目を覚ましていなさい

マルコによる福音書13章28~37節 2025年7月27日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜

 主イエスは、御自身が十字架にお架かりになる直前に、世の終わり、終末について預言なさいました。マルコによる福音書13章全体がその預言を記していたのですが、その最後の所が今朝与えられている御言葉です。

 少し前に、世の終わりである大きな終末と、私たちの人生の終わりである小さな終末があるということをお話ししました。世の終わりである終末についてはあまりピンと来ない人でも、自分の人生に終わりがあるということは分かります。

この二つの終末、大きな終末と小さな終末には重なるところがあります。それは、この世界にしても、自分の人生にしても、それが閉じられることによって完全に終わってしまうのではないということです。大きな終末は、ここで主イエスが「人の子が戸口に近づいている」と言われたように、「人の子」つまり主イエス御自身が再び来られる。そのことによって、この目に見える世界は終わり、新しい世界、新天新地が来るわけです。それと同じように、小さな終末、私たちの人生は死をもって終わるのですけれど、それですべてが終わるのではないのです。死の向こうに、復活の命によみがえって主イエスと再びお会いするということがあるのです。このことを悟れと、私たちは言われているのです。

 

 では、悟ってどうするのでしょうか。それは、終わりが来ることを知っている者として生きよ、いつ終わりが来てもよいように備えて生きよ、ということです。この「終わりがいつ来てもよいように生きる」、それが「目を覚ましている」ということなのです。

 主イエスは32節で「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである」と言われました。大きな終末がいつ来るのかは、主イエスも天使たちも知らないのです。天地を造られた父なる神様しか知りません。いつの時代にも、「○年○月に世の終わりが来る」と言って不安をあおる人々がいます。しかし主イエスは、「わたしも天使たちも知らない」と言われたのです。それゆえ、いつ終わりが来るかを知っていると言う人は、自分は主イエスよりも知恵があると言っているのと同じです。これはあり得ないことでしょう

 主イエスはここで、終末がいつ来るのかは分からないと言われたのですが、分からないから備えていなければならないということなのです。主イエスがこのことを告げられて2000年経つけれど、まだ「終わりの日」は来ていないではないか。だったら、自分の目の黒いうちには来ないだろう。そう思う人も多いかもしれません。しかし、たとえそうであっても、私たち一人一人にやがて来る小さな終末から逃れられる人は誰もいないのです。そして、それはいつやって来るか分からない。私は怖がらせているのではありません。主イエスも私たちを恐れさせようとされたのではないのです。そうではなくて、終わりが来ることを知らない者のように、ただ面白おかしく生きればよいということではダメだ。そしてまた、終わりが来るのだから何をやっても無駄だと、すべてを諦めて生きるのでもない。主イエスが再び来ることによって来る終わり、新しい世界の創造、そして自分の人生の終わり、主イエスの御前に立つその日が来ることを知っている者は、第三の道を歩むのだ。それが「目を覚まして生きる」ということなのです。

 「目を覚ましていなさい」ということを、33節、35節、37節で、主イエスは繰り返しお語りになりましたけれど、その前に31節で、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と告げられました。天地は滅びる。それがいつ来るのかは分からない。でも心配することはない。なぜなら、主イエスがお語りになった言葉、救いの約束、それは決して滅びないからです。それはこの世界が終わる時、主イエスが再び来られて世界を新しくされるという約束です。この地上での生涯を閉じた者が、その時主イエスの御前に復活させられるという約束です。その約束は確かなことだから、「目を覚まして生きよ」と言われたのです。

この「目を覚まして生きる」というあり方を、主イエスは34節で、「家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」と言われました。このたとえにおいて、「僕たち」とは私たちのことです。「家を後に旅に出る人」とは主イエスのことでしょう。

 主イエスはこのことを教えた数日後に、十字架にお架かりになるのです。もちろん主イエスは、十字架にお架かりになって終わったのではありません。三日目に復活され、40日にわたってその復活の姿を弟子たちに現されました。そして、天に昇って行かれました。今は天の父なる神様の右におられ、この世界を支配しておられます。しかし、私たちはこの目で主イエスを見ることはできません。その意味で十字架にお架かりになられる主イエスは、僕たちを残して旅に出るようなものなのです。そして主イエスは、この地上に残される弟子たちに仕事を与え、再び御自身が来られる時まで「目を覚ましているように」と言われたのです。

 主イエスは旅に出たのですから、必ず戻って来られるのです。それが主イエスの再臨です。もう戻って来られないのであれば、僕たちは待つ必要はありません。目を覚ましている必要は無いのです。しかし、主イエスは来られるのです。だから、私たちは目を覚まして待っていなければならないのです。

 この「目を覚ましているように」と告げられた門番の仕事、目を覚ましてし続けなければならない仕事、責任とは何でしょうか。ここには具体的には記してありませんが、幾つも考えることができるでしょう。三つのことを考えてみます。

 第一に思わされますことは、この「目を覚ましていなさい。」と主イエスが言われたもう一つのとても有名な場面、それは14章32節からのゲツセマネの祈りの場面です。この時、主イエスは御自身の十字架の死を目前にして本当に必死に祈られたのですが、その時ペトロたちは眠りこけてしまったのです。しかも、何度主イエスに起こされても眠ってしまう。実に三回も眠りこけてしまったのです。その弟子たちに主イエスが言われたのが、「目を覚まして祈っていなさい」という言葉でした。

 この出来事はペトロとヨハネとヤコブしか知らない出来事ですから、彼らが黙っていればこのように聖書に記されることはなかったでしょう。しかし、この様に聖書に記されているということは、彼らが自分でこの出来事を話したということです。私は、彼らが何度もこの話をしたのではないかと思います。「私たちは、イエス様が十字架にお架かりなる前の日に必死で祈っておられたのに、眠りこけてしまった。イエス様は『目を覚まして祈っていなさい』と言われた。だから、もう眠りこけることなく、私たちは祈りつつ歩んでいくのです。」そのように話したのではないでしょうか。

 このことを考えますと、「目を覚まして生きる」ということは、祈る者として生きる、祈りを忘れずに生きる、ということになるのではないかと思います。終わりが来る。しかしそれは、主イエスが再び来られるというあり方で来るのです。ですから、いつ主イエスが来られてもよいように、主イエスの御前に生きる。それは祈る者として生きる、祈りつつ生きるということでありましょう。

 第二に、ここで主イエスは、弟子たちつまり私たちを門番にたとえられているのです。門番とは、主人の家を守るために立っている者でしょう。もちろん、一人の門番がずっと寝ないで起きているというわけにはいきません。現代で言えば、三交代制ということだったのかもしれません。この主人の家とは、主イエスの家ですから教会のことでありましょう。ですからこれは、教会を守る、主イエスの教え、主イエスの救い、それを盗まれないように、つまり間違ったものに変えられないように守るというようにも読めるでしょう。そして、そのように使徒以来の信仰を守っていくという責任・使命というものは、一人の門番だけに課せられている責任ではありません。僕全員、つまり教会全体に課せられている使命であり、責任なのです。

 第三に、主イエスは一番大切な教えとして、神様を愛することと隣人を愛することを教えてくださいました。ですから、この「目を覚まして生きる」ということは、愛に生きることなのだとも言えるでしょう。神様に愛され、神様を愛する。隣人を愛し、隣人に仕える。この愛に生きることこそ、目を覚まして生きる者の姿なのだと言ってもよいと思います。山に籠もって大変な修行をすることなど、主イエスは私たちにお求めになったりはしません。そうではなくて、日常の、目の前にいる一人一人に心を遣い、時間を使い、体を使うことです。愛に生きるということは、仕える者として生きるということです。自分の目の前にいる人を愛し、これに仕えるということです。

 祈って、教会を守り、愛に生きる。それが終わりの来ることを知った者としての、私たちの責任・使命であり、「目を覚まして生きる」ということなのです。

 私たちは、毎週ここに集まって主の日の礼拝を守っています。この礼拝を守る中に、祈って、教会を守り、愛に生きる私たちの具体的な姿があります。祈りつつ生きる、教会を守る、愛に生きるということの扇の要の位置にあるのが、この主の日の礼拝なのです。主の日の礼拝を守ることによって、私たちは「祈って、教会を守り、愛に生きる者」として整えられ、押し出されていくのです。

 言い換えますと、私たちは主の日のたびごとにここに集まって、終わりの日への備えをしている、いつ終わってもよいための備えをしているということなのです。この礼拝において、私たちは主イエスの御言葉、主イエスが与えてくださった救いの約束が確かなものであることを心に刻み、その御言葉を信頼して、新しい一週へと歩み出していくのです。この礼拝において、私たちは祈る者としての姿勢を正され、主イエスの教えを聞き、愛に生きる者としての志を新たにされるのです。今朝、「目を覚ましていなさい」と主イエスは私たち一人一人に告げられました。この主イエスの御言葉が私たち一人一人の心に宿り、私たちの一足一足の歩みを導いてくださることを、心から祈り願っていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。主イエスは「目を覚ましていなさい」と私たちに語られます。それは再臨の主が、いつこの世界に戻られてもよいようにということです。その日は大いなる喜びの日です。どうか、その日を待ち望みつつ、祈り続け、教会を守り、愛に生きることができますよう、私たちひとりひとりを強めていてください。

猛暑の日々が続いています。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。熱中症などの危険からお守りください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名によってお捧げいたします。アーメン。