御子に似た者となる望み

ヨハネの手紙一2章28節~3章3節   2024年11月10日(日) 主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今朝、私たちは先に天に召された、愛する方々を覚えて礼拝を守っています。皆さんのお手許には、その方々の名前を記した名簿があるかと思います。

私たちは、自分の家族のような親しい者の死に立ち会い、初めて死というものに直面させられるという所があるのではないでしょうか。もちろん、自分自身が命に関わるような大病をされた方にとっては、どうしても死を意識せざるを得ないのですけれど、そうでもない限り私たちは死というものを自分の意識の外に置いて生きているのだろうと思います。しかし、今朝私たちは、天に召された愛する者たちを覚えて、ここに集ってきています。どうしても、死というものについて、まじめに向き合わなければなりません。他人事(ひとごと)としてではなく、自分の愛する者の死です。

 この名簿にある方々は、皆キリスト者として死んだのです。キリスト者として生き、キリスト者として死んだのです。このことは決定的なことです。キリスト者とは、神の子とされた者であるということです。人は生まれながらにして神の子である訳ではありません。神の子となる。神の子とされるのです。どのようにして神の子となるのか。誰によって神の子とされるのか。それは、ただ主イエス・キリストを信じて洗礼を受けることによって、神様ご自身が私たちを神の子となさるのです。キリスト者が神の子であるというのは、自分がそう思っているとか、人がそう見てくれるということではありません。そんなことはあり得ないでしょう。先に天に召された方々が、どんなに立派な人たちであったとしても、「あの人は本当に神の子であった」などとは誰も言ってくれませんし、キリスト者はそれほど立派な人たちばかりである訳でもありません。キリスト者が神の子であるというのは、神様御自身がそのような者として見て下さり、呼んで下さっているからなのです。神様が私たちを「我が子よ」と呼び、私たちを神の子と見て下さっているということなのです。

 しかし、このことは実に驚くべきことではないでしょうか。私たちの一体どこに、神の子と呼ばれるにふさわしい所があると言うのでしょう。どこにもありません。神の子と呼ばれるにふさわしい所など、私たちのどこを探してもないのです。にもかかわらず、神様は私たちを神の子と見て下さるのです。今日のヨハネの手紙 一 3章1節にはこうあります。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。」私たちが神様によって神の子と呼ばれるのは、神様がそれほどまで愛して下さったからだと言うのです。そのことを考えてみなければならないと言うのです。どうして、私たちが神の子と神様から呼んでいただけるのか。それは神様が私たちを愛して下さったからです。その愛は、神様に逆らい、敵対し、弱く、罪を犯して生きるしかない私たちのために、愛する独り子をこの世に遣わし、私たちのために、私たちに代わって十字架にかけるほどのものだったのです。このキリストの十字架によって示された神の愛によって、私たちは神の子と見なしていただき、神の子として受け入れていただいたのです。

このことをはっきりと語っているローマの信徒への手紙5章6、8節を読んでみます。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」この愛によって、キリストを信ずる者は神の子とされた。そう神様は宣言して下さったのです。キリスト者が、私たちが神の子であるとは、そういうことです。

世の人が誰も神の子とは思ってくれなくても、神様は神の子と呼び、神の子として受け入れて下さっているということなのです。キリスト者として生きるとは、神様によって神の子として受け入れられた者として生きるということなのです。その人が、たとえ死ぬ直前にキリスト者となったとしても、神の子らしいことを何一つできずに天に召されたとしても、その人はキリスト者として生き、キリスト者として死んだのです。神の子として生き、神の子として死んだのです。神様がそのように見てくださるからです。キリスト者である、神の子であるということは、神様がキリストの十字架のゆえに私たちをそのように見て下さる、受け入れて下さるということなのです。

 この神の子とされたキリスト者の死とは、どういうものなのでしょうか。2節を見てみましょう。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」とあります。聖書は、死んで後のことについて、天国はこんな所ですと、絵を描くことができるように告げることはありません。「自分がどのようになるかは、まだ示されていません」と言われています。死んだら、魂は肉体を離れてとか、肉体は死んでも魂だけは残ってとか、そんなことはわからないのです。私たちはそのようなことに興味があるかもしれません。しかし、聖書はそのようなことには興味がないのです。そのようなことは、人間が知ることのできることの外のことなのです。知らされていないからです。ですからわからないのです。そんなことはわからなくて良いのです。聖書は私たちの興味に基づいて記されたものではないのです。

しかし聖書は、もっと重大なことを私たちに告げます。それは、「御子が現れるとき、御子に似た者となる」ということです。私たちはすでに神の子とされています。神様によって神の子と見なされ、神の子として受け入れられています。しかし、私たちの中には神の子としてふさわしい実体が備わってはおりません。誘惑に弱く、悪に陥りやすく、罪を犯しやすい私たちです。罪を悔い改めてはまた、犯してしまうような者です。しかし、それにもかかわらず神の子とされています。神様は、私たちのこの姿をこのままにはされません。主イエス・キリストが再び来られる時、私たちはただ独りのまことの神の子である、主イエス・キリストに似た者に造り変えられるのです。主イエス・キリストに似た者として、主イエスが三日目に墓からよみがえられたように復活するのです。ここに、私たちの一切の希望があります。

 それはちょうど、宝石の原石が石ころのようにしか見えなくても、磨いていくと、全く別のもののように光り輝くのに似ています。あるいは、イモ虫がやがてサナギになり蝶になって羽ばたくのに似ています。私たちは、この地上の歩みにおいては、宝石の原石のようなもの。他の石ころと見分けることができないような存在かもしれません。しかし、宝石の原石は磨けば宝石になります。それが、主イエスが再び来られる時なのです。あるいは、イモ虫はどう見てもやがて羽ばたく蝶になるようには見えません。しかし時が来れば蝶になる。それが、主イエスが再び来られる時なのです。私たちが「神の子」とされているということは、私たちが「神の子」の原石であり、イモ虫であり、やがて時が来れば、「キリストに似た神の子」という宝石に、蝶に変えられるという約束をいただいているということなのです。

この主イエスが来られる時、全てが変わるのです。それは、神様がこの世界を造られた創造の時の再現です。新しい創造の時です。私たちはその時、すでに「神の子」とされていた者として、まことのただ独りの神の子である主イエス・キリストに似た者とされるのです。それは、私たちがキリストのように考え、キリストのように愛し、キリストのように仕え、キリストのように父なる神様と顔と顔を合わせてまみえるような、親しい交わりを与えられるということなのです。ここに私たちの希望があります。

 私は牧師として、天国が、神の国がどういうところなのか質問されることがあります。天国が、神の国がどういう所なのか、ペットの「○○ちゃん」もいるのでしょうかと聞かれることがあります。天地を造られた神様が新しく造られる神の国なのですから、きっといるでしょう。そう答えます。しかし、私たちが神の国・天国について知っておかなければならない大切なことは、「○○ちゃんが居るかどうか」ということではありません。大切なことは、天国はどういう所かということよりも、天国においては私たち自身が造り変えられるということなのです。もし私たちの罪が解決されなければ、そこがどんなに素晴らしい世界であったとしても、○○ちゃんがいたとしても、そこでは必ず争いが起き、嘆きがあり、悲しみが生まれるのです。そのような所は決して天国でもないし、神の国でもないのではないでしょうか。神の国においては、私たちがキリストに似た者とされるのです。ここに、神の国の希望、神の国の喜びがあるのです。私たちが神の子とされているということは、私たちが神の国において、その罪を全てぬぐわれた者として新しく造り変えられるという、希望の約束が与えられているということなのです。そして、この神の国の希望は、私たちがこの地上の生涯において出会うどんな苦しみ、悲しみ、病、貧しさ、災い、そして死によっても破られることはありません。なぜなら、この希望は、この地上の生涯において成就するものではないからです。主イエス・キリストが再び来られる時に、成就するものだからです。しかし、この希望は、私たちの地上の生涯と無関係ではありません。なぜならこの希望の約束こそ、私たちがこの地上の生涯を歩む上での道筋を示すものとなるからです。

3章3節に「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」と記されています。キリストに似た者とされる希望を持つ者は、この地上の生涯の歩みにおいて、すでにキリストに似た者となることを目指して歩み出すのです。この目標は、この地上において成就されることはありません。しかし、この目標に向かって私たちは歩みます。なぜなら、私たちはすでに「神の子」とされているからです。私たちは今朝、キリストに似た者にされるという希望の約束を聞きました。この希望に生きる者として、キリストに似た者となることを目指して、この一週間も、主の御前を歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日はこの礼拝を先に召された信仰の先輩方を覚える召天者記念礼拝として守ることができ、感謝をいたします。先に召された兄弟姉妹は、イエス・キリストの救いによって神の子とされて、信仰の生涯を歩みました。終わりの日にイエス・キリストに似た者となる希望を抱いて、あなたの御許に召されました。どうか私たちもその後に続くものとしてください。一人一人の信仰生活を導いていてください。また今日ここに出席された兄弟姉妹のご家族を、あなたが祝してくださり、あなたの恵みで満たしていてください。このひと言の切なるお祈りを主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。