柔らかな心に生きる

マルコによる福音書10章13~16節 2025年1月12日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 主イエスとその一行は、エルサレムを目指して旅を続けられていましたが、その途中ペレヤ地方に入って行かれました。そこでも主イエスは、集まって来る人々に神の国の福音を宣べ伝えられました。また助けを求める多くの人たちのために、力ある業をなさっておられました。

 その時のことです。主「イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た」のです。「人々」とあるのは、子どもたちの親かあるいは親戚であったでしょう。「子供たち」というのは、幅広い年齢を指す言葉ですが、ルカによる福音書の並行個所には「乳飲み子までも」とあるので、乳児か幼児ぐらいの子どもたちであったのでしょう。

 いつの時代も親は、子どもたちの将来に「幸(さち)多かれ」と祈ります。そして子どもたちの将来を少しでも不安のない確かなものとするために、寺社仏閣に詣でたり、徳の高い宗教者から祝福を受けたりすることを願います。それは主イエスの時代も同じであり、親たちは偉大なお方である主イエスが来られたと聞いて、自分の子どもたちを主のもとに連れてきたのです。

 ところが、主イエスの「弟子たちはこの人々を叱った」とあります。手をおいてもらおうと子どもたちを連れてきた親たちを、厳しく叱責したのです。それはなぜであったでしょう。主イエスはこの地においても、多忙を極めておられました。集まって来る群衆に神の国の福音を宣べ伝え、主に助けを求める大勢の人々に癒しの業をなさっておられました。弟子たちはそのような主イエスを、子どものことで煩わせてはいけないと思って、叱責したのかも知れません。

 あるいは弟子たちは、自己本位な御利益だけを求める親たちの姿を許しがたいと思ったのかも知れません。子どもたちを連れてきた親たちは、神の国の福音を聞こうとやって来たのではありませんでした。主イエスに救いを求めて、ここに来たわけではありませんでした。自分の子どもに少しでも主イエスの御利益があるように、それだけを求めてやって来ました。弟子たちはそのような親たちが、主イエスを真剣に求める人たちへの伝道には邪魔になるだけだと考えて、彼らを押し止めようとしたのではないでしょうか。弟子たちなりの配慮と真剣さからそうしたのではないかと思うのです。

 ところが、主イエスはどうなさったでしょう。14節にはこのようにあります。「しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。』」主イエスは、親たちではなく、弟子たちに対して「憤られた」と言うのです。この「憤られた」という言葉は、マタイやルカの並行個所には見られず、マルコだけに使われている言葉です。弟子たちなりの配慮や真剣さを考えると、主イエスが急に「憤られた」というのは、奇異な感じすらします。しかし、「憤られた」ということの中に、主イエスの断じて譲ることのできない御心が、強く表わされているように思うのです。

 主イエスは、「神の国はこのような者たちのものである」と言われています。これは、神の国にはだれが招かれているかという問いに、置き換えることができます。「神の国には、子どもたちのような者たちが招かれている」と言うのです。

 子どもたちは、いつの時代にも親にとっては欠けがいのない存在です。しかし社会の中では、本当には大切にされていません。大人中心の社会の中では、たえず周辺に置かれ、軽んじられているのではないでしょうか。 ゲーム機やケイタイ、サブスクの購買者として、あるいは子育てや教育に関わる様々なサービスの対象としては、大事にされているかも知れません。大事なお客さんです。しかし、大人社会の勝手な都合や利害によって、利用され搾取される存在であるのです。

 今日の弟子たちにとっても、子どもたちは神の国、神の救いからいちばん遠い存在であったに違いありません。弟子たちはメシアである主イエスに仕える自分たちが、神の国にいちばん近いと考えていました。その彼らの外には、主イエスに救いを求めて集まって来た群衆がいる。その外には自分の救いには無関心で子どもの御利益のためだけに集まって来ている親たちがいる。そして何も分からず、ただ連れてこられた子どもたちは、神の国から最も遠いところにいるというのが、弟子たちの認識だったのではないでしょうか。

 しかし主イエスは、最も遠くにあると思われていた者、周辺に追いやられていた者、子どもたちのような者たちが、神の国には招かれていると言われています。神は誰よりも先に、それらの者を御国へと招かれます。それはクリスマスのメッセージでした。神が真っ先に招いておられる者たちを、人間が自分の思慮や判断で妨げてはならない。神の御心を妨げてはならない。主イエスは、彼らのしようとしたことが、神の御心を妨げることであったがゆえに、「憤られた」のです。

かつてフィリポ・カイザリアで、受難予告をされた主イエスを、弟子のペトロがいさめようとしたことがありました。そのとき主イエスは、「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロを厳しく叱責されました。それと同じような憤りを、ここにも見る思いがするのです。また主イエスは、徴税人や罪人と食事を共にしていたとき、それを批判するファリサイ派の人たちに対して、こう言われました。「『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。…わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』」(マタイ9章12~13節)。救いから最も遠いと見なされていた者、周辺に押しやられている者が真っ先に招かれている。それゆえに主イエスは、「妨げてはならない!」と厳しく言われたのです。

 しかし、どうして主イエスは、そのように断言されたのでしょう。なぜ、救いから最も遠いと見なされていた者、周辺に押しやられている者が、真っ先に神の国に招かれているのでしょう。主イエスは、私たちの疑問に答えるかのように、次のように言われるのです。15節「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」主イエスは、神の国に入ることのできる要件は「子供のようになること」だ、と教えておられるのです。

 そこではもちろん、子ども、特に幼な子のもつ純真さとか汚れのなさとかが言われているのではありません。子どもと関わった経験のある人なら、だれでも知っているように、子どもはいつも純真であるわけではなく、汚れがないわけでもありません。そうではなく、ここでは親や世話をしてくれる大人にすべてを委ねきっている子どもたちのあり方に、光が当てられています。幼い子どもは、本能的と言ってもよいほど、親に頼り切っていいます。そして頼り切っているがゆえに、安心しきって、今日という日を力いっぱい生きています。そのような子どもたちの有り様が、私たちのお手本なのです。この子どもたちのように、父なる神にすべてを委ねきっていることが、神の国に入ることの要件なのです。

 幼稚園の子どもたちなどを見ていると感じますが、小さい子どもにとっては、親ほど大切な存在はありません。幼稚園では、先生たちがお母さん代わりです。お母さんやお父さんが大好きで、お母さん、お父さんに頼りきっているのです。子どもたちは、そんな大好きなお母さん、お父さんには、いつも注目していてほしい、見ていてほしいと考えます。そのため親にとって望ましいことをして褒められると、その褒められた行動を何度でも繰り返して、いつの間にか身に付けてしまうのです。他方、親にとって望ましくないことをして叱られても、親が叱るという仕方で注目してくれることが分かると、それを何度でも繰り返すのです。親は子どもが望ましい行動をとったときには、積極的に注目を与えてやるべきなのに、案外褒めることもせずにやり過ごしています。一方、子どもが望ましくない行動をとったときには、その行動を無視するべきなのに、叱る、怒るということを繰り返して、かえって子どもに注目を与えすぎてしまいます。その結果、子どもは望ましくない行動をすることで、親から注目してもらえることが分かっているで、望ましくない行動を繰り返してしまうのです。たとえ叱られたり、怒られたりしても、それでもいいから、大好きな親に注目してもらいたいと願うのが、小さな子どもなのです。親からまったく顧みなれないこと以上に、辛いことはありません。そのようなことから考えても、小さな子どもがいかに親に頼りきっているかが、痛いほどに分かるのです。

 考えてみると、世の人々から救いに遠いと思われていた人々、すなわち徴税人、遊女、罪人といった人たちは、この幼な子のような切実さで、父なる神さまに依り頼んでいたのではないでしょうか。彼らはこの次の箇所に出てくる富める青年のように、自分の正しさや功績に頼ることはできませんでした。この人たちは、主イエスの語る福音を聞き、主が罪にあえぐ自分たちのところに医者として来られたということを、驚きと喜びをもって聞き取ったに違いありません。そんな彼らにとって、父なる神さまに依り頼むことが、彼らを支えてくれるすべてでした。彼らは神さまに依り頼む以外に、自分たちが生きていく道はないことを知っていいました。それはまさに「幼な子」のもつ切実さでした。けれども、そのような切実さの故に、彼らは神の国に入る資格を得ていたのです。

 今日の個所で主イエスの弟子たちは、人々が子どもたちを主のもとに連れてくるのを叱った、妨げようとしました。それは弟子たちが、利己的な御利益を求める親たちを福音宣教の妨げになると考えたからです。人は自分の功績や敬虔さを積み重ねていくことによって、つまり自分の立派さによって、神の御国へと近づいて行かなくてはならないと、考えていたからだと思うのです。

 しかし、彼らは最後まで主イエスに従って行くことができたかというと、そうではありませんでした。主イエスのいちばん近くにあることを自負していた弟子が、主イエスがユダヤの官憲に逮捕され、十字架に付けられることが分かると、主イエスを見捨てて逃げ去りました。「命を捨てることになっても、あなたに従っていきます」と豪語したペトロさえ、3度も主イエスを知らないと否定しました。弟子たちは主イエスを裏切りました。彼らは主イエスに近い者であるどころか、弟子と呼ばれる資格すら失ってしまったのです。

 しかし、十字架の死から復活された主イエスは、もう一度彼らを、ご自分のもとに招かれました。復活された主イエスは、彼らの罪を赦し、再び弟子として立たせ、神の国の福音を宣べ伝えさせるために、彼らを派遣したのです。弟子たちそのような挫折と再生の経験をして、主イエスが今日の個所でおっしゃっていることの本当の意味が、分かったのではないでしょうか。

主は、「子どもたちをわたしのところに来させなさい、妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃいました。それは、私たち人間のだれもが、幼な子のような者でしかあり得ないからなのです。自らの力や立派さで、神の国に至ることはできません。何もできない無力さの中で、主イエスに依り頼み、招いていただくことによってしか、神の国にはいることはできないからです。主の憐れみと赦しの中でのみ、神の御国に入ることができるからです。主イエスは今日の個所で、まさに私たちのような者を招こうとされて、「妨げてはならない」と憤ってくださったのです。今日の聖書で、招かれ、抱き上げられ、手をおいて祝福していただいた幼な子は、実は私たち自身の姿なのです。

主イエスのそのような恵みと憐れみを覚えて、そして私たちを御国に招くためにご自身を十字架に捧げられた主の深い愛を覚えて、今日から始まる新しい一週間を歩んでいきたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】私たちの主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心より讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、対面とオンラインで礼拝を守ることができ、感謝いたします。今日は主のもとに子どもたちが来るのを妨げた弟子たちに、主イエスが憤られたという箇所を学びました。主が憤られたということの中に、子どものように神の国を受け入れる者を、何としてでも招こうとされる主イエスの強い思いを知らされました。どうか、私たちも子どものように、神さまにすべてをゆだねて依り頼む者となることができますよう、私たちを導いていてください。群れの中には病床にある者、高齢ゆえに様々な労苦を抱えている者、人生の試練に立たされている者がおります。どうか、あなたが共にいまして、その御手をもって一人ひとりを支えていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して、御前にお捧げいたします。アーメン。