人の哀しみと神のご計画

創世記16章1~6節 2025年8月17日(日)伝道礼拝説教

                           牧師 藤田浩喜 

 アブラムは、神様から「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」(15:5)という約束を与えられていました。しかしいつまで待っても、子どもが与えられる気配はありません。アブラムもサライも、もう子どもが与えられる年齢ではありませんでした。そこで彼らはある行動に移ります。サライには、ハガルという女奴隷がいました。サライはアブラムに言いました。「主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません」(16:2)。

 このハガルは「エジプト人奴隷」(16:3)でありました。アブラムとサライは、かつて飢饉を逃れてエジプトに一時滞在したことがありました(12:10~20)。エジプトを出るときには、たくさんの財産を持って出た、ということでしたので、この女奴隷ハガルもその中に入っていたのかもしれません。

 今回の16章の物語は、あのエジプト事件と通じるものがあり、しかも対比的な内容です。エジプト行きのときには、アブラムは「妻が美しすぎるので、自分が殺されるかもしれない」と不安になり、妻サライに「どうかわたしの妹だ、と言ってくれ」と頼みました。アブラムの予測は的中いたします。案の定、彼女は人目を引くのですが、予想外のことまで起きてきます。ファラオの妻にされそうになったのでした。しかしそれを神様は見過ごしにされません。神様が介入し、疫病を起こさせ、二人はエジプトから出ていくことになりました。

 さて、あのときはアブラムがサライに頼んだのですが、今回は、サライのほうからの頼みです。彼女はどうしても子どもが欲しかったのでしょう。

 サライの提案は、当時彼らが住んでいた世界ではしばしば行われていたことのようです。妻が子どもを産めない場合、妻はその夫に対して奴隷女を身代わりとして提供する。生まれてきた子どもは、女主人によって出生したものとみなされる。その子どもは女主人の所有とされる。そういう法律があったようです。古くハムラビ法典の中にあるそうです。今日の「代理母(だいりぼ)」に近いものかもしれません。これは、子どものいない主人夫婦に対しては、深い理解を示したものであると言えますが、代わりを務める女性にしてみれば、子どもを産むための代用品、目的を遂げるための手段とみなされるわけですから、いかにも非人間的な扱いです。もともと奴隷ですからそれも当然、となるのかもしれませんが。

「アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった。アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった」(16:2~4)。75歳と65歳の夫婦が十年間待ち続けたのです。それでも子どもが与えられなかったわけですから、彼らの行動も無理もないように思えます。そこにはある種の悲哀が漂っています。                            

 エジプト事件のときには、アブラムがサライとファラオを巻き込んで自分を救おうとしましたが、今回はサライがアブラムとハガルを巻き込んで、自分の地位を高めようとします。かつてはアブラムがファラオをだましてサライを自分の力で動かそうとしましたが、今回はサライがアブラムを説得して、ハガルを自分の力で動かそうとします。かつてはアブラムが保身のためにサライをモノとして扱いましたが、今回はサライが自分の願いのために、ハガルをモノとして扱います。サライは、父権制社会においては女という弱い立場にありましたが、ここではさらに弱い立場の者(奴隷)を利用するのです。夫も夫であれば、妻も妻という感じがします。

 アブラムは、サライの計画を止めようとはしません。彼は、「サライの願いを聞き入れた」(16:2)とあります。もしかしたら、アブラムもそれを、つまり若い女奴隷と床を共にして子どもを得ることを、望んでいたのかもしれません。自分のほうからは言えないことを、サライのほうから言ってくれたので、喜んで床を共にした、ということもあり得るでしょう。

 これは、創世記3章の「禁断の木の実を食べる」話にも通じます。あのとき、アダムは、妻に差し出されて、その実を食べました(3:6)。この服従(妻の言いなりになること)は、あたかも今回のやっかいな問題の前兆のようです。

 このところの「(サライはハガルを)夫の側女とした」という文章は、原文では「妻として夫に与えた」という表現です。この日からハガルはサライの女奴隷であるだけではなく、アブラムの第二夫人になるのです。「あなた、これを食べなさい」と差し出されたものを食べる。ハガルが「禁断の木の実」になるのです。あのときと同じです。夫のほうは、妻から差し出されたものを、疑うことも、反対することもなく、食べる(受け入れる)のです。ここでは、アブラムは全く従属的な人間です。

 ここから物語は、三人の複雑な関係へと展開していきます。それまで全く受動的であったハガルが、一人の人間として自分の意志をもち始めます。いやこれまでも、もっていたのでしょうが、それが表面に出てくるのです。

 サライの計画通り、ハガルは妊娠いたしました。ところが、サライの想定外のことが同時に起こってしまいました。ハガルは、自分が妊娠したのを知ると、女主人を「軽んじ」始めたのです(16:4)。原文では「彼女の目に、取るに足りないものとなった」という表現です。それは立場の逆転を予期させることでした。ヘブライ人であるサライは、既婚であり、裕福であり、自由ですが、老齢で不妊の女です。他方、エジプト人であるハガルは、独身であり、貧乏であり、奴隷ですが、若くて妊娠可能です。

 ハガルはそれまで奴隷という立場でしか、ものを見ることができませんでしたが、新しいものの見方が彼女の中に入ってきました。高められていた女主人が低くなり、地位の低い奴隷が高められるのです。サライは期せずして、この状況を準備してしまったことになります。ハガルをアブラムに第二夫人として与えることによって、ハガルの地位を押し上げ、それに応じて、自分自身を低めることになってしまった。二人の緊張関係が高まっていきます。

 この二人の女性の人間関係の変化については、当然アブラムの態度も影響しているのでしょう。ハガルが妊娠したのを知ると、アブラムはハガルをこれまで以上に重んじたり、かわいがったりしたのではないでしょうか。サライにしてみればおもしろくありません。しかし今もなお、サライはアブラムの第一夫人であり、ハガルの女主人です。

 サライは、再び夫に詰めよります。「わたしが不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのはわたしなのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、わたしを軽んじるようになりました」(16:5)。さらに神様をもち出して、「主がわたしとあなたとの間を裁かれますように」(16:5)。

 彼女の論理は、どうも破綻しているように思えるのですが、もう何を言っても耳に入らない感じです。「女奴隷を与えた」ときに、その帰結は彼女も負うべきものでしょう。しかし彼女は、その責任を夫に転嫁しようといたします。彼女にしてみれば、「あなたがもっとハガルをきちんと教育すべきだった。なんで私をもっと尊敬するようにさせなかったの!」ということでしょう。その「恐妻家」に対して、アブラムのほうもたじたじです。なすすべがない。彼自身にもきっと負い目があったのでしょう。その日以降、アブラムはハガルと「べったり」になり、サライを遠ざけていたのかもしれません。それにしても妻公認のもとに、若い女を夫に与えたら一体どうなるか、サライは予期できなかったのでしょうか。

 アブラムの答えも全くふがいないものです。「あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい」(16:6)。もう少し、ハガルの立場に立ってやれなかったものかと思います。アブラムはアブラムで、こういう三角関係になってしまった責任を自分で負うことはせずに、その責任を放棄して逃げるだけです。

 これも、あのエデンの園で禁断の木の実を食べてしまったときとよく似ています。あのときアダムは、「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と、女と神様に責任を転嫁しました。主体性が全くない。そして女のほうも、「蛇がだましたので、食べてしまいました」(3:13)という答えをしたのでした。

 この日から、女主人の女奴隷に対する虐待が始まりました。アブラムが責任を負わない結果を、ハガルが負わされることになります。一番弱い立場のものがそれを負わされるのです。サライは直接、彼女を虐待したかもしれませんが、アブラムのしたことも(広義の)「ネグレクト(無視)」という虐待にあたるのではないかと思います。

 そしてハガルは、耐えられなくなって、サライのもとから逃げ出すのです。このハガルは、聖書の中で、抑圧者のもとから逃げ出した最初の人間となりました。彼女はエジプト人なので立場は逆ですが、奇しくも出エジプトの先駆者となったと言うこともできるでしょう。

 さて、この物語を私たちはどう読めばいいのでしょうか。三人三様に非があることは事実です。しかしその中で、ハガルの「女主人を軽んじる」という非は最も小さなものでしょう。彼女がそういうところへ陥れられたのですから。むしろ彼女は身ごもって、これまでの自分とは違う自分の価値を見いだしたのかもしれません。ただそれが未熟なままで生の形で現れたので、上に立つ人間のハラスメントに遭うことになったのです(パワハラ)。しかもアブラムとの性行為を強いられたことはセクハラにもあたるでしょう。

 サライの行為は一番問題があるかもしれませんが、彼女もまた「子どもをもたなければ女として認められない」という、抑圧社会における被害者でもあるように思います。サライの悲哀を感じるのです。

 しかしある状況においては被害者であっても、立場が逆転するととたんに虐待者になるのです。それは今日に至るまで、いろいろな形で起こっているのではないでしょうか。

 例えば、今日におけるユダヤ人をめぐる問題もそうでしょう。ユダヤ人はこの2000年間、特にキリスト教世界において大きな差別を受けてきました。その最大の悲劇が、第二次世界大戦中のアウシュビッツを代表とするユダヤ人の大量虐殺であると思います。その責任はキリスト教世界にあります。

 その次の時代に何か起こったか。1948年中東の真っただ中にイスラエル国が建国されました。世界中の同情がユダヤ人に集まっていたときですから、国連もそれをさっと認めました。もともとそこにはパレスチナ人が住んでいたのですが、「国なき民に国を、民なき国に民を」というキャッチフレーズがまことしやかに語られました。

 しかし、その後の70年間に起こって来たことは、パレスチナ人の排除と迫害であります。ドイツを初めヨーロッパ各地であれほど痛めつけられたユダヤ人が、イスラエルにおいては加害者となってしまうのです。イスラエルの背後にある国々は、あのときアブラムがサライに言ったのと同じように、「その土地はあなたのものだ。好きなようにするがいい」と、イスラエルのパレスチナ虐待を容認しています。その結果が、今日のイスラエルによるパレスチナのジェノサイド(虐殺)にまで及んでいるのです。その中心にいるのは、そもそもの責任者であるキリスト教世界の国々です。ドイツも過去の負い目から口出しできません。私たちはクリスチャンとして、そういう重い責任から出発しなければならないと思います。そうでなければ、問題は解決しないでしょう。

 しかし神は、それぞれの悲哀を知っておられる。そして悲哀がそのままでは終わらないという約束をしておられます。イエス・キリストは言われました。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。

 このときのサライの悲しみもやがて、別の形、もっと大きな形で慰めを受けることになります。またこのとき一番大きな苦しみを受けたハガルの悲しみも、神様は忘れてはおられません。ハガルがサライのもとから逃げていく中で、神様は御使いを通して、彼女に励ましと慰めの言葉をかけられることになるのです。この物語は、この後も続いていくのです。お祈りをいたします。

【祈り】主イエス・キリストの父なる神様、あなたの貴き御名を心から讃美いたします。今日も愛する兄弟姉妹と共にあなたに礼拝を捧げることができましたことを、感謝いたします。創世記のアブラムの物語を通して、人間の愚かさとそれゆえに負うべき哀しみを知らされました。こうした愚かさと哀しみは、わたしたち一人一人のものでもあります。どうか、あなたに目を上げて、この愚かさと哀しみから決別することができますよう、わたしたちを導いていてください。そしてあなたが必ず与えてくださるまことの慰めを、待ち望むことができるようにしてください。まだまだ暑さ厳しい日々が続きます。どうか兄弟姉妹の心身の健康を支え、猛暑の日々を無事に過ごすことができますよう、導いていてください。この拙きひと言の切なる願いを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げいたします。アーメン。