が、そのような問いを抱くのではないでしょうか。最初のクリスマスの出来事には、喜びや明るさももちろんありますけれども、特にマタイ福音書においては悲しみや暗さの方がより前面に出ているということが、わたしたちがもつ偽わらざる印象です。
この暗さの中に、わたしたちは、少なくとも二つのことを見ることができるように思います。その一つは、わたしたち人間の主イエスに対する拒絶ということです。自分自身をすべてのものの主(あるじ)としたがる人間にとって、真の主としてご自身を表されるイエス・キリストに対する激しい拒否が、もう既に幼子イエスに対して投げつけられているということです。エルサレムの人々や律法学者・祭司長たちのイエスに対する無関心も、ユダヤの王として君臨していたヘロデ王の恐怖と殺意も、それはわたしたち自身が、生まれながらに持っている神の御業への拒絶を表しているものである、ということなのです。したがってわたしたちは、彼らの主イエスに対する冷淡で、憎悪に満ちた反応は、わたしたち自身も持っているのだ、ということを知らなければならないでありましょう。
もう一つのことは、イエス・キリストの誕生と成長の初期における苦しみの中に、既に主イエスの十字架の苦難の予兆が表れている、ということです。幼子イエスが受けた苦しみは、やがて成長して十字架の上で受ける苦しみと死の予兆です。御子キリストが、人類の罪を担って、十字架の上で贖いの業を成しとげられるということが、既に御子の誕生とその後の成長における苦しみという形で示されているのです。マタイはそのことを明らかにしようとしています。
神は、あえてそのような中に、御子キリストを生まれさせ給いました。ここに、罪人すべてに向けられた神の救いのご意志を読みとることができます。主イエスの飼い葉おけの上に既に十字架の影が射している、といわれるのは、そういう意味においてなのです。したがってクリスマスを祝うということは、わたしたちがキリストと共に苦難を担うとの決意が伴ってこそ意義がある、ということになるのです。このように、御子の苦悩には、単に当時そういう状況であったということではなくて、むしろ、神のご意図が隠されていることを、読みとることが求められているのです。
ところで、御子キリストを拒絶したのは、当時のユダヤ人であり、また、その中に、わたしたち自身の主イエスに対する姿勢が示唆されていることを見たのですが、それを典型的に表したのがヘロデ王でした。このヘロデ王は、日曜学校の生徒たちが聖誕劇をやるときなどには、やり手がいなくて困ることがあるほどに、悪役のイメージが強い人物です。確かにそのとおりの人物であったのでしょうが、この人物の中に表されている罪を、わたしたちは自分の中にもあるものとして重ねて考察するということは、大切なことがらであるように思います。
ヘロデは一体何をしたのでしょうか。よくご承知のとおり、学者たちがユダヤ人の王として生まれたイエスを確かめたあと、ヘロデのもとに立寄るように命じたのに、それを裏切ったことを知って(12節)、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(16節)のです。幼児虐殺という残忍行為の首謀者がヘロデでした。それだけでなく彼は、身内の者や我が子をも、自分の地位を狙うものとして殺した悪名高い人物であります。
パスカル『パンセ』(随想録)に次の文章があります。「ヘロデが殺させた2歳以下の子どもたちの中に、ヘロデ自身の子どももいたことをローマ皇帝アウグストが知ったとき、こう言った、『ヘロデの息子になるよりは、ヘロデの豚になる方が安全だ』と」。それほどに言われる残虐なヘロデの手から、幼子イエスはどのようにして逃れることができたのでしょうか。それは、主の天使がヨセフに現れて、エジプトに逃れるように告げることによってでした。ヨセフに守られて、御子イエスは魔の手から逃れることができたのです。
また、ヘロデの死後、その息子アルケラオがユダヤを治めるようになったときにも、ガリラヤのナザレに逃れて成長することができました。こうして御子は守られたのですが、その背後においてヘロデの手による幼児虐殺という大いなる犠牲が払われたのでした。そのようなことを伴いながらではあっても、主イエスの幼い命が守られたことはなぜだったのでしょうか。
それらはすべて、やがて避けることのできない神の決定としての十字架の死のために備えるものであった、ということによるのではないでしょうか。十字架による贖い、救いの完成という大事業をなすまで、主イエスは神の御手によって守られたということでありましょう。仕えさせるためでなく、仕えるための生涯を主が全うするために、時が必要でありました。そして、その時が満ちたとき、神はご自身の御子の命さえ奪いとられることをお許しになったのです。わたしたちにおいても同じであります。それぞれに時がある、ということを深く思わせられます。自分に与えられた務めと命(めい)とに誠実に立ち向かっていくときも、立ち上がるときも走り出すときも、また辞するときも死ぬときも、神ご自身の定めのままにそのことが示され、また、行われるということを、わたしたちは確信してよいのであります。
そのような神への固い信頼と全面的な明け渡しというものを、わたしたちは、ヨセフの行動の中に見ることができます。ヨセフの神の御言葉への忠実さは、既に1章18節以下のところに示されていました。天使の言葉である「妻マリアを迎え入れなさい」、「その子をイエスと名付けなさい」に対して、ヨセフは「妻を迎え入れ」(24)、「その子をイエスと名付けた」(25)というように素直に従いました。そのようなヨセフの姿勢は、今日の箇所においては、三度にわたって記されています。第一に13節と14節において幼子を連れてエジプトに逃げ、そこにとどまったこと、第二に20節と21節において幼子を連れてイスラエルの地に帰ったこと、そして第三に22節と23節においてガリラヤのナザレヘ行くようにとのお告げに従ったことです。14節において「夜のうちに」エジプトへ行った行為などは、特にヨセフの神の御言葉への全き従順と敏速な応答とを示しているといってよいでしょう。躊躇なく神に従う一人の忠実な僕がそこにいるのです。
ほかに何の頼るべきものを持たないものであったとしても、これほどに自分と愛する家族とを神の御言葉に委ねて生き続けたヨセフの姿に、わたしたちは心ひかれるものを感じないわけにはいきません。信仰はある種の愚かさを伴うものであるのかも知れません。先が見えない中で、今示される御言葉に愚直なまでに従うということが、信仰の領域にはあるのです。
それほど単純に信じてもよいのかとか、それほど献身的に仕える必要があるのかとか、そんなに素直に神の約束や希望を受け入れてもよいのかというように、他の人から見れば、愚かとしか思えないほどの信仰に生きることは、実際にあり得ることではないでしょうか。ヨセフがどれほど深く、主イエスを通してなそうとしておられる神の御業やご計画を知っていたのだろうか、という疑問はあるでしょう。しかし、つねに神の言葉を尋ね、それを待ち、それに依存して生きた生き方は、わたしたち一人ひとりに信仰の旅路のあり方を教え示してくれるものでありましょう。
そして、さらに、ヨセフを超えて、このヨセフを導かれた神のみ腕の確かさを彼の上に見ることが求められています。ヨセフの従順を生み出しだのは神の確かさであったのです。「わたしの手は短すぎて贖うことができず、わたしには救い出す力がないというのか」(イザヤ50:2)。そんなことはないと神は言われます。その確かなみ手、み腕が、この全世界と歴史とを導き、また、わたしたち一人ひとりの上にも伸ばされているのです。
さて、御子のすべての出来事に神の隠されたご意図がある、ということを先ほど述べました。そのことをマタイ福音書は、旧約聖書における預言や約束が成就した、という形で示すのであります。そのことはすでに1章22節で示されましたが、今日の箇所では次のように言われます。15節の「主が預言者をとおして言われたこと」とはホセア書11章1節のことです。また17~18節のエレミヤの預言は、エレミヤ書31章15節に出てきます。さらに23節の「彼はナザレの人と呼ばれる」という預言は、イザヤ書11章1節や士師記13章5節などがそのことを語っている、と考えられています。
今詳細に旧約と新約を照らし合せて検討することはできませんけれども、マタイが御子に起こる一つひとつの出来事の背後に、神の確かなご意志とご計画があることを示すことによって、御子イエスが「インマヌエル」と呼ばれるにふさわしい実体を備えたお方であることを証ししようとしているのです。主イエスに起こることは、神のみ腕の中で起こるのだ、という信仰の告白がここにあります。
そして、そのことを明らかにすることによって、この福音書は、わたしたち自身が主イエス・キリストと共にあるならば、このわたしたちにおいても、神は共にいてくださり、神の御腕の中でわたしたちのすべてのことが起こるのだということを教えようとしているのです。イエス・キリストが共にいてくださるから、大丈夫だと告げられているのです。どのように激しい苦悩でも、悲痛なことであっても、神が主イエスにおいてわたしたちと共にいてくださるならば、神がご存じであり、計画しておられること以外のことは起こらない、と確信してよいのです。インマヌエルと呼ばれる主イエス・キリストによって、そのような神との確かな結びつきが始まったことをわたしたちは確信できるのです。
新しい年を、都エルサレムから主イエスを閉め出したユダヤ人のようにではなくて、自分の心の王座に、主イエス・キリストを唯一の主としてお迎えしましょう。そして、わたしたちの国と世界の平和と和解、私たちの社会における共に生きる関係の確立のために、それぞれの賜物に応じて用いられるものでありたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日2025年最初の礼拝を愛する兄弟姉妹と共に守ることができ、心から感謝いたします。御子イエス・キリスト誕生後の出来事を共に学びました。幼子が人間の憎悪をまとった支配者のゆえに翻弄されつつも、神さまに守られ導かれたことを共に聞きました。そこに父ヨセフのあなたにすべてをゆだねる信仰があったことを知らされました。わたしたちもヨセフの信仰に倣い、あなたの御心にゆだねていく1年を送らせてください。世界は今多くの危うさと不安の中にあります。どうか今戦争のさ中にある人々、激しい災害のために苦境に置かれている人々に、あなたの守りと平安をお与えください。群れの中には病床にある兄弟姉妹、高齢ゆえの労苦を負っている兄弟姉妹がおります。どうか、一人ひとりをあなたが支え導いていてください。あなたの平安で満たしていてください。このひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。