マルコによる福音書9章30~37節 2024年10月27日(日)主日礼拝説教
牧師 藤田浩喜
マルコによる福音書について、マルティン・ケーラーという聖書学者は「長い序文付きの受難物語」であると言いました。主イエスが「苦しみを受けて十字架につかれた」ことを、詳細に記しているからです。マルコによる福音書は、十字架の出来事の前にも、イエス・キリストが御自分の苦しみと死について三度予告されたと記しています。この三度の予告は、ちょうどバッハのマタイ受難曲の中でパウル・ゲルハルトの、「血潮したたる主の御かしら」が繰り返し表れるように、主イエスの御生涯を通じて響いて来る主旋律のようなものです。キリストの生涯は、十字架に向かって進む一筋の道でありました。
本日の聖書個所では、主イエスの一行がガリラヤを通過したことが述べられています。ガリラヤはこれまで主イエスが町々村々を巡り歩いて伝道された、主イエスの働きの本舞台でした。ところが、そこを今の主イエスは人目を避けて通り過ぎようとしておられます。今や主イエスの心がガリラヤから都エルサレムに向かい、十字架に向かっているのです。そして、人々に語りかけるのでなく、弟子たちに語りかけて、十字架に向かう心構えをさせようとしておられるのです。
ところが弟子たちは、主イエスの「苦しみと死」の教えを理解することができず、またその内容について「怖くて尋ねられなかった」(9:32)のです。第一回の受難予告(8:31)の時は、ペトロが主イエスをわきへ連れて行ってそれをいさめ、逆に主からその甘い考えをきつく正されました。しかし、弟子たちはなお依然としてこの予告の意味を理解することができず、むしろ主イエスに背を向けて、自分たちの運動が成功した暁に、めいめいが高い地位につくことを夢見ていたのです。ですから、かつての活動の根拠地であったカファルナウムに帰って来て、主イエスから「途中で何を議論していたのか」(9:33)と尋ねられると、彼らはそれに答えることができずに、「黙っていた」(9:34)のです。途中での主な議論は、「だれがいちばん偉いか」と議論していたからです。
このような、主イエスの心を全く理解せずに、他人と自分を比較して能力評価をしたり、自分を他人の上に立てて誇っていた弟子たちに対して、主イエスは「座り」(9:35)直し、て諭されました。この「座る」という言葉は、当時のユダヤ教の教師(ラビ)が弟子たちを教授する姿だと言われています。
主イエスは弟子たちに、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(9:35)と教えられました。これは、キリストの弟子は、人の上に立ってはならないと命じておられるのでしょうか。主イエスのもとにユダヤ教の会堂長とかローマの軍隊の百人隊長がやって来て教えを乞うていますが、その人たちを主イエスは非難されませんでした。人々が生活を支え、あるいは豊かにするために働くことや、また力に応じて人の上に立つことを、主イエスは禁じられませんでした。
かつてある教会の青年会の仲間の間で、会社に入って昇進することを願うのはエゴイズムであって、キリスト者には禁じられているのではないかという議論がなされたそうです。彼らは、当時その教会の信徒総代であった企業のトップも務められたことのある方にそれを尋ねたと言います。するとその方は、昇進するということは自分の奉仕の場が広がることであるから、そのために努力することは間違っていないと言われたのでした。この人は自分の地位を「奉仕の場」として受けとめていたのです。
主イエスの場合も、集団における指導的な働きを一切認められなかったわけではありません。現に御自分の弟子集団の中に十二人という指導グループを作っておられたのです。しかし、主イエスが十字架への道を歩み始められたこの時に、弟子たちがそれに全く無関心であり、自分たちの仲間内での序列争いに夢中になっていることに、心を痛められたのです。
ここで主イエスは、最も多く恵みを受けている者が最も多く奉仕することを求められていることを指摘され、「すべての人に仕える者になりなさい」と命じられました。これは何よりもまず、主イエス御自身の生き方でした。ある新約学者は、この「仕える者」(ディアコノス)という言葉が、主イエスの姿を最もよく示していると述べています。後に弟子たちの間での序列争いが再燃して、ついにヤコブとヨハネが、主イエスに弟子の第一位の地位を願ったことが記されています。そのとき主イエスは、世俗世界における権力追求的な生き方をはっきりと拒否されて、「仕える者」(ディアコノス)の道こそが、弟子の道であると教えられたのです(10:42~45)。ここで主は御自分こそが「ディアコノス」であると宣言しておられます。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(10:45)。
「ディアコノス」とは、元来は食事の席で給仕をする人のことでした。そこから、家族の生活を配慮すること、さらには何であれ人に奉仕することを指すようになりました。主イエスは、御自分が神の子であるという自覚をもっておられました。神の子であれば、人々が崇め、お仕えするはずです。ところが主は、自分は「仕えられるためでなく、仕えるために」来たと言われます。そして「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」と語られます。「身代金」とは、奴隷を買い戻すために支払うお金のことです。つまり、自分の身を犠牲にして人を救うために来たと言われるのです。
私たちが罪を赦され、神に受け入れて頂くために、主イエスが命を捨ててくださいました。主はそのようにわれわれの僕となってくださったのです。キリスト者は、この僕(キリスト)の僕であります。ですからキリスト者は、神に仕え、人に仕える「僕の僕」として生きることが求められているのです。
第二次大戦後暫く経った1950(昭和25)年ごろ、「アリの町」といわれた浅草の廃品回収業者の集落の人々を助けて「アリの町のマリア」と慕われた北原怜子(さとこ)という人がいます。この人が若い女性の身でこの集落に住みついたきっかけは、ゼノ神父というポーランドから来た修道士に出会ったからでしたが、その素地はその前につくられていました。
妹さんが取り寄せた高円寺にある光塩女学院の学校案内で、この学校の設立母体であるメルセス修道会のことを知ったのです。メルセス会は、中世末期に十字軍が聖地奪還のために戦っていた時代に創立されました。キリスト教徒とイスラム教徒の戦いは後になるほどイスラム軍の方が優勢になり、多くのクリスチャンが捕虜になり、奴隷にされました。この奴隷となった同朋を買い戻すためにヨーロッパでは募金運動が始まりましたが、先方が奴隷の値段をつりあげるので、間もなくこの買い戻しは困難になりました。
そのようなときに一人の青年がお金をためて、仲間の買い戻しに出かけるのですが、現地についてみると、手持ちの金額ではとても買い戻せないことが分かりました。一人の奴隷を何とか家族のもとに返せないものかと祈っていたとき、ふと心にひらめいたのが「もし自分が、捕虜になっている兵士の身代わりとなって、一生涯、誠心誠意、奴隷として仕えると申し出たら、先方の奴隷の主人も承知してくれるのではあるまいか」という考えでした。交渉を受けた先方は、このとてつもない申し出に驚くのですが、いやいや働く奴隷より、このような誠実な男に働いてもらう方が良いと判断して、それを承知しました。それを聞いた本国スペインの人たちが、彼の先例にならって、奴隷の身代わり運動を始めました。それがメルセス会の起源です。北原怜子さんは高円寺カトリック教会で洗礼を受け、このメルセス会の精神で浅草に出かけて行ったのです。
このように自分の身を文字通り犠牲にして他者に仕える人がいること、そのすさまじいばかりの愛にわれわれは圧倒されます。しかし、そこから改めて、彼らをそこまで動かした、イエス・キリストの愛に圧倒されるのです。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(Iヨハ3:16)。主イエスが「すべての人に仕えなさい」と言われたのは、この道を歩んでいく私を見つめながら歩みなさい、という励ましなのです。
「だれがいちばん偉いのか。」今日の弟子たちは、こう論じ合っていました。皆さんなら、この問いに何と答えるでしょうか。この問いに対しての答えは、何の注釈も付いていなければ、それは主イエスに決まっています。弟子たちも、そんなことは分かり切ったことで、だれがいちばん偉いかと論じた時に、主イエスのことは論外だったでしょう。主イエスは外して、自分たちの中でだれが偉いのかと論じていたのでしょう。
しかし、それが問題なのです。「だれがいちばん偉いか。」この問いの答えは、主イエス以外ないのです。そして、その答えを明確にするならば、二番以下を比べることに意味がないことを知るはずだからです。なぜなら、主イエスがいちばん偉いということが明らかにされる時、同時に、私たちはただの罪人に過ぎないということも明らかにされるからです。私たちは、自分がただの罪人であることを忘れると、人と比べ、だれが偉いかと言い始める。そして、自分もまんざらではないと思い始める。これが信仰の堕落です。
私たちは、ただ主イエスを見上げて、主イエスに従っていくだけです。その時、自分の隣にいるのは、ライバルではなくて、共に主イエスに仕える同労者であり、心から愛すべき友であり、神の家族なのです。私たちはその人を批判する前に、自分がその人を受け入れているか、その人に仕えているか、その人を愛しているか、そう主イエスから問われるのでありましょう。
私たちは本当に、よき所などどこにもない、ただの罪人です。しかし、その私のために、神様は主イエスを与えてくださいました。この神様の愛だけが、私たちを助け、私たちを救い、私たちを生かすのです。「わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから」(詩編121編1~2節)。助けは、私たちの中から湧き上がってくるのではないのです。ただ、天地を造られた主のもとから助けは来ます。この主から来る助けを信じ、十字架の主イエスに従って、すべての人に仕える者として、この一週間も歩んでまいりたいと思います。お祈りをいたします。
【祈り】主イエス・キリストの父なる神さま、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と対面で、オンラインで礼拝を共にすることができましたことを、感謝いたします。だれがいちばん偉いか。これは私たちの心に時として湧き上がってくる思いです。人間は人の上に立ちたいのです。しかし神に御子である主イエスが、仕える者として十字架に御自身を捧げてくださいました。私たちを罪と死から命へと贖いだしてくださいました。この僕として仕えてくださった方の僕として、私たちも従っていくことができますよう強めていてください。気候が不順で寒暖差のある日々です。どうか、群れに繋がる兄弟姉妹一人ひとりの心身の健康をお支えください。この一週間もあなたを見上げて歩ませてください。このお祈りを、主の御名を通してお捧げいたします。アーメン。