救い主を抱きしめて

ルカによる福音書2章25~35節 2024年12月29日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 先ほど司式長老に読んでいただいた聖書の箇所は、クリスマスの後日譚とも言うべき所です。御子イエスは生まれて8日目に割礼を受け、正式にイエスと名付けられました。割礼は男の子が神の民イスラエルに属する「しるし」であり、イエスという名は生まれる前に天使から示された名前でした。それから33日後、ヨセフとマリアは赤ちゃんを連れて、エルサレム神殿にやって来ました。それは生まれた赤ちゃんを神さまに献げ、再び神さまから受け取る儀式に参加するためでした。ヨセフとマリアは貧しかったので、神さまから子どもを受け取る贖いのいけにえとして、山鳩一つがいか家鳩の雛二羽を神さまに献げたのでした。

 その神殿に来たヨセフとマリア、何より幼子イエスとまみえた人がいました。それはシメオンとアンナという人でした。大事なことの証人は、一人ではなく二人いなくてはならないとされていました。だから二人の人が、幼子イエスとまみえたのでしょう。二人には違ったところがありました。一人は男で、一人は女です。シメオンについてどういう人であったかそのプロフィールは分かりませんが、アンナについては結婚後7年で夫と死別したとか、今84歳であるとかプロフィールが分かります。しかし、二人には共通したところがありました。それは二人とも高齢であったということです。シメオンについて年齢は記されていません。しかし2章29節の「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます」という言葉から、シメオンも高齢であると昔から考えられてきました。

 まず、シメオンについてですが、あらためて彼はどういう人だったのでしょう。25~26節を読んでみましょう。「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」そして「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき」(27節)、いけにえを献げに来ていたヨセフとマリア、幼子イエスと遭遇したのでした。

 シメオンが、どこに住み、どんな仕事をしていたか、家族はどうだったかなどは、少しも記されていません。特別な地位にある人でも、神殿に仕える聖職者でもなく、信仰をもった一庶民であったということかも知れません。しかし、ここを読んでいて気づかされるのは、「聖霊」や「霊」という言葉が3回も使われているということです。「聖霊が彼にとどまっていた」(25節)、「お告げを聖霊から受けていた」(26節)、「“霊”に導かれて神殿の境内に入って来た」(27節)とあります。ここから察するに、シメオンという信仰者は「神の御心を悟る賜物を持った」信仰者だったのではないでしょうか。「神の御心が何であるか」を、他の人よりも深く敏感に悟ることのできる人が、シメオンであったのではないかと思うのです。勿論それは、神さまが彼に「聖霊」を通して示されたのです。

 シメオンが「聖霊」を通して示された御心は、実に驚くべきものであり、人知では計り知れない深いものでした。まず、彼には「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」(26節)という御心が示されていました。その御心通りに、シメオンはエルサレム神殿で、救い主なる御子イエスに出会うことができたのです。そして、彼は幼子イエスを胸に抱きながら、このお方がどのような救いを成し遂げるお方であるかを、語ります。31~32節「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」シメオンは示された御心によって、救い主イエスが、イスラエルだけでない、全世界の異邦人にも救いをもたらす方であることを語るのです。また、34節以下を見ますと、主イエスが長じて救い主の働きを始められたとき、どのようなことが起こるのか、そして主イエスがどのような最後を遂げるのかまでも、正確に見通しているのです。救い主イエスのお働きによって、主に敵対する者も現れるが、主によって苦しみから立ち上がる者も多く現れる。そして、最後には人間の罪をすべて背負って、十字架の死を遂げられる。その時には、「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」と予告します。シメオンは母マリアが、主イエスの十字架の目撃者となることを、予告しているのです。

 そのように、神の御心を深く敏感に悟ることのできたシメオンでした。しかしだからこそ、それに伴う労苦もあります。彼は「イスラエルの慰められるのを待ち望」んでいました。彼は「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と示されていました。シメオンは神の御心を深く敏感に悟る人であったために、いつも将来に目を凝らしていました。援軍の到来を待つ見張人のように、緊張感をもって救い主を待ち望んでいました。周囲に救い主について希望を失っている者がいれば、「元気を出しなさい。救い主はかならず来られるから!」と励まし続けていたに違いありません。それは決して、簡単なことではなかったでしょう。御心を知らされた者にしか分からない、苦労や忍耐があったに違いありません。

 しかし、待ち続けていた救い主とお会いすることができ、そのお方を腕に抱くことができた。やっとお目にかかることができた。その時にシメオンは、あの有名な言葉を語るのです。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです」(29節)。この言葉は、「救い主をこの目で見ることができたので、安らかに生涯を終えることができます」という意味でしょう。しかしそれと同時に注解者たちは、ここの「主」が神を表わす「キュリオス」ではなく、いわゆる「家の主人」を表わす「デスポテース」という言葉が使われ、「去らせる」も僕をその務めに「留めおくことなく自由にさせる」という言葉が使われていると指摘しています。つまり、長年果たしてきた僕としての仕事・役割から自由にされるという意味も、そこにはあるのです。神の御心を深く知らされた者は、その御心に生き続ける使命があります。挫けることなく、その御心の実現を待ち望み、その御心を周囲の人たちに伝え続けていく使命があります。シメオンは救い主イエスにお会いして、その重大な務めから解放されたと、安堵の思いを言い表してもいるのです。

 シメオンは特別な賜物を与えられた人でしたが、私たち現代を生きるキリスト者も聖霊を与えられ、聖霊に導かれています。そして、シメオンがそうであったように、神の御心をイエス・キリストを通して示されています。その御心の最大のものは、クリスマスに神の御子が到来され、十字架と復活によって人間の罪を贖い、死に打ち勝ってくださったということです。そして、終わりの日にもう一度主イエスが到来され、この世界の救いを完成してくださるということです。その神さまの御心を私たちは信じ、その日の到来を待ち望みつつ、この世に福音を語り続けているのです。それは、21世紀の日本に生きる私たちにとって、簡単なことではありません。世の無理解や反発を受けながら伝道していくのです。

 こうした状況は、野球になぞらえることができるかもしれません。クリスチャンチームとこの世チームが、試合をしています。9回裏2アウト、イエス様がバッターボックスに立ち、さよならホームランを打ってくださいました。白球は確かにフェンスを越えていきました。クリスチャンチームは勝利を確信します。ところがこの世チームには、イエス様のホームランは見えていません。試合が終わったことは認めません。そこで、そのまま延長戦に突入し、クリスチャンチームは防戦一方の戦いを続けている。いつ終わるか分からない、厳しい試合が続いていると言うのです。「なるほど」と思いました。イエス・キリストの十字架と復活の出来事によって、決定的な勝利がもたらされました。しかし、それは世の多くの人たちが認めるには至ってはいません。端(なな)からバカにする人もいます。しかし、御心を示されたキリスト者は、終わりの日を待ち望みつつ、緊張感をもって福音を語り続けていくのです。神さまがその務めを解いてくださるその日まで、神さまの御心に仕え続けていくのです。

 さて、神殿で幼子主イエスにまみえたもう一人の人は、女預言者アンナという人でした。この人については先に申し上げたように、かなり詳しくプロフィールが記されています。彼女は結婚しましたが、わずか7年で夫と死別しました。10代の後半が結婚年齢であったとすると、20代半ばでやもめとなったことになります。それから約60年の間、女一人で人生を生き抜いてきたのでした。夫との死別後のアンナの生涯がどのようなものであったかは、分かりません。女預言者という務めが、職業として成り立ったのかどうかも不明です。しかし、確実なことは、彼女が神殿での信仰生活を、どれだけ生きる拠り所としていたかです。「彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」(37節)とあります。若い日の夫との死別という悲劇に見舞われたアンナは、神殿を拠り所とし、神さまから決して離れようとはしませんでした。礼拝をし、断食と祈りを欠かしませんでした。そのアンナに、神さまは思いもよらない恵みを与えられました。彼女はイスラエルが待ち望んだ救い主イエスさまとお会いし、そのことを周囲の信仰者たちに伝えることができたのです。預言者にとって、救い主の誕生を伝えることほど、誉れある大きな務めはありません。信仰生活を生きる拠り所として生涯を過ごしたアンナに、神さまは大いなる祝福を与えられたのです。

 私たち現代の信仰者も、人生で色んな出来事に見舞われたことをきっかけに、教会の門をくぐることになった方たちが多いと思います。人生には予想もしないことが起こります。心を刺し通されるような悲しみもあります。しかし神さまは、傷ついて御翼の陰に避難して来る者たちを、あたたかく抱きしめてくださいます。その者を癒し、養い、育ててくださいます。そしてアンナがそうであったように、新しい使命に喜びをもって、生きることができるようにしてくださるのです。

 今日はクリスマスの後日談として、シメオンとアンナが幼子イエスとお会いしたところを読みました。二人には違ったところがありましたが、いずれもその信仰の生涯を、神さまの守りと導きのうちに過ごしました。神さまが与えてくださる務めに生きたのです。それは簡単なことではなかったでしょう。しかし神さまはその生涯の最晩年に救い主と見える機会を与えてくださり、彼らの人生を満たしてくださったのです。「わたしは主なる神にあって生涯を全うした!」と感謝と共に人生を振り返ることができたのです。そのような祝福に満たされた人生を、神さまは一人一人に用意してくださっています。そのような主にある人生を歩む決意を、一年を終えるに当って心に刻みたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】この世界を導き、教会を導いてくださる父なる神さま、あなたの御名を讃美いたします。今日は今年最後の礼拝です。この一年も教会を守り導き、一人一人の生活を支えて下さったことを、心より感謝いたします。新しい年がどんな年になるかは分かりませんが、あなたから託された福音宣教の働きをたゆまず行うことができますよう、強めていてください。共に礼拝をなし、祈りと讃美を捧げ、御国を仰ぎ望みながら、歩み続ける私たちとしてください。このひと言の小さなお祈りを、主イエスの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。