神に仕えることを学ぶ

マルコによる福音書12章13~17節 2025年5月4日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 今朝与えられております御言葉は、マルコによる福音書によれば、受難週の火曜日の出来事です。マルコによる福音書においては11章27節から13章の終わりまで、主イエスが神殿においてなされたたくさんの教えや問答が記されています。実にたくさんの分量が割かれているのですが、ここにある教えや問答がすべてこの火曜日だけでなされたと考える必要はないと思います。色々な時になされた教えが、ここにまとめられたと考えることができるでしょう。

 さて、今朝与えられている御言葉において、主イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人が数人、主イエスのもとに遣わされました。彼らは遣わされて来たのですが、遣わしたのは誰かと言えば、11章の終わりの所で、主イエスに権威についての問答を仕掛けた祭司長、律法学者、長老たちであっただろうと思います。彼らは、エルサレム神殿を中心とするユダヤ教の指導者たちであり、当時のユダヤ社会の指導者たちです。彼らに遣わされて、主イエスの言葉じりをとらえて陥れるためにやって来たのです。

 ここでファリサイ派やヘロデ派の人が遣わされているのですが、それは主イエスに向けられた問い、主イエスを陥れるためになされた問いの内容と関わっています。元々、ファリサイ派の人とヘロデ派の人とは政治的立場が全く違うのです。ファリサイ派の人というのは、ユダヤ教原理主義と申しますか、神の民であるユダヤ人として、自分たちは律法を守って神様の救いに与るために全精力をそこに注いでいる人たちです。彼らからすれば、汚れた異邦人であるローマに支配されているのはまことに面白くないわけです。一方、ヘロデ派の人というのは、当時のガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスを支持する人たちです。ヘロデ・アンティパスは、ローマ帝国のもとで領主であることを許されている存在ですから、当然、ローマ帝国による支配という現実を支持しているわけです。このようにローマに対しての姿勢ということから見れば、この二つのグループは全く正反対の立場だったわけです。

 その二つのグループの人が主イエスの所にやって来て、主イエスに問うのです。14節「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」この税金というのは、多分、人頭税であったと思われます。これは主イエスを陥れるための罠です。どういうことかと申しますと、「税金を納めなくてよい」と主イエスが答えれば、それはローマに反逆する者ということになります。ヘロデ派の人が黙っていません。ローマに訴えて、主イエスを捕らえることができます。逆に、「納めなければならない」と答えれば、人々は主イエスが神様に遣わされた方で、その不思議な力で自分たちをローマから解放してくれると期待していましたから、人々は失望し主イエスから離れるでしょう。更に、ファリサイ派の人々は「ユダヤには神様以外に王はいない」と叫んで、主イエスを糾弾することさえできるわけです。このように、どう答えようとも主イエスを追い詰めることができる、そういう罠がこの問いには仕掛けられていたわけです。

 これに対して、主イエスは彼らの策略を見抜かれます。そして、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい」と告げられました。デナリオン銀貨というのは、当時ローマ帝国が発行していた貨幣です。労働者の一日の賃金が1デナリオンでした。ですから、現代の日本で言えば五千円札とか一万円札に相当すると考えてよいでしょう。この銀貨には、当時のローマ皇帝であるティベリウスの肖像と銘が刻まれていました。お金というものは誰でもが造ることができるというものではありません。その国を支配する者だけが発行することができるのです。そして、お金というものは皆が使うものです。だから、ローマ帝国はそれに必ず皇帝の肖像と銘を刻むことにしていました。それは、このお金を造ったのが○○というローマ皇帝であると示すことによって、このお金を使う者は○○皇帝の支配のもとにあるのだということを示すためでした。ですから、ローマは皇帝が替わる度に、必ずその新しい皇帝の肖像と銘が刻まれた貨幣を造ったのです。

 エルサレム神殿においてはこのデナリオン銀貨は使うことができず、昔のユダヤのお金に両替しなければならなかったわけですが、ここには「神殿の中にローマの支配は及ばせない」という思いがあったのだと思います。更には、十戒の第二の戒め「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない」に反するからということもあったのでしょう。そのようにローマのお金を使えないエルサレム神殿の中で、このようなやり取りが為されたというのも皮肉な気がします。エルサレム神殿の中では使うことのできないローマの銀貨を、彼らは持っていたのです。神殿を一歩出ればローマのお金しか使えないのですから、財布の中にはローマのお金が入っている。皆そうなのです。エルサレム神殿に巡礼に来た人も、ヘロデ派の人もファリサイ派の人も、財布の中にはローマのお金しか入っていないのです。しかし、エルサレム神殿に納めるものはローマのお金ではいけない、そう言って両替しているわけです。何か変です。

 神殿の内と外で全く違うように生きているわけです。神殿の外ではローマのお金を使い、ローマの支配の中に生きる。しかし、神殿の中ではローマのお金は使えない。神殿の中では、王はローマ皇帝ではなくて主なる神様ただ一人ということになっている。使い分けているわけです。

 主イエスは、彼らが持って来たデナリオン銀貨を見せて、「これは、だれの肖像と銘か」と問われました。彼らが「皇帝のものです」と答えると、主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とお答えになりました。この答えには、ファリサイ派の人もヘロデ派の人も言いがかりを付けようがなく、驚き、黙るしかありませんでした。主イエスは「皇帝のものは皇帝に」と答えることによって、税金は納めるべきだと言われたわけです。これでヘロデ派は黙るしかありません。しかし同時に、「神のものは神に返しなさい」と言うことによって、ただローマの支配だけを認めるのではなくて、ちゃんと神様の御支配を認めているわけです。これでファリサイ派の人も黙るしかありませんでした。

 主イエスはここで、ヘロデ派の人からもファリサイ派の人からも責められることのない見事な答えをされたわけです。しかしここで主イエスは、神殿を支配している人々が神殿の外はローマ皇帝の支配、神殿の中は神様の支配というような使い分けをしているのをよしとして、このように言われたのではないのです。聞いた方は、そのように受け取ったかもしれません。しかし、主イエスの意図はそうではありませんでした。確かに、この「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という主イエスの言葉が、この世の領域・世俗の領域と、教会の領域・信仰の領域とを分けなければならない、そのような考え方の根拠となったという歴史はあります。そして、このような考え方をしなければいけない時もあるのです。例えば、政教分離というあり方は、近代民主主義国家においてはとても大切なもので、これを失えば近代民主主義国家は成り立たないと言ってもよいほどに重要なものです。この政教分離というあり方は、人類が本当に多くの血を流してやっとたどり着いた知恵であり、私は何としてもこれは守らなければならないと考えています。

 しかし、主イエスがここで言われたことは、「聖と俗とを分けなさい」ということではないのです。「皇帝のものは皇帝に」というのは確かに、この世の秩序というものを認めるということです。主イエスは、デナリオン銀貨を使うな、税金を納めるな、ローマと戦え、そんなことは言われないのです。いつの時代でも、どこの国でも、理想的な政治、神様の御心が完全に反映されるような政治が行われるなどということはないのです。政治というのは、色々な立場の人がいて、それを認めながら、より良い妥協点を見つけるしかないのです。色々と欠けがあっても、それを認めていくしかない。消費税に反対だからといって、それを納めなくてよいということにはならないのです。私たちはこの世の秩序を認め、良き市民としての歩みをしなければならないのです。

 問題は、「神のものは神に」です。この「神のもの」とは何なのでしょうか。デナリオン銀貨には、それを造った皇帝の肖像と銘がありました。では、神様によって造られたもの、それを造られた神様の肖像と銘が入ったものとは何なのでしょうか。それは、神様の似姿に造られた私たち自身です。つまり、私たちの命、私たちの富、私たちの時間、私たちの能力、それらはすべて神様のものなのです。主イエスは「神のものは神に返しなさい」と言われました。私たちは、自分の持てるすべてを神様にお献げして生きるのです。ここまでは皇帝に、ここからは神に、そして残りは自分に。そういうことではないのです。

 こう言ってもよいでしょう。私たちは、日曜日の朝だけキリスト者であるわけではないのです。教会にいる時だけ、礼拝している時だけクリスチャン。そんなわけがありません。私たちはいつでもどこでも、何をしていてもキリスト者なのです。この世の秩序のなかで、会社員として、主婦として、夫として、妻として生きている時も、キリスト者なのです。月曜から土曜までは皇帝の支配のもとで、日曜日は神様の支配のもとで。そんな使い分けはできないのです。どうしてか。それは、私たちはあの主イエスの十字架によって、完全に神様のものとされてしまったからです。私たちには最早、父・子・聖霊なる三位一体の神様以外に主人はいないのです。

 ですから、この世の秩序の中に生きている時も、私たちの主人、私たちの王は、ただ主なる神様しかいないのです。私たちは二人の王に兼ね仕えることはできません。ですから、もし私たちが、明らかに神様の御心に反することをこの世の主人から求められることがあれば、私たちは断固「No!!」と言わなければならないでしょう。皇帝もまた、神様によってその地位を与えられている者にすぎないからです。しかし、皇帝に仕える時、つまりこの世の秩序の中で生きる時、私たちは神様のものとされている者として、ためらうことなく、健やかに生きるのです。この世界のすべては、主なる神様のものだからです。私たちはキリスト者として仕事をなし、キリスト者として食事を作り、キリスト者として子育てをするのです。私たちの為す日常の営みのすべてが、主人である神様にお仕えする業なのです。牧師の仕事は聖なる業、信徒の日々の生活は俗なる業。そんなことは全くありません。どんな小さな業も、私たちは神様に仕える業として、神様の栄光のためになすのです。それが、あの主イエスの十字架という一点において全てを新しくされてしまった、キリスト者という存在なのです。神様の似姿を刻まれた一人一人として、心を高く上げつつ歩んでいきましょう。お祈りをいたします。 

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。今日も聖書を通して御言葉を与えられました。私たちキリスト者は神様の肖像と命が刻まれた神様の似姿です。あなた以外に私たちが仕えるべき方はおられません。どうか、真にお仕えするあなたにいつも心を向けつつ、日々の歩みを為すものとしてください。群れの中には病床にある者、齢を重ねて困難を覚える者、人生の試練の中にある者もおります。どうか兄弟姉妹一人一人

を励まし力づけてください。折に適った助けと導きを与えていてください。この拙き切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。