永遠の中に生まれた者

マルコによる福音書14章27~31節  2025年9月7日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 私たちは信仰の歩みにおいて、つまずくということがあります。必ずあります。大きなつまずき、小さなつまずき、人それぞれいろいろあるでしょうが、「私はつまずいたことはない」と言い切れる信仰者は一人もいないでしょう。何につまずくのか。それも人それぞれでしょう。

 つまずくというのはどういうことでしょう。そこにあるとは思ってもいなかった石につまずく。石があるのは分かっていたけれど、それを避けたつもりで避けきれずにつまずく。階段は終わったと思ったら、もう一段あってつまずく。足を上げたつもりだったのに、十分に上がっていなくて段差につまずく。つまずくというのは大体そういうことでしょう。

 信仰においてつまずくというのも、そういうことです。こうなると思っていたのにそうならない。あるいは、思ってもいなかった出来事に遭ってしまう。例えば、キリスト者になれば、真面目にキリスト者として生活していれば、神様が良くしてくれると思う。ところが、とんでもないことが起こる。本当に神様は自分を愛してくれているのか、守ってくれているのか、分からなくなる。この場合、神様につまずいているわけです。これはなかなか深刻です。あるいは、人につまずくということもあるでしょう。あの人にこう言われた。あれでもクリスチャンか。クリスチャンなんて、牧師なんて、教会なんて、信じられない。そういうこともあるでしょう。これは人につまずいているわけです。これもなかなか深刻です。あるいは、自分はよい人だと思っていたけれど、自分の一言で人をひどく傷つけてしまったことに気づかされる。自分は何と愛の無い人間かと思わされる。イエス様を信じてもちっとも変わらない。これは自分につまずいたわけです。  

 このように、神様につまずく、人につまずく、自分につまずく、いろいろなつまずき方がある。しかし、共通しているのは、神様はこういう方だ。教会とは、牧師とは、キリスト者とはこういうものだ。あるいは、自分はこういう人間だ。そのような自分の考え、理解の仕方、思い込みと言ってもよいのかもしれませんが、それが崩れる、崩される。そこでつまずくということが起きるのだろうと思います。自分の思いが裏切られる、破られる、崩される。これはとても辛いことではあるのですが、私たちの信仰の歩みにおいては、必ず起きることなのです。

 どうして、そのようなことになってしまうのでしょうか。私たちは誰だってつまずきたくない。信仰のつまずきなど知らずに、天の御国へと真っ直ぐ歩んでいきたい。そう思っています。にもかかわらず、必ずつまずきは起きる。どうしてでしょうか。

 それは、この自分の思い、考え、見通し、そのようなものの根っこに、自分を頼る、自分を誇るということがあるからなのです。キリスト教の信仰は、ただ神様を頼るということですから、この自分を頼り自分を誇るという心は、打ち砕かれていかなければなりません。その打ち砕かれる時に避けられないのが、つまずきということなのではないでしょうか。打ち砕かれたくない私が抵抗する。正しいのは私だという所に立ち続けようとする。そこでつまずくのです。その意味では、つまずくということは、私たちの信仰の成長においてはどうしても必要なこと、とても大切なことなのだとも言えるのです。このつまずきの時にどうするのか。信仰を捨てるのか、祈るのをやめるのか、教会に来るのをやめるのか、聖書を読むのをやめるのか。それとも、そのつまずきの中でなお聖書を読み、祈り、礼拝に集い、奉仕を続けるのか。このどちらの歩みをするかで、私たちの信仰の成長は全く違ったものになるのです。つまずきの時こそ、特別な成長の時、気づきの時、恵みの時なのです。その時にこそ、私たちは自分が何者であり、主イエスはどういうお方なのか、福音とは何か、そのことがはっきり示されるからです。

 今朝与えられた御言葉において、主イエスは弟子たちに「あなたがたは皆わたしにつまずく」と言われました。ちょうど、過越の食事を終え、ゲツセマネの園に向かわれる途中のことです。このゲツセマネの園で主イエスは祈られ、その祈りが終わると、ユダの裏切りによって捕らえられてしまいます。弟子たちと一緒にいるのはあと数時間。主イエスはもう、十字架への歩みを始めておられます。その緊迫した時の流れの中で、主イエスが弟子たちに言われた言葉です。少し前に過越の食事の席で、主イエスは弟子の一人がわたしを裏切ろうとしていると告げられたばかりです。そして今度は「あなたがたのうちの一人」ではなく、「あなたがたは皆」です。弟子たちはみな、わたしにつまずくと告げられたのです。例外はないのです。

 そして、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」と言われました。これはゼカリヤ書13章7節の引用ですけれど、主イエスがここで言おうとされたことははっきりしています。「羊飼い」は主イエスでしょう。「羊」は弟子たちのことです。とすれば、「わたし」とは父なる神様ということになります。つまり、神様が主イエスを打つ。十字架にお架けになる。すると、弟子たちは散ってしまう。主イエスを見捨てて逃げてしまう。そう告げられたのです。主イエスは御自身が十字架にお架かりになった後、何が起きるのか、正確にお語りになったのです。そして実際、その通りになりました。

 これを聞いたペトロは、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と明言します。この時のペトロは本気でそう思っていたでしょう。口から出まかせに言ったのではないと思います。しかし、主イエスはそのペトロの言葉を受けて、30節「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」と告げられました。とても具体的です。ペトロは自分の言葉が、主イエスに信用されていないと思ったのでしょう。ですから、さらに力を込めて主イエスに言います。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません。」そして、他の弟子たちもペトロと同じように言ったのです。

 私たちはこの話の結末を知っています。ペトロは主イエスの予告通り、主イエスが大祭司のもとで裁かれている時、大祭司の中庭において、主イエスを「知らない」と、三度主イエスとの関係を否定したのです。そして、鶏が鳴きました。何もかも、主イエスがお語りになったとおりでした。

 主イエスはどうしてこの時、弟子たちがみな散ってしまうこと、そして、鶏が二度鳴く前にペトロが三度自分を知らないと言うことを告げたのでしょうか。理由ははっきりしていると思います。ペトロが、そして弟子たちが自分につまずき自分を捨てて逃げてしまうことを主イエスは御存知でした。けれども、そのつまずきを彼らの信仰の気づきの時とするため、ペトロや弟子たちの信仰を、失わせないようにするためだったのです。

 これほどはっきり予告されたので、ペトロは、この主イエスの言葉を忘れることはありませんでした。そして、主イエスを三度知らないと言ってしまった時、何もかもが主イエスの言われたとおりであったことを知ります。自分の弱さ、不甲斐なさを、主イエスは全て御存知であったと気づくのです。自分は知らなかった。しかし、主イエスは御存知であった。そのことを知るのです。

 そして、主イエスはこの時十字架を語ると同時に、28節で「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と告げています。十字架の死の後、三日目に復活する。そして、ガリラヤに行く。ここで主イエスは「あなたがたより先に」と言われました。それは、文字通り弟子たちよりも早くガリラヤに行くという意味と、「先頭に立って」という意味とに読むことができます。

 主イエスの十字架を見た弟子たちは、もうこれですべてが終わったと思ったでしょう。また、自分は主イエスを裏切ってしまったという自責の念を持ったことでしょう。弟子たちは主イエスの十字架につまずいたのです。しかも、自分は決して裏切らない、つまずかないと言っていたのに、あっさりと裏切ってしまった。そのような弟子たちに、復活された主イエスはその御姿を現されたのでした。そして、復活された主イエスは、彼らを再び弟子として召し出されたのです。復活された主イエスは、自分を見捨てて逃げ去った弟子たちに対して、恨み言一つ言われませんでした。それどころかこの弟子たちに、全世界に出て行って福音を宣べ伝えることをお命じになったのです。そして、御自身がその先頭に立って行かれると告げられたのです。

 弟子たちが主イエスに伝えるように命じられた福音とは何でしょうか。主イエスを信じて、頑張って主イエスに従いましょう。そして救いに与りましょうということでしょうか。それは、十字架の前までペトロが持っていた信仰のあり方です。他の誰がつまずいても私はつまずかない。たとえ一緒に死ぬようなことになっても裏切らない。ペトロは本気でそう思っていました。そうすることが信仰者の道であり、主イエスの弟子たる者の姿だと思っていました。しかし、彼はそうできなかったのです。

主イエスはそのことを百も承知で、自分を弟子として召し出してくださっていた。しかも、そのような私を、再び弟子として召し出してくださった。この主イエスの赦しと召しこそが福音なのです。「主イエスの十字架は、主を三度知らないと言ったこの私のために、私に代わって、私の罪の裁きをお受けになるためであった」。そのことをペトロは知りました。ペトロも他の弟子たちも、自分の中に救いに値するものなど何も無いことを知らされました。自分は立派な信仰者ではないことを徹底的に知らされました。そして同時に、そのような自分がなお神様に赦され、愛され、召されている。救われている。そのことを知ったのです。

これが福音です。ペトロも他の弟子たちも、この時主イエスにつまずいたから、主イエスが与えてくださる救いが何であるか、福音とは何であるかということが分かったのです。信仰深いとか信仰熱心であるということは、よいことであるに違いありません。しかし、私たちの信仰深さや熱心などと言ったところで、そんなものは実に頼りないものでしかないのです。主イエスはそんなことはすべて承知の上で、私たちを召し出してくださったのです。そして、私たちに先立って進み行かれるのです。

 弟子たちは、神様に対するイメージも、主イエスに対するイメージも、すべて十字架で砕かれたのです。自分は漁師という仕事も捨てて主イエスに従ってきた。主イエスを裏切ることなんて絶対に無い。そう思っていた自分に対するイメージまでも粉々に砕かれたのです。そして、福音を知ったのです。まことの神様と出会ったのです。復活の主イエスと出会ったのです。

 自分に自信のある人は、信仰の歩みにおいてその自信を砕かれることを必ず経験します。牧師も同じことです。何度も何度も経験します。それは、何度砕かれてもこの自分への自信というものは、その度に頭をもたげてしまうからです。実に手強い、実にしつこいのです。それが私たちの罪というものなのです。神様を信頼するのではなくて、自分の能力、見通し、経験というものに頼る。何度砕かれても、この不信仰が頭をもたげてくるのです。神様はこの不信仰を、まことに深い愛をもって打ち砕いてくださるのです。そして、そこに起きるのがつまずきです。だから、私たちは必ずつまずくのです。何度でもつまずくのです。

 しかし、つまずきの中で神様の愛と真実は私たちを離れているのではありません。そうではなく、その時にこそ、神様の愛と真実とは私たちに豊かに注がれているのです。傷つくことによってしか気づくことができない愚かな私たちのために、神様はつまずきをも与えてくださるのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を褒め称えます。今日も愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、心から感謝いたします。神様、私たちは信仰生活においてつまずくことがあります。しかしそれは私たちを、あなたに真実に依り頼む者とするための、大切な成長の機会であることを示されました。つまずきを経験した時にこそ、私たちが祈り、聖書を読み、あなたの御心を問い続けることができますよう、弱い私たちを強め導いていてください。9月に入りましたが、まだ厳しい残暑の日々が続いています。どうか、兄弟姉妹の心身の健康を支え、この季節を乗り切ることができますよう、導いていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。

【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン