神が与えてくださる幻

マルコによる福音書14章53~65節 2025年10月5日(日)主日礼拝説教

                                             牧師 藤田浩喜                   

 ゲツセマネで祈られた主イエスは、ユダの裏切りによって捕らえられ、大祭司の屋敷に連れて来られました。そこに、祭司長、長老、律法学者たち、つまり当時のユダヤの政治・宗教・治安を委ねられておりました最高法院のメンバーが集まって来ました。この最高法院と訳されておりますのは、サンヘドリンと呼ばれる議会で、70名の議員と議長である大祭司によって構成されていました。そこで主イエスの裁判が行われたと聖書は告げています。

 しかし、この時の裁判にはいろいろと異常な点、不当な点がありました。第一に、この裁判は夜に、しかも大祭司の屋敷で行われたということです。当時、サンヘドリンは昼間に、神殿の中で行われなければならないと決まっていました。しかし、主イエスが捕らえられたのは夜。神殿はもう閉まっています。本当ならば、次の日の朝を迎えてから神殿で行われるべきものでした。しかし彼らは、大祭司の家で、夜に主イエスの裁判を行ったのです。

 第二に、この裁判は主イエスを死刑にするための裁判であったということです。裁判というものは、その人に罪があるかないかを明らかにして、罪状が確定したら、罰を決める。そういうものでしょう。しかし、この時の裁判は、55節に「祭司長たちと最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めた」とありますように、主イエスを死刑にするために開かれた裁判でした。結論が先に決まっているのです。ですから、これを裁判と呼んでよいのかどうか。まことに異常で不当な裁判でした。

 第三に、この裁判においては、主イエスに不利な偽証が何人もの人によってなされました。偽証は、十戒の第九戒においてはっきり禁じられていることです。しかも、その偽証を求めたのが、サンヘドリンのメンバーたちだったというのです。十戒を徹底して守ることによって神様の前に義とされる。これを信条としているのが、当時のユダヤ教の指導者たちである彼らでした。それなのに、自ら十戒を破り主イエスを死刑にしようとする。これもまことに異常なことであり、不当なものした。

 第四に、偽証が食い違っていたのでそれを採用することができず、主イエスの罪状を定めることができなかったというのです。ユダヤの裁判において、証言は複数の人によって証言されなければ採用されません。多分、当初は祭りの間は主イエスに手を出さないことにしていたのに、ユダの裏切りによって急遽主イエスを捕らえて裁判することになったからでしょう。偽りの証言をする者たちが、綿密に打ち合わせをして口裏を合わせるということができず、証言が食い違ってしまったのです。ここで証言が成立しないのですから、主イエスは無罪放免とされるべきでした。しかし、そうはならなかった。全く異常なことであり、不当なことでした。

 今、この主イエスの裁判の異常性、不当性について述べてきましたが、最後に、根本的にこの裁判が異常であり、不当である理由を述べます。それは、この裁判そのものが「人間が神を裁いている」という点です。人間が神様を裁く。全く倒錯しています。これがこの裁判の最も根本的な問題なのであり、人間の罪とは何であるかということが、はっきり顕れているところなのです。

 さて、人々が為した偽証の中で、一つだけがここに記されています。58節「この男が、『わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる』と言うのを、わたしたちは聞きました。」これは偽証です。主イエスはこのようには言っていないのです。しかし、全くの偽証かというと、そうでもありません。ヨハネによる福音書2章19節に、主イエスが「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と言われたことが記されています。主イエスがここで言われた神殿とは、御自身の体のことでした。主イエスが十字架に架かって死に、三日目に復活される。それによって、人間と神様との間の新しい親しい交わりが与えられる。また、キリストの体としての教会が建てられる。そのことを言われたわけです。神殿とは、神様が御臨在され、そこにおいて人間と神様との交わりが与えられるところです。主イエスは、それが御自身の十字架・復活によって、新しいあり方となる。目に見える神殿ではなくて、キリストの体という教会によって与えられるようになると告げたわけです。

 しかし、人々はそうは聞かなかったのです。主イエスは自ら神殿を打ち倒すとは言っていないのです。そんなつもりもありませんでした。しかし、彼らにはそう聞こえたのです。彼らにしてみれば、神殿といえば、目の前にあるエルサレム神殿しか考えることができませんでした。だからそれを三日で建て直すとは、主イエスが奇跡によって、再び目に見える神殿を建てると言ったと受け止めたのです。当時のユダヤ社会は、このエルサレム神殿を中心とした社会でした。ですから、その神殿を立て直すことを主張する主イエスは、ユダヤ社会を破壊する者、ユダヤ社会に争乱を生み出す者でしかなかったのです。

 

 さて、次々と不利な偽証が為される中、主イエスは沈黙を守ります。61節「イエスは黙り続け何もお答えにならなかった」とある通りです。私たちは、この主イエスのお姿に、預言者イザヤがイザヤ書53章7節において預言した、苦難の僕を見るのです。イザヤはこう預言しました。「屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」まさに主イエスは、これから御自分の上に下される十字架の死を思い、これを受け入れ、覚悟の上で何もお答えにならなかったのでしょう。御自身を死刑にしようとしているこの人たちの罪を担って、代わって神様の裁きをお受けになるために、主イエスは黙って何も言われなかったのです。

 しかし、大祭司をはじめこの場にいたサンヘドリンのメンバーたちには、そのような主イエスのお心は分かりません。偽証する者を立てて証言させたけれども失敗し、罪状を定めることさえできない。大祭司たちの方が追い詰められ、焦っていたのかもしれません。大祭司は立ち上がり、真ん中に進み出て、自ら主イエスに尋ねました。「何も答えないのか、この者たちがお前に不利な証言をしているが、どうなのか。」それでも、主イエスは何もお答えになりません。

 遂に大祭司は核心に迫る問いを主イエスに投げかけました。「お前はほむべき方の子、メシアなのか。」「ほむべき方」というのは、神様と言うのをはばかって使う言葉です。なので、ここで大祭司は「お前は神の子、メシアなのか」と問うたということです。これに「はい」と答えれば、死刑になるに決まっています。主イエスも分かっていました。しかし、主イエスはこうお答えになったのです。

 62節「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」ここで「そうです」と訳されている言葉は、単に「そうです」と言われたのではないのです。これはギリシャ語で「エゴー、エイミ」という言葉ですが、英語で言えば「I am 」というだけの言葉です。しかしこれは、神様が自らを名乗る時に使われる言葉なのです。出エジプト記3章において、モーセが神様からの召命を受けます。この時のモーセと神様とのやり取りの中で、モーセが神様の名前を問います。その時神様は「わたしはある」と答えられたのです。これがギリシャ語に翻訳されると「エゴー、エイミ」となるのです。つまり主イエスは、「わたしは神である。あなたたちはわたしが全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」そう宣言されたということなのです。

 主イエスはこれまで、御自分が神の子、メシアであることをあからさまに言うことはなさいませんでした。弟子たちに語ることはあっても、「だれにも言ってはならない」と口止めしておられました。しかし今、このことを言えば死刑になる、それが分かりきった場面において、主イエスは自らが神の子、メシアであることを明言されたのです。

 なぜでしょうか。それは、主イエスは神の御子として十字架につく。救い主メシアとして十字架につく。そのことをはっきりさせるためでありました。主イエスは神の御子として、すべての者に罪の赦しを得させる救い主として、十字架にお架かりになるのです。ここは曖昧にすることができないことでした。これを曖昧にしてしまえば、主イエスが地上に来られ、数々の奇跡をなし、教えを語り、そして十字架に架かって死なれるということ、そのすべての意味が曖昧になってしまうからです。それはできないことでした。

 主イエスは十字架に架かり、三日目に復活し、四十日後に天に昇り、全能の父なる神様の右に座られます。そして、そこから再び来られて、生きている者と死んでいる者、すべてを裁かれる。これは、初代教会以来、キリスト教会が保持してきた信仰です。使徒信条において「十字架につけられ、死んで葬られ、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神様の右に座したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と告白されている通りです。そして、この主イエスに対する信仰は、主イエス御自身がここでお語りになり、約束なさったことに根拠を持っているのです。

 主イエスは今、どこにおられるでしょう。復活の体をもって、全能の父なる神様の右におられ、神様と共に世界のすべてを支配しておられます。私たちのために執り成してくださっています。私たちは今、その主イエスを信仰のまなざしをもって見上げ、拝んでいるのです。それが私たちの礼拝なのです。

 そして、その主イエスは、時が来れば再び天より下って来られるのです。その時、何が起きるのでしょうか。神様の裁きです。その時には、生きている者も、すでに地上の生涯を閉じた者も、例外なく裁かれるのです。神が、神の子が、私たちを裁くのです。この終末において、人間が神様を裁くという倒錯した不当な裁きは退けられ、神様による、神の御子による正当な裁き、まっとうな裁きが行われるのです。私たちはその日を待ち望み、その日に向かって、この地上の歩みをなしているのです。その歩みにおいて何より大切なことは、神様を神様とするということです。私たちを造り、私たちを支配され、私たちを導いてくださっているお方として、これを愛し、これを信頼し、これに従うのです。

 大祭司は、この主イエスの言葉を聞いて、衣を引き裂いて言いました。「これでもまだ証人が必要だろうか。諸君は冒瀆の言葉を聞いた。どう考えるか。」この大祭司の言葉を受けて、そこにいた最高法院の人々は、主イエスを死刑にすべきだと決議しました。このように、主イエスが十字架に架けられたのは、主イエスが自ら神の子、メシアであることを明言されたからです。主イエスは、神の御子として、メシアとして、十字架に架けられることになったのです。

 そして、主イエスの死刑が決められると、人々は主イエスに唾を吐きかけ、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、平手で打ちました。何ということでしょう。これが群集心理とでも言うべきものでしょうか。このようなことを、人は平気でするのです。自分より弱いと思ったら、その相手を寄ってたかって、やっつけるのです。ここにも私たちの罪の姿が顕わに現れています。しかし主イエスは、この時にもきっと黙っておられたことでしょう。私たちは自分がそのような弱さと醜さを宿していることを、自覚しなければなりません。そして、私たちが自らのこの罪に支配されることなく、神様の御支配の中に生きることができるように、ご一緒に祈りを合わせたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを感謝いたします。大祭司の館で主イエスが裁判を受けられた箇所を学びました。主を亡き者としようとする悪意が渦巻く中で、主イエスは自らが神であり、救い主として十字架の死を遂げることを明らかにされました。私たちは主イエスの献身によって罪赦され、復活の命に生きるものとされました。どうか、そのことをいつも思い起こすことができますよう、私たちを導いていてください。今週は水曜日から第75回日本キリスト教会大会が行われます。この教会会議の上に、あなたの恵みと祝福を注いでいてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン