祈りにおいてこそ知る喜び

マルコによる福音書1章29~39節 2023年7月9日(日)主日礼拝説教

牧師 藤田浩喜

◎木曜日にテレビを見ていましたら、「亀山リトリート」という看板が目に飛び込んできました。何でも最近は人込みを避けて、自然の豊かな場所でのんびり疲れを癒したり、キャンプをしたりするのが人気で、それがリトリートと呼ばれているとのことでした。その情報の紹介は他の場所についてものでしたので、「亀山リトリート」とはいったいどこだろうと気になりました。わたしは三重県の亀山市の生まれなので「もしや」と思ってググってみると、なんとそれは千葉県の君津市にあることが分かりました。「三重県の亀山じゃないんだ。でも千葉県の君津なら行ける!」近いうちにぜひ行ってみたいと思っています。

◎さて、今日読んでいただいた箇所の最後の方、35節を見ますと、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」と記されています。主イエスは日頃から毎朝、父なる神様に祈っておられたに違いありません。それは敬虔なユダヤ人の習慣でもありました。しかし、聖書を読むと、主イエスは時々人里離れた寂しい所へ行き、独り祈られることがありました。誰にも妨げられず、父なる神様と祈りの交わりを持たれたのです。

世々のキリスト教会は、この主イエスに倣って、日常生活の慌ただしさを避けて、自然の豊かな場所に行ってお祈りをしたり、黙想をして自分を見つめたりする時を大切にしてきました。それをキリスト教会も「リトリート」(退修・しりぞいておさめる)として大事にしてきたのです。今はなかなかできませんが、教会に集う人たちが自然の豊かな宿泊施設などに出かけて修養会を持つということがよく行われました。これもリトリートの一つであったのだと思います。

では、主イエスはなぜ、人里離れた所へ行って、静かに祈られたのでしょうか。ある聖書の注釈書は、「主イエスがそのような時と場所を要求する人間性をもっておられたからだ」と書いています。別の注釈者は、人里離れた所で祈られる「主イエスは完全な人間性を表わしている」と書いています。主イエスは私たちと同じ「真の人」として、リトリートの時を持たれたのです。いな、リトリートの時を持たずにはおられなかったのです。

思い出してみると、主イエスは宣教や病気の癒しなど、多くの業をなさった後で、寂しい所に退き祈られました。今日の箇所のような時がそれでしょう。33節にあるように、「町中の人が、(主イエスのおられた)家の戸口に集まって」来たので、主は色んな病気にかかっている大勢の人たちを癒され、悪霊を追い出されたりしたのです。また、主イエスは自分と一緒に福音宣教を担う12弟子を選んで派遣する時も祈られました。ゲッセマネの園で十字架の杯を受けるか否か、血の汗を滴らせて悩まれた時も一人祈られました。福音宣教を始められる前、荒れ野でサタン・悪魔の試みに遭われた時も、独りで祈られました。このように主イエスは「真の人」として、延々と続く御業に疲れたとき、大きな誘惑を受けた時、そして重大な決断をなそうとした時、力と導きを求めて神様に祈られたのです。そして、日頃の喧騒を離れて独り父なる神様と向き合うことは、主イエスがそうであるからには、どの人間にとっても必要なことなのです。「真の人」であるイエス・キリストが人生の節目節目でリトリートの時を必要とされたのですから、リトリートを必要としない人間など一人もいないのです。独り神さまの前に静まって、思いを神様に向けて祈り続ける。一生の中で、幾多の山や谷を通って行かなければならない私たちなのですから、日毎の祈りに加えて、独り一途に祈りに集中しなければならない時が私たちにはあるのです。

 ヘブライ人への手紙5章7節には、神と私たち人間を和解させる大祭司として仕えられた主イエスのことが記されています。主イエスは神と人間の仲立ちとなるために、「罪を犯されなったが、あらゆる点において、わたしたちと同様の試練に遭われたのです」(ヘブ4:15)。そのことが、5章7節で次のように記されているのです。新約聖書406頁です。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」

 「真の人」である主イエスがそうであったように、私たちも肉に生きている人間です。肉である私たちは、弱さと愚かさに苛(さいな)まれています。その現実の姿を嫌というほど見せつけられて、激しい叫びをあげること、涙を流さなくてはならないことが、幾度もあるのではないでしょうか。

 主イエスは、地上では「真の人」として生きられました。それは私たち人間がどのようにこの地上の生活を歩んで行くかの模範を示してくださったのです。主イエスは、人間の生活において、活動すること、休息すること、祈ることが、生活の本質的なリズムであることを例示されます。そこから考えると最近人気のリトリートには、祈ることが欠けているのではないでしょうか。そして主イエスは、私たち人間にとって、どのような時に、どのように祈るべきかも例示してくださいます。人には過重なストレスに押しつぶされそうになる時、強烈な誘惑に引きずられそうになる時があります。大きな決断を迫られて、身がすくんでしまいそうになる時があります。それは人生のピンチというべき時です。そうした時にこそ、主イエスがなさったように祈りに集中することが最善の方法なのです。日頃の慌ただしい生活からひと時離れて、父なる神様の御前にひざまずき、祈りの時を持つ。祈りは静かな祈りである必要はありません。激しい叫び声をあげ、涙を流しながらでもよい。思いの丈(たけ)を思いっきりぶつけたらよい。そのような一途で必死な祈りを、神様もまた真剣に真正面から受け留め、お聞き入れくださるのです。真の人である主イエスが、私たちの模範となってくださったのです。

◎さて、主イエスが人里離れた所へ出て行って祈らなくてはならなくなった事の始まりは、主イエスがシモンとアンデレの家で、ペトロの姑の熱病を治したことが始まりでした。このいやしのうわさや前週学んだ悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出したうわさが広まりました。その結果、町中の人が戸口に集まってきました。主イエスは彼らの求めに応じて、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやしたり、また多くの悪霊を追い出したりなさいました(34節)。

 主イエスは多くの力ある業をなさって、ひどく疲れておられたに違いありません。その疲れをいやし、父なる神様と聖霊によって新しい力をいただくために、主イエスは人里離れた所へ出て行かれ、祈っておられました。しかし、シモンたち4人の弟子たちは、そんな主イエスの大切な祈りの時を無視するかのように

主を探し出し、「みんなが探しています」と告げたのでした。弟子たちは、主イエスが多くの病人をいやしたり、悪霊を追い出されたりしたのを見て、驚き、興奮していたのではないでしょうか。自分たちが従う決心をした方が、次々に力ある御業をなされるのを見て、弟子である自分たちも何か特別な者になったかのように錯覚してしまったのではないでしょうか。4人の弟子たちは主イエスがなさった力ある業に心奪われてしまい、熱病に浮かされるように舞い上がってしまったのです。そのような弟子たちと対照的なのが、今日のペトロの姑なのです。

 ペトロの姑は熱病にかかり、床に就いていました。主イエスは彼女のそばに行き、手を取って起こされます。すると彼女の熱は去り、彼女は一同をもてなした、とあるのです。姑の熱病がどのような症状であったのかは記されていません。しかし「熱を出す」という言葉は、「火」・ファイヤーという言葉から来ています。なので単に熱があるという軽いものではなく、全身が燃えるような高熱に苦しめられていたのかもしれません。「熱中症」という病気があるように、高熱は時として人の命を脅かすことすらあるのです。

 また、今日の箇所での「熱病」は、この箇所を解き明かす説教において、体の病以上のこととして読み解かれてきました。ヒエロニムスという古代の教父は、紀元4世紀にエルサレムでなされた説教において、次のように語っています。「ああ、その方がわれわれの家に来て、中に入り、その命令によってわれわれの罪の熱病を癒してくださるように。なぜなら、われわれの誰もが熱病に苦しむからである…。」ヒエロニムスは、ここの熱病を肉体にとどまらない罪の熱病と受け取っているのです。また、J.H.ニューマンという牧師は有名な祈りの中で、次のように祈っています。「おお主よ、一日中われわれを守ってください。…人生の熱病がなくなり、われわれの仕事が終わるまで。」ニューマンも熱病が肉体の病であるだけでなく、われわれ人間を熱にうなされるような状態にしてしまう深刻な人生の事柄として捉えているのです。熱にうなされるような状態に陥って、正常な判断を失ってしまう。その結果、取り返しのつかないような致命的な状況へと自分を追い込んでしまう。そのような数々の熱病が、私たちの人生を取り囲んでいるのではないでしょうか。

 しかし、今日の31節で「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」とあります。このシモンの姑の出来事は、肉体の熱病の癒しにはとどまりません。この癒しは、あらゆる種類の熱病を癒す主イエス・キリストの力と権威を示しているのです。

 主によって熱病をいやされたシモンの姑は、その後どうしたでしょう。「彼女は一同をもてなした」とあります。ここで使われている言葉は、原語では「仕える、給仕をする、奉仕をする、世話をする」という意味を持っています。多くの聖書註解者は、食事などの給仕をしたと理解しており、おそらくそうであっただろうと思います。しかし、「彼女は一同をもてなした」というさりげない表現は、主イエスの癒しに対する姑の応答が、己を低くして仕えるという弟子の本来のあり方を示しているように思うのです。主イエス御自身が己を低くして僕のように私たちに仕えてくださいました。その主に倣って自らへりくだり、謙遜に仕えていくことが、主の御後に従うことなのです。あの4人の弟子たちのように、熱病に浮かされたように、舞い上がってしまうことではないのです。

 姑は主イエスに癒された感謝の応答として、自分にできることを精いっぱい行いました。心をこめて行いました。新約聖書に記された女性たちの奉仕は、主の十字架を見守ったこと、なきがらに香油を塗りに行ったこと、身の回りの世話をしたことなどです。その場でできることを、たとえささやかであっても献身的に行ったことが、印象的に記されています。そのことを通して聖書は、救われたことに対する精いっぱいの感謝の応答こそが、主イエスに仕える者として主の御後に従うことだということを、私たちに示しているように思うのです。そのことを私たちも、心に刻みたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹を教会に集め、共に礼拝を捧げることができましたことを、心から感謝いたします。神様、主イエスは真の人としてこの地上の歩みを全うされました。主イエスの歩みの中に、私たち人間が追い求めるべき生き方があります。主のなされた祈りの中に、私たちに与えられた祈りの恵みと喜びがあることを、私たちの心に刻ませてください。今重い病床にある姉妹を顧み、永遠の命を賜る希望をもって姉妹を支えていてください。生きる上での様々な悩みと苦しみを抱えている兄弟姉妹を、あなたが支えていてください。この拙きひと言のお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。