最初の信仰に立ち帰る

創世記13章1~18節 2025年3月9日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 アブラムは飢饉から逃れるために、エジプトに一時滞在するのですが、そのとき、アブラムは自分の命を守るために、妻サライに妹だと嘘をつかせて、エジプトの王に嫁がせてしまうような、弱い、ふがいない人間でした。危機一髪のところで、神様がここに介入して、サライを嫁がせることをストップします。エジプトに疫病が広がって、その原因がアブラムとサライにあることに気づいたエジプトの王ファラオは、この二人をエジプトから去らせます。

 ファラオはアブラムを呼び寄せて言った。

「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、 

言わなかったのか。なぜ、『わたしの妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしの妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた。(12:18~20)                        

 彼らはファラオからもらったものを全部持って出ました(12:16参照)。ファラオのほうも、彼らに与えたものを取り上げませんでした。そのことが今日の13章の前提になっています。

 アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。(13:1~2)

彼らがエジプトに行ったときは、食べるものさえなかったのですが、今や家畜も金銀もある大金持ちになっていました。やがて、この財産が一族の争いの種となっていきます。恐らく、アブラムはエジプトを出るときには、そのことに気付いていなかったのではないかと思います。

  

 しかし、その問題に直面する前にアブラムの取った行動は、12章後半のアブラムの行動と違って、非常に信仰的です。彼はネゲブまで戻った後、さらにベテルとアイのほうに向かいました。ここはアブラムが最初に祭壇を築いた所でした。この旅は、彼が大きな回り道をして、また元の所へ帰って行く旅でありました。彼は、この旅の途上、自分の犯した過ちを恥ずかしく思い、悔い改めへと導かれたのではないでしょうか。しかもアブラムは、愛と恵みの中で悔い改めをしました。罰の中ではありません。普通に考えれば、私たちが悪いことをしたときには、それ相応の罰を受けて後悔し、「もう二度とこんなことはいたしません」と悔い改めをする、ということになろうかと思います。

 ところが、聖書ではそうでない場合のほうが多いのです。私たちは、神様の愛と恵みの中で、自分がそれにふさわしくない人間であるということがわかり、自分の罪もわかるのです。

 ルカによる福音書5章にこういう話があります。シモン・ペトロとその仲間たちが一晩中漁をしたけれども何もとれなかった。そこヘイエス・キリストがやってきて、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えました。本当は信じていないのです。ところが網を降ろすと、どうでしょう。ものすごい大漁になり、舟が沈みそうになりました。そのとき、ペトロはこう言いました。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」(ルカ5:8)

 ペトロは、舟が沈みそうになるほどの大漁を経験して、罪の告白をしました。なぜそう導かれたのか、よくわかりません。ただ私たちが罪の告白に導かれるときというのは、こういう場合が多いのではないでしょうか。「お前は悪い奴だ」と言われるときには、かえって反発しますが、圧倒的な主の恵みと愛に触れるとき、それにふさわしくない自分に気付き、自分の罪を知るのです。

 アブラムはベテルとアイの間の最初に祭壇を築いた所まで戻ってきました。アブラムが実際に道を踏み外したのはネゲブでしたが、このとき、すでにアブラムの心は神様のほうを向いていませんでした。問題はネゲブ以前に、すでに始まっていたのです。ですから、彼は最初に祭壇を築いた所からやり直しました。「初心に帰る」ということです。

 ちょうど私たちが、洗礼を受けたときのことを思い起こして、自分の信仰を最初からやり直そうと思うのに似ているかもしれません。私たちが日曜日ごとに礼拝をするというのも、それに通じるでしょう。一週間、神様のことを忘れて生活し、行動してきたかもしれませんが、ここで礼拝するために呼び集められました。主の名を呼ぶことで一週間を始められることの恵みを味わい、アブラムが初心に立ち返ったような思いで、私たちも礼拝したいと思います。

さて、ここで一つの事件が起こります。それは土地所有をめぐる争いでした。

 その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。(13:6~7)       

 財産が多すぎたことで争いが起きる。財産がなければ起こらなかった問題です。財産をめぐって兄弟が絶交状態になってしまう、本家と分家が分裂する、というような話は、しばしば聞くことです。財産というのは、人間をさらにさらに貪欲にしていく恐ろしい面をもっていると思います。

 しかし、このときアブラムは、そういう貪欲からは自由であり、非常に適切な、寛大な判断をしています。

 アブラムはロトに言った。

 「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」(13:8~9)

 12章後半において、計算高く、自分の利益を図ろうとした姿とは大違いです。ここでは神様への深い信頼から、アブラムは心安らかに、ロトに向かって、「先に好きなほうを選びなさい」と言うのです。

 このとき、すべてのことを決定する権利をもっていたのは、年長者であり、伯父であるアブラムです。もしもアブラムがロトに向かって、「私は右へ行くから、あなたは左へ行きなさい」と言っていたとしても、ロトはそれに従ったであろうと思います。しかしアブラムは、自分がもっている決定権を、「ロトに先に選ばせてやる」というふうに用いたのです。これは彼にとって大きな決断であったと思います。条件が全く同じであれば、先に選ばせて「残りものに福がある」というようなこともあり得ます。しかし、条件は全く違うように見える。ロトが選ぶことになる「ヨルダン川流域の低地一帯」のほうがはるかによく見えるのです。

 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。(13:10)           

 ロトは、やはりこちらを選びます。アブラムは、後になって、そのことでロトのことを悪く言ったりはしません。日本では、相手に対して一歩下がるのが礼儀とされていますので、本当は先に選びたいと思っても、一応「お先にどうぞ」と言います。相手がそれを真に受けて、「そうですか」と言って、先にとってしまうと、「なんという礼儀知らず」ということになってしまいます。

 しかしここでのアブラムは、そういうことではありません。ロトに先に選ばせるという決断をしているのです。だから、ロトの行動がどうか、ということよりも、アブラムの決断を立派と言うべきでありましょう。そしてこのときのアブラムは、「いかなるときも、主は自分を見捨てないで、自分と共にいてくださる」という信仰をもっていました。ですから、ロトに先に選ばせてやりながら、「神様はきっと自分にふさわしいほうを与えてくださる」と信じたのだと思います。「あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(12:2)と言われた神を信頼して、こう決断したのでした。恐らくアブラムには、「悪く見えるほうが残るであろう」という覚悟ができていたのだと思います。

 私の恩師がかつてこう言われたことがあります。「人生の重要な岐路において、どちらに進むべきか迷うことがある。どうしても決断がつかないとき、困難に見えるほうが主の示される道であることが多い」。

 この言葉を、そのまま物差しのようにして考えることはできないでしょう。あまりにも非現実的なことをやろうとして、深く考えないで、「困難なほうを選ぶ」などというのは間違っていると思います。ただそういうレベルではなく、もっと深いレベルで、私たちが本当に決断に迷うことがある。人生の大事な転機です。教会の歩みにおいてもそういうときがあるでしょう。そこで、どうして迷っているのかということをよく考えてみれば、自分には進みたいほうと、進みたくないほうがあって、しかも進みたくないほうが恐らく主の示される道だと感じているからではないでしょうか。

 イエス・キリストが十字架におかかりになるとき、ゲッセマネの園において、徹夜で祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)。しかし最後には、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と決断して、十字架への道を歩んでいかれました。

 このときのアブラムの決断とイエス・キリストの決断とを比べることはできませんが、アブラムの人生にとって、非常に大きなときであったことと思います。そして彼は自分の人生を導いてくれる主を信頼して、決断をしました。それは信仰と愛に満ちた決断であったと思います。彼は、このとき、財産や土地に対する貪欲というものから解放されています。これは恵みのしるしです。

 アブラムが立ち返って礼拝することができたことを第一の恵みのしるしであったとすれば、ここで彼が財産から自由になったということは第二の恵みのしるしだと思います。第一の賜物が信仰であるとすれば、第二の賜物は愛であると言えるでしょう。

 彼は土地や財産をめぐる争いを、力によって解決するのではなく、愛によって解決しました。今日、これと同じような争いは、あちこちで起きています。親族間の争い、国家間の争い。国家間の争いとなれば戦争になります。そして強いほう、力をもったほうが勝ちます。しかし実は、それで問題が解決したことにはならない。負けたほうはずっと根にもち、チャンスをねらってひっくり返そうとするでしょう。この物語は、力をもった側がどういう態度をとるときに問題が解決に向かうか、ということを示唆しているのではないでしょうか。

 エジプトの事件のときも、主が介入してこられましたが(12:17)、ここでも主なる神が登場します。あのときは、呪いをもたらすという形でありましたが、今回は祝福であります。

 「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」(13:14~16)

ものすごい祝福です。スケールが違います。

 私はここで起こったことを見ながら、イエス・キリストの二つの言葉を思い起こしています。どちらもマタイによる福音書の山上の説教の中の言葉です。ひとつは、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのもの(必要なもの)はみな加えて与えられる」(マタイ6:33)。アブラムは自分が生き延びることばかり考えて行動したときには、大きな失敗を犯しました。最初の信仰に立ち返って決断したときには、必要なもの、いやそれ以上のものを神様がちゃんと備えてくださいました。

 もうひとつは、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ5:5)という言葉です。このときのアブラムは、武力、暴力で争いを解決しようとせず、愛をもって解決した。神様は、そのような人々を祝福し、神の子として地を受け継がせられるのです。

 私たちも最初の信仰に立ち返って、主が共におられることを感謝しつつ、歩んでいきましょう。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と礼拝を共にすることができましたことを、感謝いたします。神さま、私たちは信仰生活の中で、あなたの御心から逸れてしまうことが度々あります。あなたに背いてしまします。しかし、あなたは私たちに働きかけられ、赦しを与え、信仰者として再び歩み始めるよう促してくださいます。どうか、あなたの大いなる愛と慈しみを心に刻みつつ、信仰者としての道を歩ませてください。春の気配を感じつつも、寒暖差の激しいこの頃です。どうぞ、兄弟姉妹一人一人の健康をお支えくださり、必要な助けをお与えください。今この世界にあって、戦争のさ中にある人々、様々な災害の中で労苦している人々の上に、あなたの御手を伸べていてください。この拙き感謝と切なる願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。