唯一の真実の王

マルコによる福音書15章1~15節 2026年1月11日(日)主日礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜

 今朝与えられている御言葉には、総督ピラトによって主イエスが十字架に架けられることが決められた場面が記されています。ここには、主イエスの周りを取り囲むように、四つのグループの人々が出てきます。第一は、総督ピラトです。彼は、ローマから遣わされているユダヤの総督でした。彼が主イエスを十字架につけることを決めたのです。第二は、祭司長・長老・律法学者といった、最高法院を構成していたユダヤの指導者たちです。彼らが主イエスを死刑にすべきだと決めて、総督ピラトの元に主イエスを連れて来たのです。第三に、群衆です。「十字架につけろ」と叫んで、ピラトに主イエスを十字架につける決断を迫ったのでした。第四に、バラバです。彼は暴動を起こして人殺しをし、投獄されていた人です。彼は主イエスが十字架に架けられることになって、本来自分が十字架に架けられることになっていたのに、釈放されることになりました。まことにラッキーな人でした。

 主イエスの十字架への歩みを読み進める中で思わされることは、主イエスの十字架は、誰か一人の責任、誰か一人の罪によってもたらされたものではないということです。今日の所で言うならば、祭司長・長老・律法学者たちの訴えがなければ、主イエスは十字架に架けられることはなかったでしょう。しかし、彼らだけで主イエスを十字架に架けることができたかというと、そうではない。だから総督ピラトの所に連れて来たのでしょう。当時のユダヤの指導者たちには、死刑を執行することはできなかったからです。だったら総督ピラトが悪いのか。確かに、使徒信条やニカイア信条には「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ」とあります。彼ほど、世界中で自分の名前が唱えられている人はいないでしょう。しかも良い意味ではないのです。主イエスを十字架に架けた人として唱えられ、覚えられているのです。

 しかし、今日の所を読んでみますと、ピラトは主イエスを何とか十字架に架けないで済むように動いている。しかし、それを阻止したのは、群衆の「十字架につけろ」という叫びでした。もちろん、祭司長たちが主イエスを亡き者にしようとしなければ、主イエスを捕らえることがなければ、こうはならなかった。また、ピラトが「イエスを十字架には架けない」と宣言すれば、こうはならなかった。私はこの場面を思いながら、祭司長・長老・律法学者たちと総督ピラトそして群衆が、それぞれ役割を果たしながら、それぞれの人々の中に渦巻く罪が一つになって、牙をむいて主イエスに襲いかかっている、そんなイメージを持ちました。あの人がこう言ったから、この人がこうしたから、そんな個人の力や業によるのではなくて、人間の奥底にある罪が連動して一つになり、黒い怪物のようになって主イエスに襲いかかっている、そんなイメージです。その罪には、積極的なものもあれば、消極的なものもあります。

 ここで消極的なのはポンテオ・ピラトです。彼は、何とか主イエスを助けようとしたのです。しかし結局、彼はそうしなかった。彼は知っていたのです。主イエスが十字架に架けられねばならないような悪いことは何もしていないということを。主イエスが祭司長たちに連れて来られたのは、「ねたみ」のためであることも知っていたのです。しかし、彼は主イエスを無罪にしなかった。主イエスを無罪放免にすれば、群衆が騒ぎ出し、暴動になりかねない。そんなことになれば、総督としての自分の立場が悪くなる。総督としての能力をローマ皇帝から疑われかねない。ピラトはローマ帝国という巨大国家の権力を代表していました。しかし彼はその力を、自分を守るために用いたのです。そして、主イエスを十字架につけることにしたのです。

 まず、総督ピラトは主イエスにこう問いました。2節「お前がユダヤ人の王なのか。」多分祭司長たちが、そのような者として主イエスを訴えたからでしょう。

 この時の主イエスの答えは、少々分かりにくい、謎に満ちたものでした。「それは、あなたが言っていることです」と主イエスは答えました。原文を直訳すると、「あなたが言った」です。これでは、ピラトの問いに対して肯定しているのか否定しているのか、よく分かりません。口語訳では意訳して「その通りである。」と訳しておりました。そのように理解する仕方もあります。しかし、これは意訳し過ぎではないかと思います。ここで主イエスは、ピラトに対して肯定も否定もしていない。そもそも、ピラトの言う「ユダヤ人の王」とは政治的な王であって、それしか彼は知りませんし、関心がないのです。その政治的な意味では、主イエスはユダヤ人の王ではありません。しかし神の子という意味なら、まことに主イエスはユダヤ人の王なのです。ですから答えようがない。そういう意味で、ユダヤ人の王というのはあなたが言っていることだ、ということでもあったでしょう。

 さらに言えば、あなたはそう言っているが、わたしがユダヤ人の王であるかどうか、本当はどう思っているのだ。そのようにも読めるでしょう。しかし、ピラトにはそのような主イエスの思いは全く通じなかったでしょう。ですから、何も答えない主イエスを、ピラトはただ不思議に思うだけだったのです。

 次に、祭司長・長老・律法学者たちです。彼らは、十字架に架けるために、主イエスを総督ピラトの元に連れて来ました。ローマの支配の下にあった彼らには、主イエスを殺すことができなかったからです。そして、こうも考えられます。ユダヤ教における処刑の仕方は、石打ちです。これも残酷なものですが、申命記21章23節に「木にかけられた死体は、神に呪われたもの」という言葉があります。彼らは、何としても主イエスを十字架に架け、主イエスを神に呪われた者として殺す、そういう意図があったのではないかと思うのです。そうすれば、もう誰も主イエスにはついて行かないだろう。そう願ったのでしょう。そして、そのためには罪状さえも変えて、ピラトの元に送ったのです。目的のためには手段を選ばない。彼らが大切にしていた十戒の第九戒に「偽証してはならない」とありますが、これを平気で破るのです。

 しかし、主イエスは反論もせず、何も答えず、黙ったままでした。主イエスはこの時、御自身がマタイによる福音書10章28節で言われた「体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」との御言葉を思っておられたのではないかと思います。主イエスは何も恐れていないのです。

 そして、群衆です。彼らは数日前、主イエスがエルサレムに入られる時、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来たるべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」と叫んで、主イエスを迎えたのです。神殿において主イエスが話されるのも喜んで聞いていたのです。しかしこの時、彼らは祭司長たちに扇動されてしまいます。総督ピラトが、「釈放して欲しいのはイエスか、人殺しのバラバか」と問うた時、「バラバを釈放せよ」と叫び、「イエスをどうして欲しいのか」と問うた時、「十字架につけろ。」と叫んだのです。私はこの時の群衆の叫びは、声を揃えて何度も何度も叫んだのではないかと思います。12~14節「そこで、ピラトは改めて、『それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか』と言った。群衆はまた叫んだ。『十字架につけろ。』ピラトは言った。『いったいどんな悪事を働いたというのか。』群衆はますます激しく、『十字架につけろ』と叫び立てた。」それは、もう誰も止められないような熱に浮かされた叫びだったのでしょう。

 群衆は扇動されただけだ。そうかもしれません。一人一人はそれほど自覚のないままに、祭司長たちに扇動されて叫んでいただけなのかもしれません。しかし私には、人間の罪が一つに合わされ、強大な力となり、ローマの総督ピラトでさえも言うことを聞かねばならないほどのものとなった。私はこの時一人一人の罪が合体し、黒い怪物のようなものになって、主イエスに襲いかかっているように思えてならないのです。先の大戦へと突入していった際の日本国民の熱狂とも重なります。先の大戦が始まるとき、日本国民は熱狂し、提灯行列をして喜んだのです。やがて自分の夫や子どもたちが戦地に行くというのにです。この時「十字架につけろ」と叫んだ群衆は、皆で一つの言葉を叫び、高揚した一体感に満ちていたのではないでしょうか。彼らもまた、主イエスを十字架につけるために、決定的な役割を果たしたのです。

 今、総督ピラト、祭司長たち、群衆といった人たちが、それぞれ主イエスを十字架に架けるために役割を果たしていったことを見ました。どれが欠けても、主イエスは十字架に架けられることはなかったのです。そして、今朝私たちが確認したいことは、この人々は、今朝ここに集っている私たちが主イエスと出会う前の姿、私たちの心の奥底に今もうごめいている罪の姿だということなのです。誰も、私はピラトではない、祭司長たちではない、この時の群衆ではないとは言えないでしょう。自分を守るためならば、平気で嘘もつくし、誰かのせいにもする。無意識にそうしている。しかし、そのような一人一人の罪が一つに合わさって、巨大な罪の台風のようなものが渦を巻いてすべてを巻き込んでいくその中で、主イエスは誰も恐れず、何も恐れず、沈黙しておられた。それはこの一切の罪を担い、これに勝利するためだったのです。

 そして、最後にバラバ。彼は人殺しでした。彼こそ暴動を起こした人であり、十字架に架けられるはずの人でした。ところが、主イエスが十字架に架けられることになって、彼は助かってしまうのです。彼は、何もしていません。自分が裁かれ十字架に架けられることから救われるために、彼は何もしていない。ただ、主イエスが十字架に架けられることになっただけです。このバラバこそ、主イエスの十字架によって救われることになった私たちの姿なのです。私たちはバラバなのです。まことに不思議です。

 人間の罪は一つの塊(かたまり)となり、神様に敵対し、主イエスに敵対し、遂に主イエスを十字架に架けて殺すことになった。しかし、そのことによって、人殺しのバラバが救われるのです。これが神様の御業というものです。人間の最も罪深い業をも用いて、その救いの御業を貫徹されるのです。私たちは、このまことに不思議な神様の御業の中で選ばれ、主イエスと出会い、主イエスを信じて従う者とされました。こうして、主イエスの前にひざまずく者とされました。罪を赦され、神の子とされ、新しい命に生きる者とされました。まことに不思議なことであり、まことにありがたいことではないでしょうか。

 今、主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶ罪から解き放たれ、主イエスを「我が主、わが神」と礼拝し、ほめたたえる者とされたことを、心から感謝したいと思います。そして、そのような御業をなさった神の御名を共々にほめたたえて、新しい一週間を歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたしましょう。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの御名を心から褒め称えます。今日も敬愛する兄弟姉妹と共にあなたを礼拝することができましたことを、感謝いたします。総督ピラトのもとでなされた裁判の場面を学びました。主イエスは無実であられましたが、ピラトによって死刑に判決を受けました。それはピラトだけがなしたものではなく、ユダヤの指導者たち、群衆たちの罪が一つの塊となって、主イエスに襲い襲いかかった結果でした。しかしあなたは、そのような人間の罪と悪が合わさり極まった主イエスの十字架によって、私たちの罪を贖い、赦してくださいました。私たちはあなたの御業に驚くことしかできません。どうぞ、十字架の死を免れたバラバの中に私たち自身の姿を見出し、あなたの御業を心から褒め称える者としてください。冬の寒さが厳しさを増しています。どうか、教会につながる兄弟姉妹一人一人の心身の健康を支えていてください。このひと言の切なるお祈りを、私たちの主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。