マルコによる福音書9章14~29節 2024年10月6日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
先週の礼拝では、高い山の上で主イエスが栄光に輝く姿に変貌され、それをペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人が目撃し、畏れの中にも感激したという箇所を読みました。今日の箇所は主イエスたちが山から降りてこられた下界の話です。霊に取りつかれてものが言えず、霊が取りつくと所かまわず地面に引き倒される子どもが、下界にいた弟子たちによって癒やされなかった。弟子たちはその子どもから霊を追い出せなかったという現実が、主イエス一行を待ち構えていたのです。
イタリアの画家であるラファエロが、山上の変貌の場面を絵に描いていますが、絵の上3分の1のところには、宙を浮く主イエスとモーセとエリヤの神々しい姿が描かれ、下3分の2には下界の混乱した様子が描かれています。その絵の中には確かに体をこわばらせた男の子が手を上げており、父親とおぼしき男性がその男の子を支えています。そして、聖書を携えた律法学者や群衆、そして弟子たちが、何かをめぐって激しく議論している様子が描き込まれているのです。下界である人間の世界で起こっていることが、いかに深刻で混乱に満ちているかを思わされずにはおれないのです。
今日の聖書箇所には、主イエスの他に、弟子たち、悪霊に取りつかれた子どもとその父親、群衆や律法学者が出てきますが、今日は子どもを連れてきたお父さんに焦点を当てて見ていきましょう。この父親は、霊に取りつかれてものが言えず、霊が取りつくと所かまわず地面に引き倒される子どもを、下界にいた弟子たちのところに連れてきました。主イエスは不在でしたけれども、あの偉大な御方のお弟子さんであれば、子どもから悪霊を追い出してくれるかも知れない。そのような期待があったに違いありません。
しかし、いくら弟子たちが真剣に祈っても、子どもの状態は以前のままでした。「やっぱりダメだったか」と落胆していたところに、主イエスが3人の弟子たちと山から降りてこられました。突然、主イエスが戻ってこられて、父親も周りの人々も驚いたようです。しかし、せっかく主イエスとお会いできたのだからと、父親はこれまでのいきさつを主イエスに説明したのです。主イエスは弟子たちが子どもを癒せなかった状況を嘆かれつつも、その子に関わろうとなさいます。そして「その子をわたしのところに連れて来なさい」(19節)とおっしゃいました。そして悪霊に取りつかれた男の子の様子をじっくりご覧になると同時に、その子の父親に質問をなさったりして、主イエスと父親との対話が進んでいくのです。
主イエスと子どもの父親との対話ですが、このお父さんは息子のことをよく見ていますし、よく知っていることが分かります。最初に息子の状態を報告した時、父親は的確な言葉で息子の様子を説明しています。「この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます」(17~18節)。そして主イエスに、「このようになったのは、いつごろからか」と質問された時も、「幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」(22節)と答えています。父親は日常生活の中で息子と関わり、必要な援助をしてきたのでしょう。そして、繰り返し命の危機に遭遇する息子に対して、父親が盾となり助け出して、ここまで命をつないできたのではないでしょうか。悪霊に取りつかれて苦しみ、壮絶な体験をしてきた息子を見てきた父親は、息子を何とか助けてやりたいと思い続けてきたことでしょう。だからこそ評判の高い主イエスの弟子たちのもとに、息子を連れてきたのでした。しかし、主イエスの弟子たちは息子から悪霊を追い出すことができませんでした。「やはり無理だったのか」、「息子をどうしてやることもできないのか」。失望と無力感は大きかったと思います。父親が主イエスにお会いできた時も、主イエスに対しても大きな期待を抱くことはできなかったのではないでしょうか。
先々週、ケニアのナイロビで障がいをもった子どもたちの療育施設「シロアムの園」を運営している公文和子先生のことを、皆さんにご紹介しました。あれから興味があって公文先生が書かれた著書『グッド・モーニング・トゥ・ユー!』(いのちのことば社)という本を読みました。『グッド・モーニング・トゥ・ユー!』は、朝子どもたちが「シロアムの園」にやって来た時に、公文先生や職員の人たちが子どもたちに笑顔で語りかける挨拶だということです。この『グッド・モーニング・トゥ・ユー!』という本には、「シロアムの園」の活動が大変詳しく紹介されています。色んな障がいをもった子どもたちのこれまでの生活や「シロアムの園」に通うようになってからの生活が、ていねいに紹介されています。
「シロアムの園」で小児科医として最も多く先生が診療するのは、感染症とけいれんだといいます。そして障がいをもった子どもたちの中には、けいれんを伴うてんかん症状が現れる子どもたちも少なくないのだそうです。そして子どもたちにてんかん症状があることは、家族に大きなストレスを与えます。てんかん症状は見ている者たちにとっても恐い感じがしますし、このまま死んでしまうのでは、という不安も引き起こします。病状が激しく、慣れていない者の目には恐ろしく見えることもあることから、ケニアの社会では「悪霊が取りついている」と考えられることが少なくありません。そしてケニアにはさらに、てんかんは伝染する病気で、特に、発作の時のよだれやおしっこから感染するという迷信があります。もちろん、てんかんは伝染する病気ではありませんが、この迷信が大きな差別や偏見を引き起こしていると言うのです。さらに、多くの場合、かなり長い期間または一生 薬を飲み続けなければならないので、経済的な負担も計り知れないのです。ケニアには公的な医療保険がなく、障がいをもった子どもたちの家庭の多くは、経済的にギリギリの生活をしています。色んな労苦を負いながら、障がいをもった子どもと共に生きているのです。
今日の聖書に出てきた子どもの状態が、今日のてんかん症状とよく似ているのは事実ですが、実際どうであったかは分かりません。しかし、今日登場しているお父さんやその家族も、現在のケニアの家庭が背負っているような重荷を、幾重にも背負っていたことはおそらく間違いありません。それだけに一縷の望みを託して主イエスの弟子たちのもとに来たのに、何の甲斐もなかった。そのことは、この父親に失望だけを残すものであったと思うのです。
さて、主イエスはこの父親にどう向かい合われたでしょう。主は悪霊に取りつかれた子どもの状態やこれまでの経緯をお聞きになって、すぐにその息子から悪霊を追い出されたのではありませんでした。すぐにそれは可能だったと思いますが、主イエスは父親とまさに真剣勝負の対話をなさるのです。主イエスは息子から悪霊を追い出すことだけを、目的とはされません。息子の父親に「信じるとはどういうことか」を分からせようとなさるのです。
父親は弟子たちへの失望感の中で、こう言います。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」(22節)父親がほとんど主イエスに期待していないのが伝わってきます。全幅の信頼は持たないが、それでも「何かあれば」という消極的な思いです。しかし主は、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(23節)と言われます。主イエスは父親の信仰が中途半端であることを暴かれます。そして信じるということは、信じる相手に自分を100%明け渡すことだと教えられたのです。「信じる者には何でもできる」という言葉聞く時、私たちは心の中ですぐにその言葉を否定してしまいます。「私たちにできるわけがない」と思ってしまいます。しかし御業をなさるのは、神の御子イエス・キリストです。この方は「何でもできる」御方です。わたしたちの目の前におられる御方が何でもできる御方であることを知って、100%この御方にお委ねする。全体重、全存在をかけてこの御方に依り頼む。それが信じるということだと、主イエスは教えられるのです。
主イエスのこのひと言に、息子の父親は目が覚めるような思いがしたに違いありません。目の前におられる方が、はっきり見えてきたのでしょう。父親はすぐに主イエスに向かって叫んだのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(24節)。これは100%主イエスにお委ねするという信仰告白だったのです。「信じます」という告白と「信仰のないわたし」という言葉は、理屈で言えば矛盾しています。「信仰のないわたし」は「信じる」と告白することはできません。しかし、わたしたち聞く者には、この告白が真実の言葉であることが分かります。「自分には信仰と呼べるものはない。今はっきりとそれが分かりました。しかしあなたは何でもできる御方であり、わたしのすべてをお委ねできる御方です。どうか信仰と呼べるもののないこのわたしを、お助けください。」主イエスとの出会いと対話によって、父親にはすべてを主に委ねる信仰が生まれたのです。自分をすべて明け渡して、100%依り頼むことのできる御方を見いだしたのです。主イエスは悪霊に取りつかれた子どもを、悪霊から解放しただけではありません。子どもの父親をも救ってくださったのです。これから後、父親が神への信仰、主イエスへの信仰をもって生きていけるようにしてくださったのです。
先ほどの公文和子先生の「シロアムの園」の生活ですが、通ってくる子どもたちの多くが心身の重い障害を持っています。一人一人に合った療育を続けても、一般の学校に行けるようになる子どもや仕事に就けるようになる子どもは、ほとんどいません。何年、何十年と療育に通いながら、家庭で過ごすことになります。公文先生や施設のスタッフの方たちが日々献身的に療育をされていますが、重い障害が無くなるということはありません。聖書の御言葉に養われ、祈りをもって一日の仕事を始めている「シロアムの園」であっても、主イエスを心から信じていても、障がいがなくなるという奇跡は起こらないのです。
しかし、障がい者への差別が強い社会にあって、家で隠されるように過ごしてきた子どもたちが、シロアムの園ではあたたかく受け入れられます。施設のスタッフが、その子にあった食事の仕方、遊び方、対応の仕方を保護者と一緒に考えてくれます。孤独に暗中模索で世話をしてきたお母さんやお婆ちゃんも、笑顔で支えてくれる存在によって励まされます。そして、障がいをもった子どもたちが、小さなことでもできることが増えていく、子どもたちの楽しそうな笑顔がだんだん増えていく。そうすると、親御さんもスタッフも一緒に喜び合うことができます。シロアムの園であたたかく受け入れられることで、障がいのある子どもにも、親御さんにも、そして園のスタッフにも、生きる喜びが与えられるのです。「生きていて本当によかった!」と思えるのです。
主イエスを信じて主イエスに委ねて生きる時、今日の父親がそうであったように、わたしたちには主イエスという御方がだんだん見えてきます。自分を頼りにするのではなく、この御方にすべてをお委ねすればよいのだということが、分かってきます。そして主イエスは、この世が与えることのできない平安をわたしたちに与え、他者と一緒に生きる喜びをわたしたちにもたらしてくださるのです。
人生を一変させるような奇跡は起こらないかもしれません。しかしわたしたちは、わたしたちが生きている時も死ぬ時も、すべてをお委ねすることのできるお方を信じて歩むことができるようになるのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。この父親の叫んだ祈りを、わたしたちの祈りとして、これからの信仰生活を送っていきたいと思います。お祈りをいたしましょう。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を讃美いたします。10月の第一主日、愛する兄弟姉妹と共に対面でオンラインで、礼拝を守ることができ、心から感謝いたします。神さま、あなたは信仰をわたしたちに与えてくださいます。それは自らの力を誇る信仰ではなく、あなたに全存在をかけて依り頼む信仰です。どうか、かの父親と共に「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と祈ることができますよう導いていてください。季節は変わり、寒暖差の激しいこの頃です。どうか、兄弟姉妹が体調を崩すことなく、日々守られて過ごすことができますよう、お支えください。このひと言の切なるお祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。
【聖霊を求める祈り】主よ、あなたは御子によって私たちにお語りになりました。いま私たちの心を聖霊によって導き、あなたのみ言葉を理解し、信じる者にしてください。あなたのみ言葉が人のいのち、世の光、良きおとずれであることを、御霊の力によって私たちに聞かせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。