マルコによる福音書12章28~34節 2025年5月25日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日の聖書も「論争の火曜日」についての箇所です。主イエスが十字架におかかりになる三日前のことです。神殿で主イエスが教えておられますと、そこにユダヤ教の指導者たちがやって来て、「何の権威でそんなことをしているのか」と言いがかりをつけてきたのです。これに端を発して、主イエスとユダヤ教の指導者たちとの間で、「ローマ皇帝には税金を納めるべきか、否か」とか、「復活はあるのか、ないのか」というような神学論争が繰り広げられたのでした。
神学論争というのは、神様や信仰について明らかにするために、聖書の解釈を巡ってなされる大切な議論のことです。キリスト教の歴史を見ますと、神学論争の末に異端とされ、迫害されて命を落とした人もたくさんいます。宗教改革期のカトリック教会とプロテスタント教会の対立は、ドイツ30年戦争の原因にもなりました。神学論争というのは、このように血を流すほどの激しい論争になることもあるのです。
それはどうしてなのでしょうか。神様のこと、信仰のことを問うことは、自分の根源、世界の意味を問うことだからです。自分は何者なのか。何のために生きているのか。この世界は悪魔の世界なのか、神の世界なのか。救いはあるのか、ないのか。死後の世界はあるのか、ないのか。その答えいかんによって、人は立ちもするし、倒れもするのです。神学論争というのは、そのように私たちの生の根源を揺るがせるような論争です。だから神学論争というのは自然と激しく、真剣にならざるを得ないのです。
しかし、神様というのは人間には計り知れない御方ですから、いくら議論をしてもなかなか埒(らち)があきません。また、信仰というのも人間の価値や人生の意味までカバーする重要な事柄であるだけに、なかなか簡単に答えを出せるものではありません。はっきりと言うと、神学論争には正解がないのです。ですから、神様を信じない者にとって、神学論争というのは空理空論に思えてしまうということがあるのです。
日本の国会でも、現実から遊離した実りのない議論を表わす言葉として、「神学論争」と言われたことがありました。小泉純一郎元首相も、自衛隊の海外派遣について、野党から憲法9条の解釈論議が出ると、「神学論争はもうやめよう」と応じたことがあります。原理原則や解釈論議ばかりしても、現実の差し迫った問題に対応できないということでしょう。
神学論争を揶揄した大変失礼な言い方だと思うのですが、国会に限らず、世の人々もまた「難しい話はさておいて」というようなことがあるのではないでしょうか。今、目の前にある問題に対する処し方には非常に関心があるけれども、人生の意味とか、目的とか、善悪とは何かとか、そういう私たちの人生の根源を問うような問題とは決して向き合うことなく、その場その場を生きてしまっているということがあると思うのです。
主イエスの「種を蒔く人の譬え」の中に、このようにその場その場をやり過ごして生きている人のことを言い表した、次のような言葉があります。「ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった」(マタイによる福音書13章5~6節) 。
「根がないために枯れてしまった」とあります。目の前の事ばかりに心を奪われて生きていると、そうなってしまうのです。しかし私たちが、人生の問題をもっと深いところで受けとめようとするならば、「問う」ことの大切さを忘れてはならないと思います。自分は何者なのか。何のために生きるのか。死んだらどうなるのか。罪の赦しはあるのか。救いはあるのか。復活はあるのか。このような問いは、一朝一夕に答えが出るわけではありません。永遠に答えが出ないような気もしてくる。しかし、そのように根源的なことを問うことによって、私たちの人生を支えて下さっている御方、天の父なる神様に出会うことができるのです。
さて、ユダヤ教の指導者たちが主イエスに問うたのは、決して純粋な神学論争のためとは言えませんでした。神学論争を装って、主イエスを言葉の罠にかけ、陥れようとしていたのです。しかし、主イエスはどんな問いに対しても、つまりどう答えても不利になるような問いに対して、実に見事なお答えなさって、彼らを驚かせたのでした。
主イエスに問いかけた人々の中に、一人だけ主イエスのなさった答えを、自分への問いとして真剣に受けとめた人がいました。そして、今までのような下心のある問いではなく、もう一度、主イエスに自分自身の真剣な問いを返すことによって、主イエスにお答えしようとしたのです。「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。『あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。』」(28節)
この律法学者は、「数ある律法の中で何が一番大切でしょうか」と尋ねました。律法とは、人間の生き方を示した神の教えです。その一番大切なものは何かと問うことは、すなわち自分の生命(いのち)の中心、根源は何かということを問うことなのです。「皇帝に税金を納めるべきでしょうか」とか、「復活した時には誰が夫になるのでしょうか」とか、こういう問題は「何が一番大切か」ということが分かれば、順に解けていくことです。そういう枝葉末節を問うことをやめて、自分の生命(いのち)の根源にあるものを問う、こういう問いが大切なのです。
根源的なことを問うということは、根源的な主イエスの答えが与えられることを願っているわけです。そして、問うことは問われることでもあります。主イエスの答えが示されたならば、今度はそれに根ざして生きているかどうかということが、自分自身に問われることになるのです。この律法学者は、当然そういうことを分かった上で、主イエスにその答えを求めているのです。
それに対する主イエスのお答えは、二つでありました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(29~31節)
「何が一番大切か」と問われた時に、主イエスが一つではなく、二つの答えを示されたということは、とても大切なことだと思います。それは、一番大切なものというのは、一つではなく、二つのものの調和の上にあるということなのです。ある人が、こういうことを言っています。
「およそすべての物事には、両極というものがある。真理は円形ではなく楕円形なのだ。円を描くには、一つの中心点があれば描けるが、しかし、楕円を描くには二つの中心点がいる。そのように真理の世界には、常に両極というものがあるので、お互いが真理に立ちたければ、絶えずその両極をよく見つめて、両極の調和をはからなければならない。それなのに一極だけを見つめて他を見落とせば、その真理はいびつなものになり、一面的になってしまう。そこで決して真理の全体を正確に把握することはできないものだ。」
神様を愛することと、人を愛することも、一面的になってはいけないのです。どちらか極端になってはいけないのです。神様を愛するからといって、人への愛が軽んじるならば、それは間違いです。人を愛するからといって、神への愛を軽んじることも間違いです。神への愛を軽んじても、人への愛を軽んじてもいけない。神を愛することも人を愛することも真剣でなければならない。両方が調和する生き方にこそ、一番大切なことがあるのだということです。
たとえば、神様を愛するということは、教会を大事にすることにつながるでありましょう。そして、人を愛するということは家族の交わりやこの世のつき合いを大事にするにつながると言ってもよいと思います。主イエスは、どちらの方が大切だとは言われないのです。教会を大事にすることによって、家族やこの世のつき合いを軽んじてはいけない。逆に家族やこの世のつき合いを大事にすることによって、教会を軽んじてはいけない。その両方を大事にできる道を求め、そこに生きることが一番大事なのだということなのです。
では、実際には、どんなふうに調和させたらいいのでしょうか。一つには、主イエスが二つのことを共に大切だとおっしゃいながら、第一の掟、第二の掟と順位をつけておられることに注意しなければなりません。まず、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛する」ということから始まるのです。
ヨハネの手紙 一4章7節には、「愛は神から出ているのです」と記されています。神様の愛が私たちの内に満ち溢れて来て、それが隣人愛として私たちのうちから人へと流れ出ていくのです。このような神の愛をもって、隣人を愛するのでなければ、私たちの愛は必ずや自分の罪のうちに破れるに違いありません。身勝手で迷惑な愛もありますし、中途半端で無責任な愛もあります。身勝手さは自分だけではなく、相手にもあります。こちらが愛することに真剣であっても、相手の我が儘よって振り回され、愛の限界を感じるということもあるでしょう。
愛は、神様から出てくるのです。神様の愛を信じ、全身全霊をもって神様を愛し、自分の中に神様の豊かな愛を戴かなければなりません。そして、それを溢れさせるということが大切なのです。これが「第二の掟」です。第一の掟は神様を愛することであり、第二の掟は隣人を愛することなのです。この二つが共にあることが、一番大切な神様の教えであると、主イエスはお答え下さったのでした
律法学者は、主イエスのお答えを聞いて、その正しさを認めました。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」(32~33節)
そして、この律法学者の言葉を聞いて、主イエスも彼の心の正しさを認めて、「あなたは、神の国から遠くない」と言われたというのです。しかし、「遠くない」というのは、微妙な表現です。「あなたは神の国に入れる」とか、「神の国はあなたのものだ」と言われなかったのは、どうしてなのでしょうか。
それは、神の国に入るのは、第一の掟でもなく、第二の掟でもなく、恵みによることだからです。主イエスの十字架の贖いが必要なのです。この律法学者は、自分の生き方の根源を問い、そして神を愛しなさい、隣人を愛しなさいということを教えられました。これからは、この主イエスのお言葉を自分の生き方の中心に据えて生きていこうと、喜びと決意をもってお答えしたのだと思います。
しかし、神様の教えに従って生きるということは、頭で分かっていても、心で分かっていても、それに背くような罪の力が私たちの内に働くのです。この罪の力から救われて、新しい人間として生まれ変わることなしに、神の国に入ることはできないのです。けれども主イエスは、「あなたは、神の国から遠くない」と、彼に仰って下さいました。それは、彼の信仰の状態が近いとか、遠いということではなく、「あなたが神の国に入るために、わたしが十字架にかけられる日が近い」と言う意味ではなかったでしょうか。
主イエスの十字架の救いによって、私たちの罪は赦され、神様との新しい関係に入れられるのです。そして、神様の愛を余すことなく受け取り、その愛をもって隣人を愛し、隣人に仕えることができる人間とされていくのです。恵みは罪に優り、掟に優るのです。感謝すべきことではないでしょうか。
お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を讃美いたします。あなたは今日も御言葉をもって私たちを導いてくださいました。あなたは主イエスを通して二重の愛の戒めを教えてくださいました。どうか、あなたを愛する愛によって、私たちの心を、隣人を愛する愛で満たしてください。この二重の愛に生きる生活の豊かさと奥深さを、私たちに味わい知らせてください。私たちの群れには、病床にある兄弟姉妹、高齢のゆえに困難を抱えている兄弟姉妹、人生の試練にあっている兄弟姉妹がおります。どうか、兄弟姉妹のために祈り、労することができますよう、私たちを強めていてください。世界は今大きな混乱と不安の中にあります。どうか、この世界に平和を与えてください。天にあるごとく地にも、あなたの御心を実現させてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。