恐れからの自由

マルコによる福音書14章43~52節 2025年9月28日(日)主日礼拝説教

                              牧師 藤田浩喜

 今朝与えられている御言葉は、主イエスがユダの裏切りによって捕らえられる場面です。この直前が、先週見ましたゲツセマネの祈りの場面でした。その最後のところで、主イエスは弟子たちにこう言われました。41~42節「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。ここには、十字架に向かって敢然と歩まれる主イエスの姿がはっきり記されております。主イエスは「時が来た」と言われます。この「時」とは、捕らえられて十字架へと歩む時です。そしてこの「時」は、神様が備え給うた時なのです。主イエスは、神様の御計画の時が来たことを悟り、そして言われたのです、「立て、行こう」。主イエス自らが行かれるのです。

 「さて、イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダが進み寄って来た。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た」(43節)とあります。一体、この時主イエスを捕らえに来た人々は、どれほどの人数だったのでしょうか。主イエスがすんなり捕らえられましたので、特に乱闘騒ぎになることもなく済んでしまいました。ですから何となく、それほど大勢ではなかったのではないか、私は長い間そんなふうに思っておりました。聖書には人数は記してありませんので分かりませんけれど、ヨハネによる福音書には、この時「一隊の兵士と千人隊長」が一緒であったことが記されています。最低でも百人、あるいは数百人の人々がやって来たのでしょう。主イエスを捕らえに来た人々は、手に手に剣や棒を持っていました。この時、主イエスが何かとんでもない不思議な業をするかもしれない、そんなふうにも思っていたかもしれません。ですから、きっと恐る恐る近づいたことでしょう。泰然自若としている主イエス。一方、手に手に剣や棒を持ち、大勢でありながら恐る恐る近づく人たち。

 その先頭にユダがいました。ユダは、自分が接吻する人が主イエスだと合図を決めておりました。月明かりがあったとはいえ、12人のうちの誰が主イエスであるのか、見分けるのは容易ではなかったからです。この「接吻する」という言葉は、「愛する」とも訳せる言葉です。この接吻は愛する者、家族や友人などと交わす挨拶でした。この場合、互いに両手で抱き合って、頬や頭に接吻するのです。ユダはいつもと同じように、「先生」と言って主イエスに接吻しました。ユダはこの愛の印である接吻をもって、主イエスを裏切ったのです。

 この時、主イエスはこのユダの接吻を避けることをされませんでした。主イエスはこれを受けたのです。十字架への歩みを決めておられた主イエスにとって、今さらこのユダの裏切りの印としての接吻を拒む必要はなかった。そうなのかもしれません。しかしそれ以上に、主イエスにとってユダは、この時もなお「先生」と言って接吻してくる弟子の一人だったのではないか。私にはそう思えてならないのです。

 他の弟子たちはこの時、皆主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。そして、もう少し後でペトロは、主イエスを三回否認するのです。そのような弟子たちを主イエスは見捨てられたでしょうか。そうではなかった。復活された主イエスは、彼らを再び弟子として召し出し、世界宣教へと遣わしたのです。主イエスは弟子たちを見捨てたりはしていないのです。であれば、ユダもそうだったのではないか。ユダにとっては裏切りの印でしかなかった接吻を、主イエスはいつもと同じように、愛の印として受けられたのではないか。私にはそう思えるのです。

 主イエスが選ばれた十二弟子の一人のユダが裏切ったというのは、まことに驚くべきことです。しかしこれは、神様が、主イエスが、何にも先が見えない方だったということを示しているのではないのです。ユダが裏切って、主イエスの十字架の救いが貫徹されたのです。神様の救いの御業は、裏切りによって頓挫するのではなく、それによって貫徹されたのです。いつの時代でも、キリスト教会には裏切りと言えるようなことが起きるのです。しかし、それで教会が無くなってしまうということはなかったし、今もないのです。

 このユダの裏切りということから、私は日本の教会が出発した時の一つの事実を思い起こすのです。明治5年、9名の受洗者が与えられ、それ以前に洗礼を受けていた2名と計11名によって、日本最初のプロテスタント教会、日本基督公会(現在の日本基督教会横浜海岸教会)が設立されたのです。ところが、この11名の信徒の内2名は、確実に明治政府からのスパイだったのです。彼らが政府に出したその報告書が残っています。さらに、1名の本願寺から送られたスパイだったと言われている人もいます。驚くべきことでしょう。しかし、それで日本伝道は頓挫したでしょうか。しなかったのです。神様の救いの御業というものは、人間の裏切りなどいうものによって台無しになるなどいうことはないのです。

 さて、ユダが主イエスに接吻すると、人々は主イエスに「わーっ」と襲いかかり、主イエスを捕らえました。人々が恐れていたような、主イエスからの反撃はありませんでした。ただ、一人だけ、剣を抜いて大祭司の手下に切りつけて片耳を切り落とすということが起きました。ヨハネによる福音書は、それがペトロであったと記しています。そして、耳を切り落とされた人の名はマルコスであったと記しています。また、ルカによる福音書では、主イエスは「やめなさい。もうそれでよい」と言われ、耳をいやされたと記されています。この剣を抜いた人は、主イエスを守るためというよりも、大勢の人々に囲まれて恐ろしくなって、持っていた剣を振り回したということなのではないでしょうか。しかし、主イエスはそれをやめさせ、まことに静かに捕らえられたのです。

 そして言われました。48~49節「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」これは大変な皮肉です。昼間、大勢の人のいる前では、神殿の中では、わたしを捕らえなかった。いつでもできたのに、そうしなかった。なぜだ。それは、あなたたちがやっていることは、昼間にはできない業、闇の業だからだろう。人前をはばかる業だからだろう。闇に乗じて行っていることが、それを示している。これについては14章2節に、「彼らは『民衆が騒ぎ出すといけないから、祭りの間はやめておこう。』と言っていた」と記されています。主イエスの話を喜んで聞いている群衆を前にして主を捕らえるのは、群衆を刺激し、騒乱が起きる。それを恐れていたわけです。彼らは、神様に従う業だと思っていたのでしょうけれど、本当のところ、人を恐れていたのです。主イエスは、この「人を恐れるあり方」が本当に神様に従う姿なのか、そう告げておられるのでしょう。

 主イエスは静かに捕らえられました。十字架に架けられることを分かった上でした。なぜなら、主イエスはそれが神様の御心であることを知っておられたからです。それは、49節の「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」に明確に示されています。この「聖書の言葉」とは、詩編22編やイザヤ書53章に示されているメシアの受難預言を指しています。主イエスは、これは聖書の言葉が実現するためだ、つまりこれが神様の御心なのだと告げられたのです。

 

 さて、50節にはとても印象深い言葉が記されています。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」淡々と聖書は記しておりますけれど、この一節は、私たちの心にとても深く突き刺さる言葉です。数時間前に「決してわたしはつまずきません」と、主イエスの前に誓った弟子たちでした。ペトロだけではないのです。皆そう言ったのです。しかし、実際に主イエスが捕らえられる段になると、弟子たちは皆、主イエスを見捨てて逃げてしまったのです。この記事を見て皆さんはどう思われるでしょうか。何とだらしのない弟子たちだと思うでしょうか。私も同じだと思うでしょうか。私ならどうするでしょうか。

 ここでマルコによる福音書は、51~52節に一つのエピソードを加えています。「一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった」。これはマルコによる福音書にしか記されておりません。この「一人の若者」は一体誰なのか。名前が記されていないので、本当のところは分かりません。しかし、教会の歴史の中で、この若者はこの福音書を記したマルコではないかと言われてきました。主イエスが捕らえられたこの時、マルコがそこに居合わせたのかどうか分かりません。しかし、これがマルコだと人々は読んできたのです。

 この福音書を書いたマルコという人は、使徒言行録によれば、初代教会の人々が集まって祈っていたエルサレムの家の息子です(使徒12:12)。母親がキリスト者で、彼は二代目でした。そして、バルナバとパウロと共に第一回伝道旅行に行った伝道者でした。しかし、マルコはその第一回伝道旅行の途中で帰ってきてしまったようなのです。パウロの第二回伝道旅行にマルコを連れて行くかどうかで、パウロとバルナバは意見が分かれてしまい、バルナバはマルコを連れて、パウロはシラスを連れて、別々に第二回伝道旅行に行ったことが記されています(使徒言行録15章36~44節)。

 マルコは逃げたのです。パウロの伝道旅行は命の危険にさらされるものでした。その伝道旅行で、マルコは逃げたのです。その出来事をさかのぼるこのゲツセマネにおいて主イエスが捕らえられた時、その場に彼がいたのかどうか分かりません。しかし、そうでなかったとしても、福音書記者マルコはここで、パウロと伝道旅行に行った時に途中で逃げ帰ってしまった自分の姿を、この時主イエスを見捨てて逃げてしまった弟子たちの姿に重ね合わせて、ここに書き込んだのではないか。私にはそう思えてならないのです。マルコもまた、自分は主イエスを見捨ててしまった者だ、そのことを本当に知ったから、福音を告げる伝道者になれたし、その福音に基づいて福音書を記すことができたのだろうと思うのです。

 主イエスの十字架への歩みにおいて、弟子たちの弱さ、情けなさ、不信仰、裏切りが次々と記されています。それは、本当にそうであったということだけではなくて、それが福音の本質を明確に告げる出来事だからなのでありましょう。

 福音とは、どこまでもついて行きますと言っていたのに、いざという時に主イエスを見捨てて逃げてしまう、その弟子たちをなおも赦し、愛し、用い給う神の愛なのです。主イエスの十字架は、この自分を見捨てた者の罪を担い、その者に罪の赦しを与えるものなのです。主イエスを我が主、我が神と信じて受け入れて歩み始める。主イエスを愛し、従う。しかし、信じ切れない。愛し切れない。従い切れない。主を裏切るようなこともしてしまう。その通りです。そのような私が、なおも赦され、愛され、生かされているのです。それが福音です。ですから何度でも、主イエスに励まされて、御心によって生きる道へと新しく歩み出していくのです。福音は私たちを、あきらめない者へと導き続けるのです。主イエスが、神様が、私たちを捉えて離さないからです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができましたことを、感謝いたします。神さま、弟子のユダは愛のしるしである接吻をもって、主イエスを裏切りました。しかし主イエスは、他の裏切った弟子たちと同じように、ユダを愛し、彼が悔い改めて立ち帰ることを願っておられたのだと思います。神さま、あなたは主イエスにあって何度も何度も私たちの罪を赦し、御国に向かって立ち上がるよう励まし導いていてくださいます。そのことをいつも私たちに覚えさせてください。今日は礼拝の後に、南柏教会に長らく仕えて下さった戸村曻次さんの記念会を行います。その記念会の上にあなたの祝福を与えてください。信仰に生きた先輩の思い出を分かち合う豊かなひと時としてください。10月を迎えようとしていますが、まだ寒暖差のある日が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。