マルコによる福音書9章38~41節 2024年11月3日(日) 主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今日の聖書箇所を読んで、皆さんはどんな感想を持たれたでしょう。主イエスは今日の9章41節で、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と仰いました。社会で生きているわたしたちに対して、色んな態度を取る人たちがいるのは自然なことです。わたしたちに対して好意的で何かにつけて協力してくれる人がいます。一方、わたしたちに対して批判的で事あるごとに反対する人もいます。いつも敵意を向けてくるような人もいるでしょう。また、好意的でも敵対的でもなく、わたしたちに対して関心が薄いという人もいるでしょう。主イエスはそのような様々の立場を取る人たちに囲まれているわたしたちに、「寛容さ」を教えておられるのではないか。明確に敵対する人でなければ、どんな態度を取る人であっても自分の味方だと思って受け入れなさい。心を広くして色んな態度を取る人を受け入れなさい。そのような「寛容さ」を教える勧めとして今日の箇所を読むのです。
確かに41節の教えを「寛容さ」の勧めとして読むことは、わたしたちにとって有益なことだと思います。教会の群れでもそうですが、物事に対するスタンスには温度差があったり濃淡があったりします。たとえば教会が何か新しい事業を始めようとする時、明確な反対意見が出されるだけでなく、大方は賛成だけれど一部反対、一部賛成だけれど大筋で反対、また正直どちらがいいかまだ分からないという意見も出されます。そのような状況において、明確な反対意見を述べる人以外は、賛成に回ってくれる可能性がある人たち、つまり味方になってくれる可能性がある人たちと考える。そして、その人たちに丁寧に説明し対話を重ねることで、賛成者の数を増やしていくことができるのです。小さな違いに目くじらを立てずに、明確な反対者でなければ、賛成に回ってくれる可能性のある人たちだと考えて、あきらめず粘り強く説得していく。このような心構えは、多様な人が集まる群れである教会の意思決定にとっても必要なものだと思うのです。
しかし今日のところで主イエスは、そのような社会生活を円滑に進める上での処世訓を語られただけなのでしょうか。今日の箇所をもう少し丁寧に見ていきたいと思います。
今日のところは、十二弟子の一人のヨハネが主イエスに一つの報告をしたところから始まります。38節です。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」主イエスは弟子たちを二人一組にして、町々村々に派遣し、神の国の福音を宣べ伝えさせ、悪霊を追い払う権威を授けました。そのような伝道活動をしていた時に起こったことでしょう。主イエスの弟子ではない人が、主イエスの名によって、悪霊追放の業を行っていました。主イエスの時代にあっては、こうした悪霊追放や不思議な業を行う人が、一定数いたようです。そのような人々は自分が信じる神の名によって、悪霊追放を行っていたようです。ところがゼベタイの子ヨハネが伝道活動をしていた時、彼は「主イエスの名によって」悪霊追放している人を見かけました。ヨハネは「主イエスの名によって」行うなら、自分たちと同じように主イエスの弟子になりなさい、と詰め寄ったのでしょう。しかし、その人は主イエスの弟子に加わることを拒否しました。そこでヨハネは、主の弟子にならないなら、主の名によって悪霊追放してはならないと一喝したというのです。ゼベタイの子ヤコブとヨハネには、主によって「雷の子」いう綽名が付けられていました。声も大きく人を圧倒する男性だったのでしょう。ヨハネは雷のように激しくこの人を叱りつけたのでしょう。
また、このゼベタイの子ヤコブとヨハネは、この後10章35節以下で主イエスに次のように願っています。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」主イエスに次ぐ、2番目3番目の地位につけてくださいと願っています。彼らには、自分たちが主イエスに選ばれた弟子だという誇りがありました。「自分たちは偉い」と思っていたのでしょう。そうした誇りからも、主の弟子にもならず主の名を使って悪霊追放をするこの人を、見逃すわけにはいかなかったのです。
そのような報告を主イエスはヨハネから聞きました。主イエスはどうお答えになったでしょう。ヨハネは主からお褒めにあずかると思ったかも知れませんが、こう答えられたのです。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(39~40節)。主イエスは、自分の名を使って悪霊追放することを「やめさせてはならない」と、明確に言われたのです。言い方を換えれば、主イエスの弟子に加わっていない者が、主の名を使って悪霊追放などをしてもよいと言われたのです。
主イエスはなぜ、弟子となっていない者が主の名を使うことを許されたのでしょうか。一つの理由は、弟子でない者が主イエスの名において悪霊追放などを行えば、このような業を通してであっても主イエスの名前は広がり、主イエス御自身に栄光を帰すことになるからでありましょう。パウロもフィリピの信徒への手紙1章15節以下で同じようなことを述べています。「キリストを宣ベ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音の弁明のために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようとする不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(フィリピ1:15~18)。どういう仕方であろうと、キリストの名が広がり、主イエスに栄光が帰されていくなら、それはよいことなのです。
また、主イエスはここで「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」と仰っています。主イエスの名を使って悪霊追放などの業を行った人は、主イエスという御方がどれほど真実で力に満ちた御方であるかを実感します。このような御業を実現される主イエスに心惹かれ、この人を信じて生きていきたいと思うようになります。たとえ正式に主イエスの弟子となっていなくても、主イエスに真剣に心を向けるようになります。主イエスは色んな仕方で、様々なところから、自分の味方となる弟子たちを招いてこられるのです。主イエスが味方を増やされる仕方は、人間が考えるよりももっと自由で大らかなのです。
かつて先の戦争の後、欧米のキリスト教文化に憧れて、多くの若い人たちが教会の門をくぐりました。教会に来た目的は必ずしも信仰を求めてではありませんでした。しかしその中でイエス・キリストに捉えられて洗礼を受け、教会を支える信仰者に成長した人たちが多く与えられました。また、教会は今も女性の方が多く、男女比は1:2以上と言われていますが、かつて教会の門をくぐる男性の少なくない人が、女性との出会いを目的として教会に来たと言われます。しかし最初の動機がどうであれ、その後キリストに捉えられ洗礼を受けた多くの男性が、牧師として献身したり、長老として教会を支えるようになったことを、わたしたちは知っています。イエス・キリストは「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と仰いました。そして自分の弟子になっていない者が、主の名を使うことをお許しになりました。主イエスは、何とかして人々をご自身の救いへと招こうとされています。わたしたちは、このような主イエスの伝道への熱意を受け継ぎたいと願うのです。
さて、今日の箇所で主イエスは、弟子に加わっていない者に、ご自身の名を使うことを許されました。しかし主イエスは、わたしたち一人ひとりが主の弟子とならなくてよい、と考えられているのではありません。先週申し上げたように、ガリラヤを素通りされ、エルサレムへと向かわれた主イエスは、主(おも)に弟子たちに向けて語られます。苦難と十字架の道を歩もうとされる主イエスの弟子としての心構えを、教えられます。ところが、先週の箇所で弟子たちは、「だれがいちばん偉いか」と道々議論していました。主イエスがこれから歩もうとされる道を、少しも理解していない弟子たちの姿が暴露されます。しかし、そのような弟子としてあまりにも情けない十二弟子を、主イエスは見捨てたり見限ったりはされません。それどころか、これからの苦難と十字架、復活の道のりを通して、主イエスは十二弟子を主の御後に従う弟子たちへと成長させてくださるのです。
主は39節で「わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい」と仰っています。しかし、本当にそうだったでしょうか。主の一番弟子を自任していたペトロも他の弟子たちと共に、主の名において悪霊追放や他の力ある業を行っていたでしょう。しかし、そのペテロは主イエスが逮捕され大祭司の館に連れられていったとき、どのような行動を取ったでしょうか。ペトロは自分の身を守るために、主イエスとの関係を否定しました。そして「ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」(マルコ14:71)というのです。主の弟子であることを誇っていたペトロをはじめとする弟子たちは、39節が言うようなささやかな味方にすらなれなかったのです。それが、その時の弟子たちの掛け値のない現実だったのです。
しかし、弟子たちはエルサレムにおいて、主イエスの苦難と十字架の死、三日目の復活を経験します。そして主が昇天された五十日後には、聖霊降臨の出来事を経験します。その一連の出来事を通して、イエス・キリストの名(イエス・キリストご自身と言い換えてもよいでしょう)が、いかなる名であるかを知ります。その名の尊さと重さを知ったのです。その名は悪霊追放をする力だけにとどまりません。その名は弟子たちをはじめとするわたしたち反逆者のために血を流してくださった方の名です。その名はわたしたちすべての人間の罪を赦し、わたしたちを義とする力のある名です。昇天し神の右の座に座られ、ご自身の聖霊を降し、地上に教会を誕生させた方の名です。最初の弟子たちは、自分たちに与えられ、自分たちが担っているイエス・キリストの名が、どのようなものであるかを示されました。弟子たちはそのような一連の出来事を通して、主イエスの御後を歩む弟子たちへと成長させられていったのです。
このようなプロセスは、十二弟子だけではなく今日の弟子であるわたしたちにも当てはまります。キリスト者となってからも、わたしたちは主イエスのことを本当には理解できていないかもしれません。理解不足や間違った思い込みに陥っているかも知れません。しかし主イエスは、そんなわたしたちを見限ることなく、主の名を信じ、主の名を担うことがどんなに貴く、重みのあることかを分からせてくださいます。そして、わたしたちがその全存在をかけて、救い主イエス・キリストに栄光を帰す者となるよう導いてくださるのです。
今日の箇所の最後で、主イエスはこう言われています。「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」ある注解者はこの箇所について、次のような印象的な言葉を記しています。「一杯の水、それほど小さな表れであっても、キリストの名がその人の中で受け入れられることを、天が喜んでいるのである」。この世で伝道をするとき、キリスト者は関わる人たちにキリストの名を伝えます。その名を聞いて、その人たちが水一杯を差し出すほどの小さな好意を与えてくれるとき、天に喜びがあると言うのです。そして、その人たちは神様によって覚えられ、必ず報いを与えられると言うのです。わたしたちがイエス・キリストの名を伝えるということは、小さなことではありません。そのことを神様が覚えてくださるような大いなる出来事となるのです。この主イエスの御言葉に励まされて、新しい一週間もキリスト者として歩み続けてまいりましょう。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を捧げることができ、感謝いたします。あなたは主の弟子である私たちを遣わし、福音宣教を進められます。あなたはわたしたち人間が思いも寄らない仕方で、人々を救いへと招かれます。あなたのなさり方の自由さ、熱心さに私たちは、いつも驚かされます。わたしたちの宣教には、あなたの熱い思いが注がれています。どうかそのことを信じ、あなたに依り頼む中で宣教の業を進めさせてください。11月に入っても寒暖差のある不順な天候が続きます。どうか、教会につながる兄弟姉妹の心身の健康を守り、あなたの祝福のもとで歩ませてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。