安心して立てる

マルコによる福音書10章46~52節 2025年2月23日(日)主日礼拝説教

                            牧師 藤田浩喜

 主イエスがエルサレムへと向かう旅の途中のことです。主イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒にエリコの町を出て行こうとしていた時、道端に座っていた盲人の物乞いが突然叫び出しました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。多くの人々が彼を叱りつけ黙らせようとしました。しかし、その男は黙りません。ますます大声で叫び続けます。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。

 なぜ人々は彼を「黙らせようとした」のでしょう。単に「うるさかったから」ではありません。大勢の群衆がざわめきながら移動している最中です。一人の叫び声などたかが知れています。黙らせようとしたのは、恐らく、その男が無礼であると映ったからです。もしローマの皇帝が行進をしている時に、誰かが「憐れんでください」と叫び出して直訴したら、無礼者として制止されるでしょう。この場面はそれに近いと言えます。イエスの一行に人々が見ていたのは、まさにエルサレムへと向かう王の行進なのです。それがはっきりと分かりますのはエルサレムに入城する時です。次のように書かれています。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた」(11:8)。そこをイエスの一行が歩いて行く。まさに王の入城のような光景です。

 そのように、人々にとって主イエスはまさに王様だったのです。いや、正確に言うならば、王となるべき御方、間もなく即位すべき御方だったのです。主イエスに従う群衆の数は、エリコを出る時点で相当な数に上っていたものと思われます。過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへと同行していた巡礼者の群れではありません。皆、主イエスが王になると信じて、ゾロゾロとついて行ったのです。ユダヤはローマの支配下にありました。しかし、主イエスは必ず我々をローマの支配から解放してくださるに違いない。そして、かつてダビデが王であった時のように、偉大なるイスラエルの王国を再建してくださるに違いない。そう信じて、ついて行ったのです。

 もちろんそのことを一番期待していたのは、主イエスが選ばれた十二人の弟子たちでした。自分たちは特別だと思っていますから。当然、主イエスが打ち建てる王国においては、特別なポジションが用意されていると信じています。ですから、先週共に学びました箇所では、ヤコブとヨハネという二人の弟子が、こんなことをお願いしたことが書かれていたのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。「栄光をお受けになる」とは、「王になる」という意味です。その時には私たちをナンバー2、ナンバー3にしてくださいとお願いしているのです。そのように抜け駆けする者も現れてくる。当然、他の弟子たちは腹を立てました。皆、同じことを考えているのですから。

 ところで、いったいどうして弟子たちは、また大勢の群衆は、主イエスが王となることなど期待できたのでしょうか。どうしてそんなことが実現すると思ったのでしょうか。常識的には考えられないことでしょう。ローマの支配は絶対的なものでしたから。にもかかわらず、人々が新しい王国の到来を期待したのは、明らかに彼らが主イエスの力を見たからです。病気の人が癒される。悪霊に憑かれた人が解放される。五千人以上の人々が満腹させられる。人々は主イエスのなさる一つ一つの奇跡に、計り知れない《神の力》の現れを見たのです。

 力に期待して、力ある者の後に着いて行く集団。力に救いを求め、力による偉大な事業の実現を求める集団。ここに見るのはそのような集団です。そして、そのような集団にとって、助けを求めて叫んでいる一人の弱い人などは、邪魔者以外の何ものでもありません。それは偉大な事業の実現にとって妨げでしかないのです。「この御方をなんと心得る!王となるべき御方であるぞ。ダビデの王国を再興する御方であるぞ。物乞いなどに関わり合っている暇などあるか!」叱りつけた人々の思いは、大方そのようなものであったに違いありません。

 しかし、あの男は黙らなかったのです。制止されても叫び続けたのです。ナザレのイエスは絶対に憐れんでくださる。声さえ届けば、絶対に憐れんでくださる。彼はそう確信していたのです。もちろん、この男も主イエスが王となるべき御方であると信じています。「ダビデの子イエスよ」と彼は叫びました。ダビデの子孫として来られたまことの王であると信じているのです。しかし、それでもなお、その王は一人の盲人の物乞いを憐れんでくださる王だと信じているのです。

 なぜでしょうか。彼は主イエスのことを伝え聞いて知っていたからです。知っていなかったら、「ナザレのイエスだ」と聞いても叫び出すことはなかったでしょう。彼は既に聞いて知っていた。問題はそこで彼が何を聞いていたかです。単に神の力の現れを聞いたのではなかった。そうではなくて彼が聞いていたのは「憐れみ」だったのです。主イエスの御業を通して現わされた、《神の憐れみ》を聞いていたのです。だから「憐れみ」を求めて叫んだのです。

 先に申しましたように、目の見える人々は主イエスの奇跡に《神の力》を見たのです。だから力ある王としてのイエスに期待をかけた。しかし、目の見える人が、必ずしも事の本質を見ているとは限りません。むしろ聞くだけだったこの男にこそ、大事なものが見えたのです。《神の力》ではなく、《神の憐れみ》です。一人の小さな者も見過ごしにされない神の憐れみです。

 聞くだけだったこの男には分かったのです。神の憐れみの王国が到来したのだ、ということを。その事実を彼は見えないその目で既に見ていたのです。苦しみのどん底で這いつくばっている一人の人間にも、目を留めて憐れんでくださる神の憐れみが到来した!神の憐れみを体現してくださるメシアがついに来られた!彼はその事実を心の目で既に見ていたのです。

 だから彼は叫んだのです。力の限りに叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを《憐れんでください》」と。――そして、この人は間違っていませんでした。主イエスは立ち止まって言われたのです。「あの男を呼んできなさい」。

 彼は躍り上がって主イエスのもとに来ました。主イエスはその人に言われます。「何をしてほしいのか」。この男はすぐさま答えました。「先生、目が見えるようになりたいのです」。この人は目が見えないゆえに苦しんできました。物乞いをしなくてはならなかったのも、そのゆえでしょう。だから、目が見えるようになりたかった。確かにそうでしょう。

 しかし、目が見えるようになることで、彼が本当に見たかったのは何なのでしょうか。それは神の憐れみではなかったかと思うのです。神の憐れみの現れである主イエスの姿を見たかったに違いない。今まで耳にしてきた御方を憐れみの到来を、何よりもその自分の目で見たかったのだろうと思うのです。

 彼の願いはかなえられました。主イエスは言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。そして、「盲人は、すぐ見えるようになった」と書かれています。しかし、目が見えるようになった彼は、そのまま立ち去りませんでした。「盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と書かれているのです。彼は開かれた目をもって主イエスの姿を追ったのです。彼の目は主イエスを追いながら、なお道を進まれる主イエスについて行ったのです。

 さて、聖書に書かれているのはここまでです。しかし、バルティマイにとって話がそれで終わりにはならなかったことは、容易に想像できます。見える目をもって主イエスの姿を追って行った先には、何が待っていたのでしょうか。この直後に書かれているのは、主イエスがエルサレムに入城されたという出来事です。そして、そのエルサレムにおいて、主は十字架にかけられて殺されることになるのです。つまりこの盲人は、目が見えるようになったために、そして主イエスに付いていったがゆえに、その目で主イエスが十字架にかけられ殺される姿を見なくてはならなかったのです。

 「見えるようになんて、ならなければよかった!わたしは見たくなかった!」彼は心底そう思ったに違いありません。しかし、もしそれで終わりなら、彼が経験したことは神の憐れみなどではあり得ないし、彼の目が開かれたというこの物語も語り伝えられることはなかったでしょう。

 なぜこの物語が伝えられたのか。なぜ聖書に書かれているのか。そのことを考えて改めて読みますときに、この盲人の物乞いの名前があえて書き記されている事に気づかされます。もともと物乞いの名前を皆が知っていたはずがありません。にもかかわらず、福音書に名前があるということは、この福音書が書かれた頃、バルティマイがキリスト者として教会において良く知られていた人物だったということです。他に名前が記されている、あの十二人たちのようにです。彼はイエスに従った。そして、ティマイの子、バルティマイの名は、教会の歴史の中に書き残されることとなりました。

 言い換えるならば、十字架につけられた主イエスを目にした悲しみは、それで終わらなかったということです。やがて彼は知ることになったのです。このキリストの十字架こそ、罪の贖いの犠牲であり、罪の赦しと救いに他ならないということを。その意味において、彼はその開かれた目で、神の憐れみを見た人だと言えるでしょう。私たちの罪を赦すため、罪のあがないの犠牲として御子をさえ死に引き渡される、神の計り知れない憐れみを彼は見たのです。彼はその開かれた目をもって、神の憐れみの王国が確かにイエス・キリストにおいて到来したことを見たのです。

 「あなたの信仰があなたを救った」。主が彼の目を癒された時、主はそう言われました。そして、確かに彼は、ただ目を癒された人ではなく、救われた人として、どんな小さな一人に対しても向けられている計り知れない神の憐れみを、今もなお私たちに指し示しているのです。そして、彼と共に信じるようにと、主は私たちを招いていてくださっています。私たちもまた、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞くことができるようにと。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。今日も敬愛する兄弟姉妹と共に、対面でオンラインで礼拝を守れますことを心から感謝いたします。神さま、あなたは御子イエス・キリストを通して、私たちへの深い憐れみをお示しくださいました。その憐みは御子を十字架にかけ給うことによって、私たちを罪と死から贖い出すほどに深い憐れみでした。私たちは今もあなたの憐みの中で、安心して生きていくことができます。そのことに深く感謝して歩む者とならして下さい。今しばらく冬の寒さが続きます。どうか大雪のために困難の中にある人たちを、守り支えていてください。教会に連なる兄弟姉妹の心身の健康をお支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。