水を運ぶという人生

ヨハネによる福音書2章1~11節 2025年1月26日(日) 主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 日本でもそうかもしれませんが、婚礼というのは、家と家とのお祝い事でもありました。この時代のユダヤにおいてもそうであり、家と家との祝い事として婚礼が行われたのです。その婚礼には小さな村ですと、村中の人が集まってきました。調べてみますと、婚礼の宴というのは、当時、この地方では数日にわたって行われたとも書いてありました。ある場合には、おそらく家が傾くほどの出費を覚悟しなければならなかったと思います。

 その婚宴の席で、ぶどう酒がなくなってしまいました。花婿の家にとっては一大事です。面目が失われるような出来事と言ってもよいでしょう。おそらく台所の近くにいたマリアは、そのことを知らされて、主イエスのもとに伝えたというのです。こう言われています。

 「母がイエスに、『ぶどう酒がなくなりました』と言った。」(3節)

 これは単にぶどう酒がなくなったという事実を報告したという話では、おそらくないでしょう。イエス・キリストに対する願い、嘆願、あるいは祈りと言ってもいいかも知れません。そういうものが、この言葉には含まれていたと思います。ぶどう酒がなくなる。せっかくの楽しいお祝いの席でぶどう酒が切れてしまう。

 それはある意味で、私たちの人生に似ていると思います。若さとか力とかあるいは意欲とか、ある場合には美しさとか、そういうものを自分の中に持って、その勢いで、自分の持っているものによって道を突破していく。そういう時が人生にはあると思います。しかし、次第にその気力も体力もあるいは美しさも尽きてくる。弱ってくる。突破できなくなる。今までは気力でもって突破できたいろいろな問題が、分厚い壁になってくる。そしてそこに体をぶつけていったら、こちらが傷ついてしまう。みんなそういう地点に立つわけです。行き止まりの場所があるのです。これはまさに、現在の私たちキリスト教会の姿でもあります。どんどん進む高齢化と教勢減少の中で、かつてのような勢いを失い、これ以上は前に進めない閉そく感を覚えているのではないでしょうか。

 ぶどう酒はなくなりました。先ほども言いましたように、これはマリアの祈りです。そして花婿、花嫁の両家の困っている状況が、このマリアの背後にはあります。喜びや賑わいのこのお祝いの席でぶどう酒がなくなってしまうと、いっぺんに空気が冷えてしまう。これは切実な祈りです。

 しかし主イエスの答えはこうでした。「『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』」。(4節)

 ずっと長い間、私もこの言葉につまずきました。なんてつれない言葉だろうと思ったのです。しかしこれは、母と子の肉親の情によってキリストが応えられるということではない、ということを言われたのだと思います。「情に流される」という言葉がありますが、主イエスはそういう形ではマリアの願いにお応えにならない。そういう意味が込められているのではないかと思います。

 そしてこう言われました。「わたしの時はまだ来ていません。」イエス・キリストの時があるのです。イエス・キリストが応えられる時があるのです。マリアが願う時ではなく、あるいは私たちが願う時ではなく、イエス・キリストの時があるのです。だからマリアは拒絶されたとは思いませんでした。マリアは備えました。聖書にはこう書いてあります。

「しかし、母は召し使いたちに、『この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください』と言った。」(5節)

 これは、マリアがイエス・キリストの時を信じて待つ姿勢です。彼女の思うとおりには応えられないけれども、イエス・キリストの時を信じて待つ姿勢です。その時を信じるからこそ、彼女は備えて待つのです。

 ここで私たちは、祈りということについて考えさせられます。祈る人というのは、待っている人のことなのです。祈った人は前に向かうのです。前方を見るのです。そして、備える。信仰というのは、もちろん神さまを信じることです。しかし、神を信じるということは、神さまがどこかにおられるということを信じることではありません。信じる者は神に向かって祈るのです。自分自身を神に向けて投げかけるのです。いろいろな問題をかかえた自分、重荷を負った自分、あるいは行き詰っている自分を、神に投げかけながら生きる。それが神を信じる者の生き方です。

 キリストは救い主として私たちを受け止め、そして応えてくださる。「わたしの時はまだ来ていません」。ここに書かれていることは、「救い主の時がある」ということです。私たちの願う時ではないけれど、イエス・キリストが準備してくださる時がある。私の願う時というのは、たいてい〈今、すぐ〉です。すぐ応えてくださらないといけないと私たちは考える。しかし、イエス・キリストの時、救い主の時がある。これはなんと深い慰めでしょうか。私の思うよりもはるかに良い時、私にとって最もふさわしい時、その時を救い主は備えてくださり、その時に応えてくださるのです。

 私たちの生きている現実の前にも壁があります。壁はこちらから破ることはできません。先ほど言いました。こちらから何とかして破ろうとしたら、こちらが傷ついてしまう。向こうから破っていただくのです。向こう側から、救い主の方から破っていただいて前に進む。イエス・キリストは言われました。「求めよ、そうすれば与えられる。門をたたけ、そうすれば開かれる」。求めるというのは、ただ欲しいと思うだけではありません。祈ることです。そして私たちは神の門をたたきます。門を向こう側から開いていただけるのです。向こう側から、私たちには開けないと思った扉を、一つひとつ開いていただきながら、私たちは前に向かって歩いていきます。それが信仰によって生きるということです。私たちの教会の歩みも、そのようにして道が開かれ、導かれていくのです。祈りつつ、扉を開かれ、前に進ませていただくことができるのです。

 「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレス入りのものである。イエスが、『水がめに水をいっぱい入れなさい』と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。」(6~7節)

 大きな石の水がめです。清めに用いるのです。ユダヤ人たちは、外に出たら汚れる。だから手を洗います。外で汚れてきた汚れを落とすという意味があったのです。だから多量の水が清めのためにあったのです。水を汲むためには、村の真ん中にある井戸まで召し使いたちは歩いていかなければなりません。

 村というのは、たいていは井戸があって、その周りに小さな村ができるのです。ですから、水を汲みなさいと言われたら、井戸まで何回も往復しないといけません。僕たちはそうやって、何度も井戸のところまで往復いたしました。彼らは黙って水を運びました。なぜ水を運ばなければならないのか、おそらく彼らにはわからなかったのです。何でこんなことをしているのだろうと思ったと思います。しかし、わかりませんでしたけれども、彼らは黙って運びました。そしてその水がめに運んだ水を、宴会の世話役のところに持っていきなさいと言われたので、彼らはそれを世話役のところに持っていきました。

こう書いてあります。

 「イエスは、『さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい』と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。『だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました』。」(8~10節)

 良いぶどう酒がどこから来たのか、世話役にはわかりませんでした。しかし、水を汲んだ召し使いたちは知っていたと書かれています。召し使いたちは自分たちがどうして水を運ばなければならないのか、その時には訳がわかりませんでした。何でこんな重たい物を運ぶのか。もしイエス・キリストにぶどう酒を運ぶように言われたのであれば、彼らは喜んで運んだと思います。しかし、なぜ水を運ばなければならないかわかりませんでした。ただ、自分たちにはわからないけれども、主イエスはその訳を知っていてくださる。それを彼らは信じたのです。この重い荷物の意味を知っていてくださる方がいる。それを信じた。信じたから、彼らは黙って、黙々と運んだのです。

 今の自分にはわからないのです。けれども、この意味を知っていてくださる方がいる。信じるということはそういうことです。何もかも訳がわかって、私たちは生きているのではありません。訳がわからないことはいっぱいある。ことに、思いがけない荷を自分が負わなければならないとき、ドサッと何かが自分の肩にかぶさってきたとき、私たちはだれもが「なぜ」と思います。そして、「なぜ自分が」と思います。しかし、その時にも私たちは信じるのです。今、その意味は自分にはわからないけれども、その意味を知っていてくださる方がいる。そのことを信じるのです。信じるから、私たちは水を運ぶのです。黙って、耐えて、水を運ぶのです。

 この水は最上のぶどう酒になっていました。私たちの運んでいる重たい水。それはどこかで、ぶどう酒に変えていただく水なのです。悩みながら、そして苦しみながら運ぶその水が、そっくりぶどう酒に変えられるのです。変えていただけるのです。そういう水を私たちは、今運んでいるのだということを忘れてはなりません。

世話役は言いました。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」初めは良い、しかしだんだん味が薄くなる。それは多くの人の考えている人生観です。みんなそう思って生きています。しかし、救い主イエス・キリストにある人生というのは、そうではありません。最後に一番良いぶどう酒に変えていただける。それは私たちに与えられている約束です。すべての労苦がひっくり返って、最上のぶどう酒になる。その時を、私たち一人ひとりのために備えていてくださる方がいる。その方に向けて、その時に向けて、私たちは歩いているのです。

私たちの教会の将来を考える時、人間的に見れば、明るい材料は見当たりません。だんだん衰えていく、力を失っていくようにしか見えません。しかし私たちは、あまりにもこの「人間的に見れば」ということに、囚われすぎてはいないでしょうか。伝道は神の御業です、教会の将来は神の御手の中にあります。主イエス・キリストが、私たちの教会を導いておられます。イエス・キリストのために傾けられた労苦が、無駄になることは決してありません。そして主は、最上のぶどう酒を準備していてくださる。最上のぶどう酒に変えていただけるこの道を、みんなそれぞれに歩ませていただいているのです。約束に満ちた道を、みんな歩ませていただいているのです。私たちはそのことを心から喜び確信しながら、今日の定期総会を始めていきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの御名を心から讃美いたします。御言葉を通して私たちは、主イエス・キリストがご存じであるということを教えられました。水がめを満たすためにただ水を運んでいるとしか思えないような時も、わたしたちの人生はあなたのご計画の中で、あなたの貴いご用のために用いられています。どうか、そのようなあなたへの深い信頼の中で、信仰者として生きるわたしたちであらしてください。今日礼拝後もたれます今年の定期総会の上に、あなたのよき導きと祝福を与えていてください。群れの中で病床にある者、様々な困難にある者を、あなたたが支え顧みていてください。このひと言の切なるお祈りを、イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。