創世記15章7~21節 2025年7月13日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
神様は、アブラムを満天の星空のもとに立たせて、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と言い、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。そして最後に、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と結ばれていました。15章5~6節の有名な御言葉です。
「義」というのは、説明しにくい概念のひとつですが、ひと言で言えば、「ただしさ」ということです。もっとも聖書で言う「ただしさ」とは、必ずしも「間違いを犯さない」というようなことではありません。それは、神様と人間の間に「きちんとした関係が成り立っている」ということ。関係概念なのです。
やがて新約聖書において、この創世記15章前半はとても大きな意味をもつようになります。特にパウロは、ここに信仰の根源のようなものを見いだしたのでした。つまりアブラムはなんらかの行いによって義と認められたのではない。言い換えれば、犠牲の捧げものであるとか、割礼であるとか、あるいは善行をするとか、そういう行為によってではなく、ただ「神様の約束を信じた」という信仰によって義と認められ、それによって神様と「きちんとした関係をもつことができるようになった」ということです(ローマ4:3、9~11参照)。それが私たちの信仰の模範であるというのです。パウロは、これをイエス・キリストヘの信仰、つまりイエス・キリストを信じることによって義とされる、というふうに展開していきました。
これは「行いはどうでもよい」ということではありません。私たちは、そこで神様ときちんとした関係にあるならば、それにふさわしいよい行いをするように、よく生きるようにと、促されていくのです。
さて、そこから15章の後半へと移っていきます。この後半は、前半とは随分異質な感じがします。犠牲の動物などの血なまぐさい記述があります。実は、この15章後半は、前半よりもかなり前の時代に書かれたものであると言われています。6節と7節の問には断絶があり、ここでがらりと調子が変わります。6節までは神学的、あるいは思想的な感じがするのに対して、7節以下は素朴で生々しい物語です。9~12節をご覧ください。
「主は言われた。『三歳の雌牛と、三歳の雌山羊と、三歳の雄羊と、山鳩と、鳩の雛とをわたしもとに持って来なさい。』アブラムはそれらのものをみな持って来て、真っ二つに切り裂き、それぞれを互いに向かい合わせて置いた。ただ、鳥は切り裂かなかった。はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った。日が沈みかけたころ、アブラムは深い眠りに襲われた。すると、恐ろしい大いなる暗黒が彼に臨んだ」。そして17節にはこうあります。
「日が沈み、暗闇に覆われたころ、突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた。」(15:17)
先ほど申し上げたように、血なまぐさい記述ですが、これは非常に古い時代からの契約の習慣がベースになっていると言われます。大昔、誰かと誰かが契約を結ぶときには、次のようにいたしました。契約をする当事者が立ち会いの上で、いけにえの鳥や動物を真っ二つに切り裂き、その死体を向かい合わせに置きます。そしてその二つに裂かれた動物の間を両方の当事者が通るのです。それは、もしもどちらかがこの契約に違反することがあれば、この裂かれた動物のようになっても文句は言わない、ということを意味したそうです(エレミヤ34:18参照)。自分に呪いをかけるようなものです。だから必ずこの契約を守る、という誓いを込めた儀式でした。
しかし神様と人間の契約は、初めから不釣り合いな中で結ばれる契約です。もしも、これを厳格に適用しようとすれば、人間は滅びるしかありません。それでも神は、人間と真実な関係(=義なる関係)をもち続けようとされる。どうすればよいのか。特別な形で契約を結ばれるのです。それは、対等な関係の契約ではなく、神が人間に向かって誓いを立てるという契約です。
神様は、アブラムに動物を持って来させ、それを置かせました。夜になってから、「突然、煙を吐く炉と燃える松明が二つに裂かれた動物の間を通り過ぎた」(15:17)とあります。神様の側の何かが通り過ぎたのです。アブラムのほうは、その裂かれた動物の間を通っていません。これは、一方的な神の契約であると言ってもよいでしょう。これは、神がアブラムを裏切らないという誓いのしるしでありました。もしも「それでは私も」というふうに、アブラムも同じように誓いを立てた上で成立した契約であれば、アブラムは、いつの日か引き裂かれることになったかもしれません。
これはノアのときの契約を引き継ぐものであると思います。あのノアのときも、神様が一方的にノアと契約を結ばれました(9:9)。神と人間が条件付きで契約を結べば、人間の不誠実によってそれが破綻してしまうということを、神はご存知なのです。どんなにしても神は人間と真実な関係をもち続けようとされる。そのために一方的に、ご自分の側で犠牲を払うのです。いわばご自分に呪いをかけられるのです。ノアの神、アブラハムの神とは、そういう神です。人間のほうがどんなに神を裏切ろうとも、神は「私は裏切らない」と言われる。
ですから、私たちが、その神様とただしい関係をもち続けるために求められているのは、神がそういう神であることを知って、その神を信頼し切るということです。「ただ信仰によってのみ義とされる」という言葉は、そういうことを意味しています(ローマ3:21~28参照)。そしてそれはイエス・キリストを信じる信仰へとつながっていきます。つまり神のその意志、誠実であろうとする意志、どんなにしてでも人間との真実な関係をもち続けるという意志が、イエス・キリストをこの地上へと遣わすことになります。
さらに、このとき、二つに裂かれた動物、そしてその間を、煙を吐く炉と松明が通り過ぎるという出来事は、イエス・キリストの受難、十字架をも指し示しているのではないでしょうか。イエス・キリストこそは、神と人間が真実な関係をもち続けるために遣わされたお方であり、イエス・キリストこそは、神ご自身が供えられた犠牲の捧げものであったからです。イエス・キリストが神の小羊であるとは、そのことを指し示しています(ヨハネ1:29参照)。
11節を見ますと、「はげ鷹がこれらの死体をねらって降りて来ると、アブラムは追い払った」とあります。いかがでしょうか。私は、これは私たちの信仰生活を暗示しているように思います。信仰をもつということは、そのじゃまをするものを追い払うような一面があるのではないでしょうか。神様と私たちとの間に割って入り、その関係を妨げるものがあるのです。信仰生活はある意味では戦いなのです。
私たちは、私たちを神から引き離そうとする力、誘惑に取り囲まれています。信仰をもたない人からすれば、「あいつはなんであんな馬鹿げたものを信じているのだろう」と笑われそうです。アブラムは、それをひたすら追い払ったのです。私たちの信仰生活もそのようなものでしょう。
信仰とは、神との約束に固着し続けることです。つらい試練の中で神を信じられなくなることがあります。さまざまな誘惑の中で神など忘れてしまうこともあります。あるいはそんな神様の一方的な約束などはあるはずがない、そんなことが許されるはずがない、という思いもつきまといます。そういう神様から引き離そうとする力と絶えず戦っていなければ、私たちはすぐに離れてしまいます。だから私たちは、「我らを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」と祈るのです。
さて最後になりましたが、13~16節の言葉に注目してみましよう。ここにも大切なことが記されています。アブラムの深い眠りの中で、神様が語られた言葉です。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。しかしわたしは、彼らが奴隷として仕えるその国民を裁く。その後、彼らは多くの財産を携えて脱出するであろう。あなた自身は、長寿を全うして葬られ、安らかに先祖のもとに行く。ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである」(15:13~16)。
不思議な言葉です。後に、「どうして自分たちは、神様の約束にもかかわらず、つらい経験をするのだろう。エジプトで奴隷になってしまったのだろう」という問いがあって、それに答えるかのようにして、後の時代の人によって挿入されたとも言われます。
私は、ここにも信仰生活の不安、疑い、戦いというものがよく表されていると思います。どうして神様は約束を果たされないのか。約束の遅延です。信仰生活というのは、別の言葉で言えば、待つことだと思います。深い闇に包まれることもあります。ちょうどこのときアブラムが経験したように、大いなる暗黒が私たちに臨むこともあります。
このときのアブラムにとっては、息子が与えられるという小さな約束ですらも、さらにさらに待たされることになりました。イシュマエルが与えられても、「その子ではない」と、さらに引き伸ばされました。この記述からしますと、神が約束されたことが本当に成就するのは、まだまだこれから四百年以上も先であるというのです。気の遠くなるような話です。しかもその間には奴隷となって、他の民族に仕えなければならないという屈辱的なことまで含まれています。もしも信仰と希望がなかったならば、神様の約束は果たされなかったということになっていたでありましょう。
アブラムも、子どもが与えられないというつらい状況の中で、ただ神から待つことを強いられました。これから先も、すぐにその約束がかなえられるわけではありません。しかし、信仰とは神の約束を信じて待つことです。どんなに苦しい状況にあっても、その状況を神が知っていてくださり、それをいつの日か喜びに変えてくださると、信じて待つことです。どんなに不可能に思えることであっても、もしもそれが必要なことであれば、必ず神がかなえてくださると、希望をもって耐えることです。そして「待つ」ことは決して受動的ではありません。待つということは祈るということです。祈るということは戦うということです。信仰の戦いによって、私たちは内側から強められていくのです。どんな厳しい道を通らなくてはならないとしても、希望をもって待ち続ける私たちでありたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に礼拝を守ることができ、感謝いたします。
父なる神様、あなたは一方的な恵みによって私たちと契約を結び、私たちをイエス・キリストの十字架と復活による救いへと導き入れてくださいました。あなたの契約は何があろうとも必ず果たされます。約束は破られることはありません。どうか、約束の実現を忍耐強く、祈りをもって、待ち望むことができますよう、私たちを励ましていてください。今週は猛暑に加えて、台風の接近が予想されています。どうか、兄弟姉妹の心身の健康を支え、様々な危険からお守りください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。