マルコによる福音書4章13~20節 2023年12月3日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
今朝与えられております御言葉は、主イエスがお語りになった「種蒔く人」のたとえの説明の部分です。「種蒔く人」のたとえは、一度聞いたら忘れられない、とても印象的な話です。日曜学校の子どもたちも知っている有名なたとえです。こういう話でした。「種を蒔く人が、種を蒔いた。ある種は道端に落ち、その種は鳥に食べられてしまった。ある種は石ころだらけの所に落ち、すぐに芽を出したけれど根がないため枯れてしまった。ある種は茨の中に落ち、茨に覆われて実を結ばなかった。そして、ある種は良い土地に落ちて、芽が出て、育って、30倍、60倍、100倍の実を結んだ」というものです。
このたとえ話は大変印象深いのですけれど、何を語っているのか、これだけを聞いたのではよく分からないのではないかと思います。この話そのものは、当時のパレスチナ地方における種蒔きという農業の一場面を語っているに過ぎません。その様子は、私たちが考える種蒔きの様子とは随分違います。私たちが種を蒔く場合、畑を耕して、畝を作り、一粒一粒丁寧に蒔きます。しかし、主イエスの時代の種蒔きは、おおらかと言いますか、おおざっぱと言いますか、種を片手に握っては、文字通りばら蒔いていくのです。それから畑を耕して土をかけるのです。ですから、種が畑の外に飛んでしまうこともありました。道端、石地、茨の生えた中に落ちてしまうこともあったでしょう。当時の人は、種蒔きの農作業を思い起こしながらこの話を聞いていたに違いありません。そんなこともあると思いながら、一度聞いたら決して忘れなかったと思います。しかし、このたとえ話が何を語ったものなのか、それは決して分かりやすくなかったと思います。教会に長く来ておられる方は、この話を聞けば、すぐに「ああ、あの話ね」といった具合に、このたとえ話が何を意味しているのか分かるでしょう。しかし、教会に来られて間もない方は、このたとえ話を聞いて、昔の種蒔きの作業の一場面を語っていることは分かっても、何を意味しているのか、主イエスは何を語ろうとされたのか、そのことがすぐに分かるという人はまずいないのではないでしょうか。
しかし幸いなことに、このたとえ話には13節以下に、主イエスが弟子たちにされた、たとえの説明が記されています。たとえ話を理解する上で決定的に重要なのは、そのたとえの中に出てくるものが何を指しているかということです。このたとえ話の場合、この蒔かれた種とは神の国の福音でした。それでは道端とは、石ころだらけの所とは、茨の地とは、良い土地とは、何かということです。
先週私たちは、「種蒔く人」の側に自分を置いて、このたとえに聞くことをいたしました。しかし今日は「種を蒔く人」だけでなく、種が蒔かれる「畑」にも注目したいと思うのです。すでに見てきましたように、この「種を蒔く人」の中に主イエスを見ることができ、さらには私たち自身を見ることもできます。私たちはまた、この「畑」の中に私たち自身を見ることもできるのです。
主イエスは四種類の土地について語られました。一つは道端、一つは石だらけで土の少ない所、一つは茨の中、最後に「良い土地」です。「四種類の土地」と申しましたが、実は主イエスは、互いに離れた四つの別な場所について語っておられるのではなく、一つの畑の話をしておられるのです。
道端というのは、人が通って踏み固められた、畑の中にできた道のことです。また、「石だらけで土の少ない所」も同じ畑の中です。もともとパレスチナの土地には石が多いのです。その石を一生懸命取り除いて畑にするのです。しかし、全部の石を取り除くことは到底できません。石はどうしても残ります。ここで言われているのは、そのような石の上に薄く土が残っている場所のことです。また畑には「茨」もつきものです。深いところに根を張っています。先週申しましたように灌漑は行いません。ですから深く耕すこともしないのです。水分が蒸発してしまうからです。それゆえに深い茨の根は残ります。それが麦と一緒に延びてくることは、いくらでもあったようです。
私は、このたとえ話を今までたくさんの教会員、求道者の方と読んできましたが、この話の中で、自分はどれに当たると思いますかと聞いて、良い土地ですと答えた人は一人しかいません。その他の100人を超える人たちはほとんど、石ころだらけの所あるいは茨の地と答えます。不思議なことに、道端という人もあまりいないのです。牧師と聖書を読もうして来ている人たちですから、自分は道端ではないだろうと思うようです。
確かに、「自分は良い土地です。」そうはなかなか言えないと思います。まして信仰のゆえに苦しい目に遭う。迫害なんかに遭ったとしたら、信仰を守り切る自信なんて、誰にもあるというものではありません。そうすると、石ころだらけの所かなと思う。あるいは、いろいろな思い煩いがあって、信仰の生活に徹底できない自分がいる。富の誘惑だって大きい。そう考えると、自分は茨の地かなと思う。それが普通なのだと思います。
この話の中に自分自身の身を置きますと、いろいろと見えてくることがあるのです。13節以下の主イエスの解説を読みます時、とても耳の痛い話として響いてくるかもしれません。主イエスは言われました。「道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」(15節)。すると私たちは思います。「ああ、これはわたしだ。いつもサタンに御言葉をもっていかれて、何にも残らない。わたしは道端だ」。
さらに主イエスは言われます。「石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」「また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」どれもこれも、自分に当てはまるように聞こえるかもしれません。
しかし、先にも申しましたように、道端も石だらけの所も茨の地も良い地も、それぞれ別の場所にあるのではなくて、一つの畑の話なのです。ですから、道端が永遠に道端とは限りません。次の年には、石だらけの土地から石が取り除かれているかもしれません。茨が次の年にも生えているとは限りません。どれも皆、良い土地となり得る、畑の一部なのです。御言葉を聞いて受け入れるならば、三十倍、六十倍、百倍という大いなる実りをもたらす、そのような土地なのです。
私たちはそのような土地となり得るのです。そのような私たちとして主イエスは見ていてくださり、今も主は収穫を期待して種を蒔いていてくださっているのです。だからこそ主は言われるのです。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。
主イエスは私たちに種を蒔いてくださった。道端のような私たちの心に御言葉を与え、神の国が来ていることを、神様の御支配の中に私たちがすでに生かされていることを知らせようとしてくださった。そして、主の日のたびごとに、種を蒔き続けてくださっている。種を蒔くだけではなくて、様々な人との出会い、また様々な出来事を通して、導き続けてくださっているわけです。何とかして、私たちの中に御言葉が芽を出し、根を張り、大きく成長するようにと育んでくださっている。私たちが、道端から良い地へ、石地から良い地へ、茨の地から良い地へ変わるようにと、働き続けてくださっているのです。だから、私たちは良い地になることが求められています。私たちも良い地になることを求めていますし、必ず良い地になることができるのです。私たちはそのことを信じて良いのです。どうせ自分は石地だ、茨の地だと諦めてはならないのです。それは自分に対してだけではありません。あの人もこの人も、自分の愛するあの人も、道端のままであるはずがないのです。そのことを信じてよいのです。神の国が来ているということを信じるとは、この神様の御業、神様の御支配を信じるということなのです。
そのように種を蒔く人として主イエスを思い描き、また種を蒔かれている畑として私たち自身を見ることは、私たちにとって大事なことなのだろうと思います。礼拝堂に集まることができない週があります。高齢のために、病気のために、教会に集うことができず、それぞれの場所において聖書を開きます。ネット配信によって、説教原稿を読むことで、神様を礼拝します。礼拝堂に身を置いている時のように説教を聞くことはできないかも知れません。しかし、それでもなおその週の御言葉は与えられているのです。その時も同じように、主イエスは収穫を期待して種を蒔いていてくださるのです。
ならば大事なのはこちら側です。畑の側なのです。わたしは道端だ、石だらけの所だ、茨の中だ、などと言っていないで、自分自身が実り豊かな者となることを期待して、耳を傾けることが大事なのです。繰り返しますが、私たちはどれも皆、良い土地となり得る、畑の一部なのです。御言葉が私たちの内に留まって芽を出して実り始めるならば、何が起こるか分からない。どんな素晴らしいことがそこから起こってくるか分からない。私たちはそのような、とてつもない可能性を秘めた畑の一部なのです。
かつてジョン・ウェスレーというひとりの人が、全く気が進まないままにロンドンのアルダースゲートにおける集会に参加しました。そして、蒔かれた御言葉の種が芽を出したのです。1738年5月24日水曜日午後9時15分前頃のことでした。その時、たった一人の人間が御言葉を聞いて受け入れたことが、ある意味でこの世界を変えたのです。この人からメソジスト教会が始まりました。その実りはイギリスからアメリカに、またカナダに広がり、そしてついにこの日本にまで及びました。あの一粒の種を受け入れた土地がなければ、日本にメソジスト教会はなかったのです。
同じことが私たちの内に起こり得ます。主は「聞く耳のある者は聞きなさい」と言われます。主イエスは収穫を期待して、今日も御言葉の種を蒔いていてくださっています。そして、私たちはとてつもない可能性を秘めた畑です。私たちの内に落ちた種から始まる神の御業は、私たちの内に留まりません。三十倍、六十倍、百倍にもなるのです。大きな実りを期待しながら、今日も神の御言葉に耳を傾け、神の御言葉を私たちの内に受け入れましょう。主は言われます。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を褒め称えます。神様、今日から私たちは主のご降誕を待ち望むアドベントの時を過ごします。神の御子があなたの御許から、悩み多きこの世界に到来してくださいました。そして馬小屋の飼い葉おけの中に誕生され、御子がこの世界の最も低く、貧しく、悲惨な場所に共にいてくださることを示されました。御子は今も聖霊において、そこに留まり続けていてくださいます。そのことをこの世界に与えられた尽きざる希望として、今年のクリスマスを守らせてください。今、病床にある兄弟姉妹、高齢の兄弟姉妹、悩みや苦しみの中にある兄弟姉妹を顧みていてください。今も戦闘の止まないウクライナやガザの地をあなたが、顧みていてください。あなたの平和を、天にあるように地にももたらしてください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名によって御前にお捧げいたします。アーメン。