心燃える祈りを

マルコによる福音書14章32節~42節  2025年9月21日(日)伝道礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 主イエスはひどく恐れていました。ゲツセマネでの主イエスの様子を聖書はこのように伝えています。「そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。「『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい』」(33~34節)。

 恐れている主イエスを想像すると、何かとても不思議な気がします。これまでの流れを考えるとなおさらです。主イエスはここに至るまでに、すでに少なくとも三回は御自分の受難を予告しておられるからです。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する」(10:33~34)。これは三度目の予告です。エルサレムに入られる前から、そこで自分の身に何が起こるかをすでに知っておられたのです。知りながら、あえてエルサレムに向かわれたはずなのです。

 この直前の食事についても、これが弟子たちと共にする最後の食事であることを、主は知っておられたはずです。だからこそ、その食事の際に「これはわたしの体である」と言ってパンを与え、「これはわたしの血である」と言って杯を回されたのです。さらに言うならば、裏切ったユダが祈りの場所に人々を手引きして連れてくることさえも知っていたのです。その場所こそが、群衆に知られることなくイエスを捕らえるためには格好の場所だったからです。そのことを知っているのに、あえてゲツセマネに祈りに来られたのです。わざわざ捕らえられるために、来られたようなものです。

 ならば、そこで本来期待されるのは、泰然として捕らえに来る者たちを静かに待つキリストの姿でしょう。恐れることなく、うろたえることなく、ただその時を静かに待つキリストの姿。―しかし、そのような姿はここには見られません。キリストは恐れ、苦しみもだえて祈っておられるのです。ここに描かれているのは、実に期待はずれとも奇妙とも言える光景です。

 しかし、読者の期待を裏切るこの姿こそ、キリストの受けた苦しみが何であるのかを雄弁に物語っているとも言えるのです。

 主はこう祈っています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(36節)。取りのけてほしい「この杯」とは、いったい何なのでしょうか。十字架につけられて殺されること ―確かにそうです。しかし、それが意味するのは、ただ単に肉体的・精神的苦痛を伴う死ということではありません。確かに十字架刑は残酷な刑罰です。しかし、十字架刑によって殺されたのは、何もイエス・キリストだけではないのです。現に主イエスと共に二人の犯罪人が、十字架にかけられていたのです。そして、肉体的・精神的苦痛という意味だけならば、世の中にはもっと大きな苦しみを味わいながら死んでいった人はいくらでもいたはずです。主イエスが「この杯」と呼んでいるものが、そのようにすでに誰かが経験したことのある苦しみであろうはずがありません。

 では、主イエスに与えられた「この杯」とは何だったのでしょうか。それはただ苦しんで死んでいくということではなくて、《神に裁かれて死んでいく》ということだったのです。もちろん、キリストは自分自身の罪のゆえに神から裁かれる必要はありません。この御方には罪がありませんでした。この御方は父なる神を愛し、人を愛して生きられました。この御方は父なる神と一つでした。ですから、この御方が背負っていたのは自分の罪ではありません。そうではなく、私たちの罪です。それは私たちすべての人間の代わりに、神の裁きを受け、神に見捨てられることを意味したのです。それこそが、メシアの苦しみだったのです。

 実際、この箇所を読む度に思います。私たちは神の裁きが何であるかについて、恐らく何も知らないのだ、と。辛いことが続いて、「神から見捨てられた」と感じることはあるかも知れません。しかし、私たちは神から見捨てられるということがどういうことか、恐らく何も知らないのです。だから、すべてを知っておられる神の御前において、罪を犯してきたこと、罪人であるという事実に恐れおののくこともないのでしょう。罪の赦しを受けることなく死ぬことを、本当の意味で恐れることもないのでしょう。

 しかし、主イエスは違います。罪人として、罪を背負ったまま死ぬことがどれほど恐ろしいことであるか、罪ある者として神に裁かれることがどれほど恐ろしく、悲しく、苦しいことであるかを御存じだったのです。この世界の罪、私たち人間の罪を背負うということが、いかなる苦しみであるかを知っておられたのです。それが、今日の聖書箇所におけるキリストの恐れと苦しみの姿の中に、語られていることなのです。

 それゆえに主は、ひれ伏して父なる神に願い求めたのです。「この杯をわたしから取りのけてください」と。しかし、父に向き続け、苦しみもだえながら祈られる主イエスに、御父は何も語られませんでした。そう、ひと言も。しかし沈黙はしばしば言葉以上に、雄弁に語ります。沈黙こそが主イエスに与えられた答えでした。―わかりました。あなたの御心なのですね。主は父に語りかけます。「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(36節)。

 そのように神が沈黙される時に、それでもなお「アッバ、父よ」と呼びかけ、父への信頼をもって御心に従おうとしている御姿を、私たちはここに見るのです。

 しかし、この箇所を読みます時に、父の御心に信頼をもって従うことは、主イエスにとってさえ、決して容易なことではなかったことを知るのです。先に見たとおり、主イエスは「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と口にするのです。ならば、本来ならそこで祈りは完結しているのではないでしょうか。ところが、39節にはこう書かれているのです。「更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた」。

 「同じ言葉で祈られた」ということは、もう一度「この杯をわたしから取りのけてください」と願ったということです。そして、「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」に、再び行き着いたということです。

 これを主イエスは、何回繰り返したのでしょうか。ここには主が三回ペトロたちのところに戻って来られたことが書かれています。しかし、主がただ三回だけ「同じ言葉で祈られた」とは思いません。もしそうならば、弟子たちは眠っていて聞き逃しているはずですから、二回目が同じ言葉であることは分かりません。さらに言えば、二回目の時も眠っていたのですから、同じ言葉で祈っていたのをいったい誰が聞いていたのでしょう。

 要するに考えられることは、弟子たちが眠りこける前から、主イエスは同じ言葉で繰り返し祈り続けていたということです。あるいは、ルカによる福音書では「いつものようにオリーブ山に行かれると」(ルカ22:39)と書かれていますから、主イエスはエルサレムに来られてから毎日のように、そのように祈っていたのかもしれません。

 主イエスであっても、祈りなくしては従い得なかったのです。繰り返し父の名を呼ぶことなくして、父への信頼をもって立ち上がることはできなかったのです。前に進むことはできなかったのです。そのように天の父にすがりつくようにして繰り返し祈っておられた主イエスだからこそ、眠っていた弟子たちにこう言われたのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(38節)。

 「誘惑に陥らぬように」―彼らにとっての「誘惑」とは何でしょう。眠りへと誘う誘惑でしょうか。いいえ、もっと大きな誘惑が待っていることを、主イエスはご存知でした。

 こんなことがありました。ゲツセマネに到着する前のことです。主イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたは皆わたしにつまずく」(27節)。つまり、主イエスを見捨てて弟子たちが散ってしまうことを、主は予告したのです。その時、ペトロは言い返しました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。しかし、主イエスはそのペトロにこう言われました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。ペトロはさらに言い返しました。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。そして、「皆の者も同じように言った」(31節)と書かれています。今日の箇所の直前に書かれていることです。

 確かに、主イエスが彼らの目の前で捕らえられることは、彼らにとって試練です。そして、そこには誘惑もあります。「あなたがたは皆わたしにつまずく」。その誘惑があります。彼らは「つまずきません」と言いました。実際はどうだったでしょう。シモン・ペトロは三度、主イエスを知らないと言いました。他の弟子たちも、主イエスを見捨てて逃げ出しました。ある意味で彼らは、誘惑に負けたことになります。

 しかし本当の誘惑は、その後に来るのです。彼らは深い悲しみ知ることになります。彼らは自分自身に対し、深い絶望を味わうことになります。主イエスはそうなることが分かっているのです。だから、ルカによる福音書では、主イエスがペトロにこう言ったと記されています。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:23)。

 悲しみの中に、特に自らの弱さ、自らの罪のゆえの悲しみの中に誘惑があります。自分に対する絶望の中に誘惑があります。悪魔はそこで、人を神から引き離しにかかってくるのです。信じることをやめさせようとする。従うことをやめさせようとするのです。それゆえに主は言われるのです。「誘惑に陥らないように祈りなさい」と。

 実は、主イエスがペトロたちの離反を予告した時、一言こう付け加えていました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(28節)と。弟子たちは確かに主を見捨てて逃げていく。しかし、主イエスはその先を見つめておられたのです。彼らは、それで終わりになってはならない。自分に絶望して終わってはならないのです。悪魔によって引き離されてはならないのです。信じることをやめてはならないのです。自分がどのような惨めなありさまであろうが、信じることをやめてはならないのです。主が先にガリラヤに行って待っていてくださるからです。

 あの時、主イエスが言ってくださった、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」という言葉は、深く彼らの心の内に留まったことでしょう。そして、弟子たちの心に留まったその御言葉が伝えられ、今日、私たちにも同じ御言葉が与えられているのです。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。祈っていなさい ―そう、あの時、父にすがりつくように繰り返し祈り続けた主イエスのように」。聖書はそのように、私たちに呼びかけているのです。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができましたことを、感謝いたします。主イエスはゲツセマネの園で、「アッバ、父よ…この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。しかしその祈りは、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」へと至りました。主イエスがその祈りを、何度も繰り返し、祈り続けられたことを聖書は語ります。

神さまにこの祈りを祈り続けることなくして、私たちは人生の最大の誘惑を退けることはできません。どうか、人生の大きな困難に陥っている時にこそ、主イエスのゲツセマネの祈りを思い起こさせてください。今日は礼拝の後に、信仰の先輩たちを囲んでお祝いの愛餐会を行います。長い人生を歩んでこられた信仰の先輩たちを支えてくださった神様に心から感謝しつつ、交わりのよき時を持たせてください。季節はやっと秋へと向かっているように感じます。しかしまだ寒暖の差が激しく体調の整えにくい日々です。どうぞ、兄弟姉妹一人一人の心身の健康をお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。